トップ - 小説一覧 - 雨のち晴れ 1・2・3・4
その日の出来事は、夢のようなものなのだと桃子は思っていた。夢から覚めれば現実が待っている。またいつもの、クラスのいじめっ子といじめられっ子の関係に戻るのだろうと思っていた。
2.いつも傍にいる
実際前日の出来事が嘘のようにいつもの葵だった。目はまだ腫れているように見えたが、いつものようにクラスの中心で明るく笑っていた。
何かがおかしいと感じたのは昼休み。雨でも降っていない限り校庭に飛び出していく葵が珍しく教室にいる。それも桃子の前の席に陣取って何人かで喋っていた。時々自分のほうをちらちら見るのは気のせいであることを祈りながら、桃子は図書室で借りた本のページをめくった。
やっぱりおかしいと確信したのは帰り道だった。桃子と葵の家は反対方向にある。桃子は東門、葵は正門を使っていた。だから帰り道は平穏だった。それなのに桃子の数メートル後ろを葵が歩いている。角を曲がるときにさり気なく確認したから間違いない。
まさか昨日のことを誰かに言わないか見張っているのだろうか。そもそも葵のせいで桃子には学校で話す相手なんていないのに。
それから毎日のように、気づけば葵の姿が近くにあった。弱みを握られたと思ったのか、葵は桃子が近くにいても露骨に嫌な顔をすることはなくなったがその代わりに桃子のほうをよく見るようになった。クラスメートも葵の様子がおかしいことに薄々気づいているようだった。これでは自分が黙っていても意味がないとは思ったが、だから何ができるわけでもない。葵にこっちを見るのはやめてくれと言うこともできず、現状を受け入れるしかなかった。
帰り道はほとんど毎日葵の姿が後ろにあり、その後あった席替えでは葵の指定席は窓際一番後ろの席から桃子の後ろの席に変わった。
桃子は基本的に休み時間は自分の席で本を読む。そのせいか葵もクラスメートと遊ぶことを放棄して休み時間も自分の席から動かない。何度か図書室へ逃げ込んだがその都度いつの間にか葵が向かいの席で本を読んでいたので、桃子は諦めておとなしく自分の席で過ごすことにした。
もしかするとこれは新手の嫌がらせなのかもしれない。今までいじめてきた相手にあんなところを見られたのだ。
葵のプライドをひどく傷つけたに違いない。
六年になってもクラス替えはない。春休みの間に葵の嫌がらせが終わることに淡い期待を抱いていた桃子だったが、嫌がらせは終わるどころか悪化していた。
「なんで……」
桃子は呆然と呟いた。憂うつな気分を抱えたままマンションから出てきた桃子を待っていたのは、にやりと何かを企んでいるような笑みを浮かべた葵だった。
「小川、おはよう。これ……」
葵が手提げ鞄から何かを取り出そうとしたところで我に返り、桃子は葵には気づかなかったことにして早足で歩き出した。葵が後ろから何度か声をかけてきたのも聞こえなかったことにした。しばらくすると葵も諦めたのか何も言わず桃子から少し離れて歩いていた。
早めに来たつもりだったが教室にはすでに十人近くいるようだった。新しい教室に違和感を覚えながら桃子は少し迷って、窓側から二列目の一番前の自分の席に座った。もう一度周りを見回して、五年生のときと同じ席でいいことを確認する。
つんつんと背中をつつかれたのは、窓の外を眺めながら何度目かの小さなため息をついたときだった。桃子の後ろの席は葵。嫌がらせのようにつきまとわれているが、暴言をあまり吐かれなくなっただけで実際に会話をすることはあの日以降も相変わらず少なかった。葵に「おはよう」と言われたのも桃子にとっては驚きだった。振り返ろうかどうしようか迷っているうちに葵が立ち上がって桃子の前に回り、ノートを一冊机の上に置いた。どこにでもあるような大学ノートだ。
「小川の番だから」
それだけ言うと葵は教室から出て行った。桃子はわけがわからないまま、とりあえずノートの表紙をめくってみる。真新しいノートの一ページ目には昨日の日付の日記らしきものが下手な字で書いてあった。
『明日からいよいよ六年だ。今まではガキみたいなことばっかしてきたけど、これからはもう少し大人になろうと思う。春休みは家族で旅行の予定だったけど、ばあちゃんがたおれてなしになった。たおれたって聞いたときは本当にびびった。でももうすぐ退院できるらしい。またおみまいに行こうと思う。ばあちゃんにはもっと長生きしてもらうんだ。旅行には行けなかったけど、山内とか鈴木とかとたくさん遊んだ。春休みは宿題なかったけど、勉強もちゃんとした。いつまでも遊んでばかりだとだめだからな。小川は春休みは何をしていましたか? 葵』
これは何なのだろうと桃子は思う。日記のようだが、最後の一文は間違いなく桃子に向かって書かれている。それにさっきの「小川の番だから」という言葉。まさか自分も日記を書かないといけないのだろうか。
直接葵に尋ねればいいのだが桃子には自分から葵に話しかける勇気はない。あの日は、本当に特別だったのだ。
日記なんて書きたくはないが書かなかったらそれでまた嫌がらせがひどくなるかもしれない。
一日中散々迷った挙句、桃子はとりあえず葵に訊かれたことを書くことにした。
『春休みはお姉ちゃんと映画を見に行きました。お姉ちゃんはおもしろいと言ってたけど、私には難しくてよくわかりませんでした。帰りに食べたチーズケーキがおいしかったです』
翌朝も葵はマンションの前で待っていた。
「おはよう」
「おはっ、おは、よう」
昨日のように気づかないふりをするつもりだったのに、桃子は思わず挨拶を返してしまった。
「ノートは?」
桃子は慌ててランドセルの中から昨日のノートを出して葵に渡すと、逃げるように駆け足でその場から離れた。
もしかすると葵は桃子の書いたものを皆で回して読んで笑うつもりなのかもしれない。馬鹿正直に書いてしまったことを悔やんでももう遅い。嫌がらせ自体は方法が変わっただけで続いているが言葉の暴力は減り嫌な顔もされなくなったから油断していた。今までのことを忘れるつもりなんてなかったのに。
「もう少し長く書けよ」
飽きずにマンションの前で待っていた葵は不機嫌そうに言いながら、桃子にノートを差し出した。桃子はしばらくそのノートを見つめてから、葵を見た。昨日一日ノートを他の誰かに見せた様子はなかった。葵が何を考えているのか理解できない。学校以外の行動も監視しようとしているのだろうか。
それでも今までと比べればずっとましだ。少なくとも悪意を向けられているわけではない。そう思い直して桃子はノートを受け取るとランドセルにしまって歩き出した。後ろを歩いている葵の存在も気にしなければいい。
居心地の悪い学校での時間を終え、寄り道することもなく桃子は帰途についた。葵もいつものようについてきていたが知らないふりを決め込む。
帰宅すると桃子は真っ直ぐ自室に向かう。いつもはすぐに宿題を片付けるが、今日は算数のノートの代わりに葵に渡されたノートを開いた。前回のようにミミズが踊ったような字が並んでいた。
『ばあちゃんのおみまいに行ってきた。元気そうでよかった。今日は一人で行ったから、ばあちゃんにちょっとれんあい相談してみた。女心はむずかしいらしい。じいちゃんとの思い出話も聞いた。もう何回も聞いた話だけど、話してるときのばあちゃんはすっげえうれしそうだから、おれもうれしくなる。ばんごはんはハンバーグだった。いっぱい食った。うまかった。母ちゃんの作るハンバーグは世界一だと思う。小川の姉ちゃんってどんな人ですか? おれはひとりっ子です。葵』
「れ、ん、あ、い……恋愛か」
思わず声に出して読んで、驚いた。好きな子でもいるのだろうか。それなら自分につきまとうのはやめて好きな子につきまとえばいいのに、と大きなため息をついてから桃子は机に伏せた。
桃子が知っている葵は乱暴で口が悪くて人の気持ちなんか考えられない最低の人間なのに、文章だけ見ると全然違うイメージになってしまう。
桃子はしばらく迷ってから身を起こしシャーペンを握った。
『お姉ちゃんは六つ上の高校三年生です。仲はいいほうだと思います。最初から私が負けるとわかっているのでけんかはほとんどしません。受験がゆううつだと口ぐせのように言っています。私とはあまり似ていません。おしゃれするのが大好きで、少しだけあこがれていたりもします。上条くんのおばあさん、元気そうで何よりです。私も昨日ハンバーグを食べました。うちのお母さんのハンバーグもとてもおいしいです』
言われた通り長く書こうとして余計なことまで書いてしまった気がする。しかし見るのは葵だけのようだし、書き直すこともないだろう。
考えるのはやめてノートを閉じると、桃子は机から離れてベッドに倒れ込んだ。
葵のことで悩むのはもうたくさんだ。
気づいたときには、朝マンションの前で葵とノートの受け渡しをするのが日課になっていた。
葵は相変わらず実際と書かれている内容のギャップが激しく、桃子は当たり障りのないことを書こうとして食べ物のことばかり書いていたら『小川はくいしんぼうですね。気をつけないとブスの上にブタになると思います』と書かれて無駄な涙を流した。
長期の休みの間はつきまとわれることもなく、忌まわしい交換日記もどきからも解放されてまさに天国だった。
学校での桃子の立場は葵との気まずい一件があってからもあまり変わらなかった。変わったのは葵の嫌がらせの方法だけ。
それも卒業するまで我慢すればいい。卒業すれば全て終わりだ。
五年のクラス替えで葵と再び同じクラスになってしまった時点で、桃子は中学は遠くの私立に行くと決意していた。お金がかかるからと反対すると思っていた両親も、勇気を出して伝えてみたところ反対するどころかむしろ喜び塾にまで行かせてくれた。
元々成績はよかったし、勉強は嫌いではない。試験を乗り切る自信はある。
(大丈夫)
不安になる度、桃子はその言葉を呪文のように何度も唱えた。