トップ - 小説一覧 - 雨のち晴れ 1234


『あさってはとうとう卒業式だ。卒業はちょっとさびしいけど、たくさん練習したから卒業式はきっとうまくいくと思う。六年はけっこう長いけど今ふりかえるとあっというまだったような気もする。中学は小学校の半分しかないからもっとあっというまだろうな。父ちゃんも大人になればなるほど時間はあっというまにすぎるって言ってた。小川とは中学に行っても同じクラスになりたいです。新しいノートももう用意してあります。葵』


  3.告白


 ベッドに寝転びノートを広げた桃子は思わず笑った。葵とは明日でお別れなのだ。同じクラスどころか同じ学校ですらない。朝、顔を合わせてしまうのが怖いが、桃子は七時前には家を出る。葵もさすがにそんなに早くからはいないだろう。
「新しいノート……」
 一年やりとりしてきたこのノートも大分くたびれてきた。葵は中学に行っても続けるつもりでいるのか。
 最初は煩わしく、今も正直煩わしいがすっかり生活の一部になってしまった交換日記。桃子は葵に余計なことをたくさん知られてしまった。逆に桃子も知りたくもなかった葵の意外な一面をたくさん知っている。
 桃子の学校以外での行動が気になるだけなら葵まで日記を書く必要はないのにと、今頃になって思う。
(変なヤツ)
 弱みを握られているからか確かに葵は少しだけやさしくなった。桃子がゴミ捨てに行くときは半分持ってくれるし給食をひっくり返したときも「どじ、まぬけ」と言いながらも片付けるのを手伝ってくれた。運動会で転んで膝をすりむいたときは、桃子の抵抗を無視しておぶって保健室まで連れて行ってくれた。タイミングよくなのか悪くなのか、風邪をひいて臨海学校に行けなかった桃子に浜辺で拾ったらしい綺麗な貝殻をお土産にくれた。
 でもそれで全てなかったことになるわけではない。
 桃子は起き上がり、最後の日記を書いた。

『やっと卒業できると思うととても嬉しいです。本当に嬉しいです。不安なこともあるけど中学生になったら今よりももっといろんなことをがんばりたいです。上条くんもがんばってください』



 卒業式も無事終わり、周りは写真を撮ったり会話に花を咲かせたりしているがそんな相手もいない桃子はあとは帰るだけだった。
 校門を出れば全てが終わる。見上げた空は桃子の明るい未来を表すように青く澄んでいた。
(あと一歩)
 あと一歩で全てが終わる。
「小川」
 桃子は思わず肩をすくめた。最後の最後で一番聞きたくなかった声に呼び止められる。
 おそるおそる振り返ると、一番見たくなかった姿がそこにあった。
「な、な、何」
 葵は桃子の左手を掴み何も言わずに歩き出した。

 わけがわからないまま連れて行かれた先は校舎裏の狭いスペースだった。薄暗くひと気がない上に校舎の壁と木に挟まれて圧迫感を感じる。こんなところで葵と二人きりだなんてどう考えてもいいことではない。
 グレーのジャケットにネクタイという見慣れない姿の葵。桃子も卒業式のために紺のブレザーとチェックのプリーツスカートでいつもとは少し違う格好をしていて妙に気恥ずかしい。
「ずっといつ言おうか迷ってたんだけど、やっぱり今日しかないと思うんだ」
 葵は視線をあちこちにさまよわせてから、意を決したように深呼吸を何度かして桃子を見た。
「結婚しよう」
 意識をその場から遠ざけて現実から逃避していた桃子は、葵が発した言葉が頭に入ってこなかった。
「え?」
「父ちゃんと母ちゃんにしたいって言ったら男は十八にならないと駄目だから、今は婚約だけにしておけって。給料三ヶ月分の指輪はまだ買えないから、今はこれで我慢しろ」
 何の話をしているのだろうと、ぼんやり桃子が思っている間に葵が桃子の左手を取った。
「え、何」
 薬指に何かを通される。
「あ、しまった、ちょっとでかい」
 一目で玩具とわかる、小さなイミテーションの宝石がついた銀色の指輪が薬指にはめられていた。
「これ、何?」
「婚約指輪に決まってるだろ。サイズぴったりじゃないけど、小川の手もすぐにでかくなるだろうし、絶対なくすなよ」
 桃子は満面の笑みを浮かべている葵をまじまじと見つめた。
「意味が、わからないんだけど」
「そのまんまの意味だろ。あ、そうだ、大事なこと忘れてた。小川」
 葵は桃子の肩に両手を置いた。
「な、何」
「誓いのキス」
 大真面目な顔で葵は言い切った。
「え、何、何、や」
 後ずさりしようとしたが肩をがっちり押さえられて動けない。思わず辺りを見回している間に、目を閉じて唇を突き出した葵の顔が迫ってくる。桃子は咄嗟に両手で葵の顔を押さえた。
「そんなに恥ずかしがらなくても大丈夫だ。おれも初めてだから」
「やだやだやだ」
 桃子に顔を押さえられてもなお迫ってこようとする葵に本気で恐怖を覚えた桃子は、必死に抵抗する。
「だから恥ずかしがるなって、言ってるだろ……!」
「いや、だ……!」
 顔を背け葵を押し返す。桃子はどうしてこんなことになっているのか理解できない。ただ、とてつもなく危険な状況だということだけはわかった。
「……もういい」
 不意に葵の力が緩んだ。桃子もつられて葵の顔から手を離した。
「なんちゃって」
 にやりといやらしい笑顔を浮かべた葵。しまったと思ったときにはもう遅かった。今度は頭を掴まれ反射的に目を閉じた瞬間唇にやわらかい衝撃。
 僅かの間だったが確かにそこに触れたものがあった。葵の手から解放されゆっくり目を開けると、真っ赤になった葵の顔が飛び込んできた。
「う、あ、あれだな、うん、あれだ、大人の階段を一つ上った」
 一人でぶつぶつ呟いている葵に、桃子は何が起こったのかを理解しようとする。
 キス。されたのだ。葵に。
 人生で一度きりのファーストキスを、よりにもよって葵に。
「……泣くほど嬉しかったのか?」
 堪えきれずに溢れた桃子の涙を見た葵の言葉に、桃子の中の何かが音を立てて切れた。
「……だ」
「ん?」
「上条くんと結婚なんて、絶対にいや!」
 桃子は腕に引っ掛けていた手提げ鞄を葵に向けて振り回す。
「おわ、何すんだよ、危ないだろ!」
「上条くんなんて大っ嫌い!」
 桃子はそれだけ叫ぶとその場から走って逃げた。







 逃げて、それで終わったはずだった。心配だった葵の報復も杞憂に終わった。あれ以来一度も顔を見ることもなかった。
 最悪な出来事はしばらく桃子を苦しめたが葵がいない中学生活はかつてとは比べものにならないくらい平穏で、そして幸せだった。仲のいい友人も何人かできた。高校生活も同じように平穏で幸せに送るはずだった。
 そのはずだったのに、どうして葵の笑顔が今目の前にあるのだろう。
「クラスは別になっちゃったけど、隣だし、今までと比べたら全然いいや」
 確かに入学式のとき、見覚えのある顔が視界に入ったような気がした。でもそれは気のせいのはずだった。気のせいでなければならなかった。
 帰り支度はもう済んで、あとは教室から出るだけだったのに聞き慣れない声のどこかで見たことがある顔に呼び止められた。運よく同じクラスになれた中等部からの友人は、何か変な勘違いをしたらしく気を利かせて先に帰ってしまった。他の生徒も、一人また一人と下校して教室に葵と二人きり。あの日を、思い出す。
「中学が違うなんて全然知らなくて、本当にショックだったんだからな」
 葵が何を言っているのかわからない。どうして葵がこの教室にいるのかわからない。どうしてこの学校にいるのかわからない。葵が着ているのはどう見ても同じ高等部の制服だ。
「なんで、ここに」
 やっと声を絞り出して桃子は尋ねた。
「小川が同じ中学じゃないってわかって、すぐに小川んちに行ったんだ。そのときに教えてもらった」
「へ?」
「ちゃんと小川の父ちゃんと母ちゃんにも挨拶したぞ。小川はいなかったけど小川の姉ちゃんがいてさ、メル友になったんだぜ」
 得意気に言う葵を、桃子はぽかんと口を開けて見るしかなかった。
「あ、挨拶って……え、メル友……?」
「小川のことが好きだってちゃんと伝えた。プロポーズして断られたけど諦められないって言ったら応援してくれたんだ。小川の姉ちゃんには小川のこと時々教えてもらってた」
 桃子は血が一気に顔に上るのを感じた。
「そんなの、聞いてない」
「小川が恥ずかしがって嫌がるかもしれないし、高校は同じところに行って小川を驚かせたいからおれが来たこととか小川には言わないでくれって頼んだからな」
 混乱する頭で記憶を辿る。そう言えば何か違和感を覚えた日があった。確か中学に入ってすぐの頃、珍しく夕飯の食卓に赤飯が並んだ日があった。さらに桃子は思い出す。そのときの両親の妙に嬉しそうな顔と、姉の何かを言いたそうないやらしい笑みを。何かあったのか尋ねてもはぐらかされて特に気にも留めなかった。
「小川んちって、父ちゃんも母ちゃんも姉ちゃんもみんないい人だよなあ」
 嬉しそうな顔で何を言っているのだろう。桃子は酸素が足りなくなりそうな頭で必死に状況を整理しようとするがうまくいかない。
 まさか両親も姉も子供の戯言を真に受けただけでなく、それに反対するどころか受け入れたのか。
「ここに来るために中学では猛勉強したんだからな。私立は金がかかるから父ちゃんと母ちゃんを説得するのも大変だったし。あ、もちろん男を磨く努力もしたぞ。背は、もう少し伸びる予定だから待ってろ」
 女子校にすればよかったと、桃子は頭の隅で後悔する。
「小川に会えない三年間はやっぱり長かったけど、色々考える時間があってよかったかもしれない。今度は間違えない」
 桃子の前の席に後ろ向きに座って椅子の背もたれを抱き締めるようにしていた葵は、その腕を解いて桃子に伸ばし、胸のところで握り締めていた桃子の両手をとった。
「な、何す……っ」
 状況についていけずパンク寸前の桃子に、葵は追い討ちをかける。
「小川」
 桃子は机の上で葵に握られた両手を見たまま首を横に振る。
「やだやだやだ」
 思い出すのは無理やり唇を奪われたあの日のこと。今でも鮮烈に記憶に残っていて消すことなどできない。
「小川、おれを見ろ」
 葵の強い口調に、桃子は涙を浮かべた目で葵の顔を何とか捉えた。
「おれ、小川のことが好きだ」


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