トップ - 小説一覧 - 雨のち晴れ 1・2・3・4
「やっと会えた」
どうしてこんなことになったのか。どこで自分は道を間違えたのか。
細い目をさらに細くして満面の笑みを浮かべながらそう言ったかつてのクラスメート、上条葵とは反対に、桃子の顔はひきつっていた。
1.分かれ道
桃子が通っていた小学校は二年ごとにクラス替えがある。三年生のときのクラス替えで葵と同じクラスになった。
葵はいわゆるガキ大将タイプで、影のようにひっそり学校生活を送っていた桃子とは無縁の存在のはずだった。
だから同じクラスになっても話すこともほとんどないまま終わるはずだったのに、知らないうちに何か気に障ることでもしてしまったのか桃子は葵に目を付けられてしまった。
物を隠されるのは日常茶飯事。何かあれば罵詈雑言を浴びせられ、「うわ、小川菌だ」というのもやられたし直接の暴力はなかったがボールをよくぶつけられた。葵一人がやれば、クラス全体がそんな雰囲気になった。
今思えば本当にくだらない嫌がらせでも、当時の桃子にとっては深刻な悩みだった。昨日の友は今日の敵。数少ない友人も離れていき、友情の脆さを思い知ったのもこの頃だった。
五年生のときのクラス替えでも葵と同じクラスになり、しばらく枕を涙で濡らす日々が続いた。ただ三年目にもなるとさすがに飽きたのか目立った嫌がらせは少なくなった。近くに寄ればあからさまに嫌な顔をされて暴言を吐かれるくらいで。
そんな悲惨な学校生活が一変したのは五年生の冬のことだった。
掃除当番で当然のようにゴミ捨て係を押し付けられた桃子は、裏庭のゴミ置き場までぱんぱんに膨れ上がったゴミ袋を二つ、両手に持って運んでいた。途中、廊下で袋の一つが破けてゴミが散乱。幸か不幸か周りに人の気配はなく、泣きそうになりながらゴミを片付けて教室に戻るのが遅くなった。電気が消されて夕日が差し込む教室には他に誰もいないものと思って足を踏み入れた桃子は、葵の姿を見つけ飛び上がりそうになった。
窓際の一番後ろの席は葵の指定席で、席替えをしてもどういう手を使っているのか葵の席が変わることはない。教室を出る前にはなかった姿が、その指定席にあった。
机に伏せて寝ているようだ。桃子の席は葵の二つ前の席。席一つ分しか離れていない。気づかれずに机の上のランドセルを取れるか。忍び足で教室の中へと進み、無事に自分の机まで辿り着く。
ほっとしてランドセルを手にしたところで、机に伏せている葵の肩が僅かに震えていることに気づいた。暖房はすでに切ってあったからてっきり寒さで震えているのかと思ったが、すぐに違うとわかった。
「……っ……うぅ……」
泣いている。あの葵が。思わず後退りした桃子の足が椅子にぶつかった。桃子の心臓が止まりかけたのと同時に葵が勢いよく顔を上げた。ぐちゃぐちゃの泣き顔と目が合う。
「な、に見てんだよ、このブス!」
「ご、ごめ」
反射的に謝って慌てて目を逸らした。見てはいけないものを見てしまった。
「つか、なんでまだいんだよ」
「ゴミ、捨てに行ってて」
おそるおそる葵の顔を見ると、涙がぼろぼろ流れたままだった。
何も見なかったことにして、ここですぐに帰ればよかったのだ。このときのことを後悔する日がくるとは夢にも思わず、桃子はつい訊いてしまった。
「なんで、泣いてるの?」
いつもだったらこんなことを尋ねたりはしない。相手は葵。でも、どうしても放っておくことができなかった。そう言えば、朝から妙におとなしかったと一日を振り返る。「おまえ何か目腫れてない?」「うっせーな、寝不足なんだよ」という会話を葵と誰かがしていたのも聞いた。
葵は涙目で桃子を睨んだ。桃子も負けじと見つめ返す。ふっ、と葵の視線が落ちた。
「……昨夜、モモコが、死んだ」
心臓が跳ねた。自分のことかと思った。
「モモコ、って」
「うちの、犬」
何かを思い出したのか、涙がさらに溢れる。
「父ちゃんが……っ、三月三日に拾ってきたからモモコ」
桃子は三月三日に生まれたからそう名付けられた。ちなみに五月生まれの姉は五月と書いてさつきという。
由来も一緒なのかと葵の泣き顔を見ながら思う。
「そういや小川も、うちのかわいいモモコと……うっく……同じ名前だったな。ブスのくせに」
しゃくり上げながらも悪態をつくことは忘れない。
「つか、いつまで見てんだよ……っく……さっ、さっさと帰れ!」
「か、上条くん、は」
袖で涙を拭っていた葵が桃子を睨んだ。拭っても涙は面白いように零れていく。
「だって、帰っても……っ……モモコがっ、いない……!」
今までの恨みつらみを忘れてうっかりかわいそうだと、思ってしまった。自分と同じ名前の犬をとてもかわいがっていたらしい葵。
持ち上げかけていたランドセルから手を離して、再び机に伏せて声を押し殺しながら泣いている葵の横へ。
少しだけ迷ってから、右手を伸ばして僅かに揺れる頭に触れる。
「……!」
触れた瞬間思い切り振り払われた。
「触るな、気持ち悪い」
嫌悪に満ちた目。桃子に向けられるのはいつもそういう目だった。
かわいそうだなんて、一瞬でも思うんじゃなかった。
悲しいとか悔しいという気持ちは怒りで隠してしまう。普段からは考えられないくらい弱っている葵。仕返しのつもりで今度は両手を伸ばして短い髪をぐちゃぐちゃにかき回した。
「やめ、ろ……っ」
葵は手を払いのけようとするが、桃子も一歩も引かない。無言の攻防がしばらく続いた。桃子が攻撃をやめたときには、二人の息は大分上がっていた。
「何、すんだ、よ」
「い、いつまでも、泣いてるから」
「だって、ひっく……仕方、ないだろ」
葵の顔が見る見る歪んでいく。
「生まれたときから、ずっと一緒にいたんだ……!」
両腕が伸びてきて、逃げる間もなく抱きつかれた。さっき気持ち悪いと言ったのは誰だ。
「どうして、死んじゃったんだよ、モモコ」
強い力だった。お気に入りのコートには葵の涙と鼻水がべったりついてしまったことだろう。
「モモコ、モモコ……っ」
これは自分のことではない。わかっているのに、鼓動はどんどん大きく速くなっていく。
「上、じょ、くん」
捕らわれたまま、桃子は途方に暮れる。自分の胸に顔を埋めて泣いている憎い相手。
腕を解こうと試みるもののうまくいかない。
「モモコ」
今までのことを忘れたわけではない。許すわけでもない。でも、少しだけなら。
また嫌がられたらそれはそれでいい。桃子は意を決して両腕を持ち上げた。ごくりと、喉が鳴った。右手は葵の背中へ、左手は後頭部に添えた。今度は何の反応もなかった。葵は桃子に抱きついたまま肩を震わせている。
慰めの言葉は見つからないから代わりに背中を何度もさする。小さい頃桃子が泣いているといつも母親がこうして背中をさすってくれたのを思い出した。
「誰にも、言うなよ」
どのくらいの時間が過ぎたのか、やっと離れた葵が気まずそうに顔を背けながら言った。
「言わないよ」
桃子はスカートのポケットからハンカチを取り出して涙が染み込んだコートと、葵の顔を見比べた。
「これ、使う?」
葵は桃子の顔をまじまじと見つめた。
「な、何?」
「おまえ、バカだな」
ハンカチを受け取ると、乱暴に顔を拭って脇に置いていたランドセルを手にし、葵は立ち上がった。
「……じゃあな」
たった一言、別れの言葉。こんなふうにかけられたのは初めてだった。驚いた桃子は葵が去った後もしばらくその場から動くことができなかった。