トップ - 小説一覧 - 雨のち晴れ 1234


 大嫌いな相手だった。今だって手を握られて怖い。
 それなのに胸が高鳴る。


  4.始まり


 桃子をからかったり、嘘をついているようには見えなかった。葵の真剣な目に飲み込まれそうになるのを感じて桃子は俯いた。きつく握られた両手が熱くて、痛い。
「じゃあ、なんで」
 桃子は掠れそうになる声で問う。
「なんでひどいことばっかりしたの」
 葵の手が一瞬緩みかけた。
 今思えばくだらない嫌がらせ。それでも桃子の心には見えない傷がたくさんついた。
「おれ、小川のことが嫌いだった」
 僅かにトーンを落とした声が、さっきとは正反対のことを告げる。
「妙におどおどしたところが気に食わなかったし、そのくせ何も悩みがないみたいな能天気な顔で笑ってるのもむかついた」
 かつての傷が痛み、桃子は唇を噛んだ。
「あと、一回無視されたのも許せなかった」
 拗ねたような言い方に桃子は顔を上げた。
「無視って、何……?」
「……覚えてないなら、いい。とにかく、それでも俺がしたのは最低のことだったって、今ならちゃんとわかる」
 葵に見据えられ、桃子は咄嗟に手を引こうとしたが葵は桃子の手を強く掴んだまま離そうとはしなかった。
「あー、駄目だな、また順番を間違えた。小川」
 葵の手にさらに力がこもる。
「ごめん。おれ、しちゃいけないことをした」
 三年前の面影の残る顔と、声変わりをした聞き慣れない声。手も、こんなに大きくはなかったはずだ。桃子をいじめていたときとは違う葵。桃子自身も自覚はないが葵から見ればどこか変わったように見えるのだろうか。
「いまさら許してくれなんて言えないけど、でも」
「嫌いなのに好きって、変だよ」
 葵の謝罪には答えず桃子は言った。
「嫌いだったって言っただろ。過去形ってやつだ。好きは現在進行形」
「だから、嫌いだったのがなんで好きになるの」
「あの日のこと、小川も覚えてるだろ」
 あの日。桃子と葵の共通する思い出はそれほど多くはない。なおかつその後葵の態度が一変した出来事で思い当たるのは一つしかなかった。
「……モモコ」
 桃子と同じ名を呼んで泣いていた葵。
「小学生になって家族以外の前であんなに泣いたの、あのときが初めてだった」
 桃子だって初めてだった。目の前で男の子にあんなに泣かれたのは。
「おれ、あのとき小川に救われたんだ」
 葵の目に茶化すような色はない。それが桃子を余計に追い詰める。
「小川がいなかったらモモコのこともちゃんと送ってやれなかった」
 少し大人びた笑みを葵は浮かべた。
「ありがとう」
 桃子は葵の言葉を真っ直ぐ受け取ることができない。葵に構ったのは、ほんの気まぐれ。最初は同情からだったが、結局弱った葵にならいつもの仕返しができるかもしれないと考えたからだ。
 そこで桃子はふと疑問に思った。確かにあの日の出来事がきっかけで葵の態度が変わった。でもそれは。
「あの後、つきまとったり、変なノート渡してきたりしたのって、私があのことを誰かに言わないか気になったから、だよね……?」
「あ? 何言ってんだ? 清い男女交際は交換日記からだろ」
 桃子は再びぼかんとする。
「登下校は手を繋いでがよかったけど、あんまりあからさまにやると周りがうるさいからな。それは中学生になってからにするつもりだった。なのに中学が別なんてさ。一世一代のプロポーズも断られちゃうし。あ、だからって別に春休みの間ずっと泣いたりなんかしてないからな」
「……まさか、私のこと好きだったの?」
「さっきからそう言ってるだろ。おれ、小川にはひどいことばっかしてたのにあんなにやさしくしてくれて、あのときは小川が天使に見えた。今も天使に見える」
 あそこで間違えたのだ。桃子はようやく気づく。あの気味の悪い嫌がらせの日々やわけのわからない交換日記だけでなく、卒業式の後の忌まわしい出来事も、そして今も、全てあれが元凶だったのだ。
「小川がこんなに鈍いなんて思ってなくておれの気持ち、今までちゃんと伝えたことなかったからな」
 まだ葵と同じクラスになる前、本当に何の関わりもなかった頃は目立つ葵に憧れのような感情を抱いたこともあったが、葵の本性は最低最悪だと後に身をもって知った。
(本性)
 時々垣間見えたやさしさは何なのだろうと桃子は思う。あれも葵の一面なのか。
「小川?」
 桃子は何かを振り払うように頭を横に振った。
「私、天使じゃない」
「え?」
「天使じゃないから上条くんのことも許せない。大体あのときは」
 仕返ししようとしただけだと言いかけて、桃子は葵の顔が悲しそうに歪んだことに気づく。
(私が、こんな顔をさせた)
 怖いと、思った。高校まで追いかけてくるほどの葵の好意を。気まぐれの行動が、葵の人生の一部を決めてしまったことを。
「私、は」
 確かに最初は桃子が気づかないうちに葵を傷つけたのかもしれない。だからと言って葵がしたことを桃子は許せない。毎日のように泣いて苦しんだあの日々を桃子は忘れない。些細な嫌がらせでも桃子にとっては些細ではなかった。
 それなのに余計な記憶が邪魔をする。やさしくされたことよりも傷つけられたことのほうがはるかに多いのに、拒絶の言葉を口にできない。それにあの卒業式の日とは違い今は、葵が傷つくのがわかっているから。
(私は、好きなの?)
 今まで、葵を恋愛対象として見たことなどなかった。見ることができる状況でもなかった。
「……わからないよ」
 桃子にとって葵は何なのかがわからない。恐怖の対象でしかなかったはずが、今は何かが違う。
「上条くんなんて大嫌いだったのに、わからないよ」
「嫌いが好きになるなんてよくあることだ。おれもそうだし」
「でも、許せないよ」
 桃子は自分に好意を抱いているらしい葵を突き放すこともできず、かと言って全てをなかったことにして葵の気持ちを受け入れることもできない。
「許せないのに、今は大嫌いって思えない」
 いじめられていたときには知らなかった葵を知ってしまったせいだ。
「上条くんが本当に最低なヤツだったら、大嫌いのままでいられたのに」
 一年も続けた交換日記で、桃子はそれまで知らなかった葵をたくさん知った。実際に葵のやさしさに触れたこともあった。
「おれ、今まで傷つけた以上に小川のこと幸せにする」
「でも」
「卒業式の日はいきなり結婚って言って小川を驚かせちゃったからな。今度は大丈夫だ」
「え?」
 嫌な予感が背中を這い上がり桃子は体を退く。
「結婚を前提に付き合おう!」
「え、ちょっと、待って」
「おれは小川がいないと幸せになれない」
 桃子は必死に首を横に振った。
「ま、待って、考える時間を」
「もう三年も待った。これ以上待つなんて無理だ」
「そんなの」
「おれ、ずるいんだ。嫌われるのがこわくて、小川の家族におれがしてきたこと何も言ってない。でも今なら小川の父ちゃんに殴られる覚悟だってできてる」
「家族には言わなくていい!」
 自分がいじめられていたことを桃子は家族には隠してきた。今になって知られるなんて冗談ではない。
「いいのか? おれ、小川にも殴られる覚悟できてるから。それでちょっとは気が済むなら殴れ」
 小学生のときだったら、喜んで殴っただろうか。無理やり唇を奪われたあの日なら殴ったかもしれないが、今はそういう気にはとてもならなかった。
「私は……殴らないよ」
「……うん、だな。小川はそんなことしない。この手は人を殴る手じゃなくて救う手なんだ」
 恥ずかしいセリフを真顔で吐きながら、葵は握っていた桃子の手を開きてのひらを親指でなぞる。
 桃子は自分の顔がどんどん紅潮するのを自覚した。葵が自分の手を見つめ、触れている。こんなに愛しそうに。
 放課後の冷え切った教室で一人泣いていた葵。あのときの態度とは正反対だ。
 いつか、と願ったことがあったのを桃子は思い出す。

 ――上条くんがいつか私を嫌いじゃなくなる日が来ますように。

 無駄だと悟ったのかいつの間にかそんなことを願っていたことすら忘れていた。
 叶うならもっと早く叶ってほしかったと桃子は小さく息を吐いた。こんなややこしい感情を抱くようになる前に。
 許せないという気持ちはあるのに以前のように心の底から葵を嫌いだと思えない。
 嫌いだと、はっきり拒絶できればどんなに楽だろう。傷つく葵を見たとしてもむしろ清々するくらいの気持ちでいられれば。
(違う)
 桃子はその考えをすぐに打ち消す。楽かもしれないが、その道はきっと不幸だ。
 あのつらい日々はもう終わった。謝罪だって受けた。深く傷ついたとは言え客観的に見れば、されたのはいかにも子供っぽいくだらない嫌がらせばかり。きっと大人になればもっとつらいことがたくさんあるに違いない。それをいつまでも許せないと恨み続けて、何になるのだろう。
「私、上条くんの自分勝手なところが嫌い」
「な、何だよいきなり」
「ずっとひどいことしてきたのに、ちょっとやさしくされたくらいで好きになったり、結婚とか、言い出したり、あんなことだって」
 十二歳のファーストキス。
 思い出すたびに覚えるのは、甘い感情とは程遠い苦い感情だった。好きでもない相手とキスをしてしまったショックと罪悪感が桃子を苛んだ。
「人の家族にも、勝手に挨拶とかありえないし、高校まで追いかけてくるし」
 桃子の手に触れている葵はその手が震えていることに気づき、何も言わずに桃子を見つめた。
「嫌いだったのが好きになるなら、その逆もあるってことだよね」
 許せないのは、怖いからだ。
 許して、葵を好きになって、そしてまた葵に嫌われたら。
「上条くんがまた私のこと嫌いになったら、私、どうすればいいの」
 気まぐれの行動の結果がこれなら、また何かのきっかけで元に戻ってしまうかもしれない。またあの冷たい目を向けられたら、伸ばした手を振り払われたら、きっともう立ち直れない。
「大丈夫だ」
 力強い声が、桃子の不安を押し退けるように告げる。
「もし嫌いになっても、おれはまた小川のことを好きになる」
「な、に……それ」
「ばあちゃんもじいちゃんのこと好きになったり嫌いになったりしたって言ってた。人ってそういうもんなんだって。だから運命の人だと思ったら簡単に離れちゃ駄目だって」
「う、運命の人って」
「だから結婚を前提に付き合おう!」
 答えになっているのかいないのかわからないまま話が戻ってくる。
「おれ、小川と一緒にじいちゃんとばあちゃんになりたい」
 こんなに誰かに求められることはこれが最初で最後かもしれない。
 いじめられたりしなければ、もしかしたら恋をしていたかもしれない相手。
「わた、し」
「何だ?」
 手はずっと葵に握られたまま、心臓も物凄いスピードで血液を体中に送り続けている。息苦しさを感じながら桃子は口を開いた。
「やっぱり、付き合うとか、無理、だよ」
 見つめた葵の瞳が揺れる。桃子は一瞬迷って、続けた。
「だから、友達じゃ、駄目?」
 これが今の桃子の精一杯だ。葵は桃子から目を逸らすことなく、じっと見つめ返す。
「……わかった」
 頷いた葵が身を乗り出した。
「結婚を前提にした友達から始めよう!」
「え」
「交換日記もまた始めよう。あ、そうだ、小川、携帯持ってるか?」
「ま、まだ。携帯は高校生になってからって、言われて」
「じゃあもうすぐ買ってもらえるんだな。おれは家族同士の連絡に必要だからって、結構早いうちに持たせてもらった。早く小川とメールしたいなあ」
 葵は嬉しそうに桃子の手を持ったまま両腕を左右に振り回す。
 結婚を前提に、という言葉がなくならなかったのは気になるが、いきなり付き合うという事態にならなかったことに桃子はとりあえず安堵する。それからさっきからずっと気になっていたことを口にした。
「あの、手、そろそろ離して」
 桃子に言われやっと気づいたのか、葵は名残惜しそうに手を離した。
 桃子はすぐには消えない葵の手の感触を紛らわそうと両手をきつく握り締めた。
「小川の手、何か小さいままだな」
「え、そんなこと、ないよ」
 思わず机の下に手を隠す。桃子だってそれなりに成長している。葵がそれ以上に大きくなっただけだ。
「それにしても不思議だ。前はブスに見えたのに、今は小川のことが何かすっげえかわいく見える」
「は、え?」
「明日からはやっと一緒に登下校できるんだな。あ、帰りは今日から一緒か。今度こそ手繋ぐぞ」
「ま、待って、友達って」
 葵の一言に沸騰しかけながらも桃子は抗議する。
「だからキスするのは我慢してるだろ」
「キ、って……も、もう帰るから!」
 桃子は大きな音を立てて立ち上がった。恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。
 昔から葵は思ったことをずばずば言うタイプだったが、それでももう少し恥じらいを持っていたはずだ。
「よし、じゃあ早速手を」
「手を繋がないといけないなら友達もいや」
 涙目の桃子に葵はわざとらしくため息をついた。
「小川ってわがままだな」
「か、上条くんに言われたくない!」
「でも一緒に帰るくらいはいいだろ? 駅も一緒だし」
 桃子は断りたい衝動に駆られつつも渋々頷いた。
 これからの日々が確実に平穏ではなくなるとわかっているのにかつてのような絶望感がないのは、葵が自分に笑顔を向けているからかもしれない。
 葵と随分長い時間会話していたことに妙な感動を覚えながら、桃子は鞄を右肩に掛けた。
「おーい、早くしろよー」
 子供のようにスキップをして先に教室を出た葵に呼ばれ、桃子は慌てて後を追いかけた。


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