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 見えなかった君11
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 一ノ瀬くんの家の中は静かで、今日も誰もいないようだった。一ノ瀬くんの「ただいま」の後にわたしも「お邪魔します」と小さく言った。
「何か飲む?」
「お、お構いなく」
 二度目の一ノ瀬くんの部屋。天井にはやっぱり水着の女の人のポスターが貼ってあって、本棚と机の上のパソコンからは何となく目を逸らした。
 前回布団を敷いた一ノ瀬くんは今日は押入れから出した座布団を二つ並べた。
 一ノ瀬くんに促され座布団に正座しようとして前回の失敗を思い出し、今日は最初から足を崩して座ることにした。落ち着かなくて膝の前に置いた鞄を握り締めた。
「んー、じゃあいいか」
 一ノ瀬くんもわたしの正面に腰を下ろしてあぐらをかいた。
 何だろう、この状況。
「そういえば何カップ?」
 唐突に尋ねられてわたしは勢いよく顔を上げた。
「え、カップ……?」
 さっき飲み物のことを訊かれたせいかわたしはコーヒーカップを思い浮かべた。
「俺はBくらいなんじゃないかって思ってるんだけど、当たってる?」
 コーヒーカップを思い浮かべていたわたしは一ノ瀬くんがうちにあるコーヒーカップのメーカーでも訊いているのかと思って、よくわからないまま答えた。
「うちにあるのは多分、安物で」
「……ん?」
 一ノ瀬くんが首を傾げて自分がとんちんかんなことを言ってしまったのだと気づく。
「え、あ、あれ?」
「古谷さんの胸の話なんだけど」
「あ、そ、そっか、ごめん。何か勘違い……え?」
「だから胸の話」
 勘違いしたままでいたかったわたしに、一ノ瀬くんはもう一度しっかり教えてくれた。
「何カップ?」
「う、あの、び、B、です。多分」
 動揺しすぎて馬鹿正直に答えてしまった。
「やっぱそのくらいだよね。胸揉むと大きくなるって本当かな」
「わかり、ません」
 今の一ノ瀬くんの発言はつまりわたしの胸の大きさでは不満だということなのかさすがにこれはセクハラ発言すぎないかそれよりもあの一ノ瀬くんがわたしの胸を見て大きさについて考えを巡らせていたなんてそんな。そんな、ことを一息に考えて窒息しそうになった。
「古谷さんは」
 動揺を抑えられないでいるわたしは「ひゃい」と変な声を上げてしまった。
「本当に俺でいいの?」
 意味がわからなくて思わず一ノ瀬くんを見つめた。「俺」の部分を「コーヒー」に変えても何の違和感もないような言い方だった。
「俺、こんなだから女子には結構いやがられてるし、古谷さんもやっぱりいやになった?」
 わたしは考える前に首を横に振った。わたしが一ノ瀬くんのことを好きなのは考えるまでもないことだから。
 そんなことを尋ねてくるなんて、この一週間一ノ瀬くんも何か考えるところがあったのだろうか。わたしのことを、考えてくれたのだろうか。
「びっくりは、したけど、想像と全然違ってでも、す、好きなのは、変わらないよ」
「俺のことそんなに好き?」
 わたしが恥ずかしさとたたかいながら頷くと一ノ瀬くんが突然わたしの両手をとった。
「え」
 一ノ瀬くんの両手が、わたしの両手を。
「いち、一ノ瀬、くん」
「古谷さんの反応、おもしろい」
「あの、あの」
「女子に悲鳴上げられて逃げられたことはあるけど、こういう反応されるの初めてだから」
「そう、なんだ」
 一体どうしてそんな反応をされたのかものすごく気になるけれど知らないほうがいいような気もする。
「早く俺に慣れてほしいようなほしくないような、そんな複雑な心境」
 一ノ瀬くんはわたしの両手を持ったまま。遠くから見ているだけだった頃のときめきとはとても比べものにならないくらい心臓に負担がかかっている。
「直」
 声にならない声がのどのあたりでつぶれて変な音になった。
「だっけ。名前。やっぱり付き合うなら下の名前で呼び合ったりしたほうがいい?」
 わたしが答えられないでいると一ノ瀬くんは先に話を進める。
「何て呼ぼうか。直ちゃん、直さん。やっぱ普通に直?」
 興奮して鼻血が出るとしたらこういう状況でかもしれない。あの一ノ瀬くんに手を握られ、名前まで呼んでもらえるなんて。
「どれがいい?」
 口を開いても声が出てこない。とにかく手だけでも離してもらわないと本当に心臓がもたない。
 目は口ほどに物を言うという言葉を思い出し、わたしは一ノ瀬くんを見つめた。正直この行為も恥ずかしいけれど背に腹はかえられない。
 一ノ瀬くんもわたしを見つめ返す。目を逸らしたい。
「こういうときってキスとかするの?」
 やっぱり目だけで伝えるのは無謀だった。
 取り返しのつかないことになる前にわたしは勢いよく首を横に振った。一ノ瀬くんとキスする妄想も、したことがないわけではなかったけれど一ノ瀬くんがわたしのことを何とも思っていない状態でしても悲しいだけだ。
 一ノ瀬くんは、好きでもない人とキスできるのだろうか。
 そこまで考えて、舞い上がっていた気持ちがすとんと落ちてきた。
 一ノ瀬くんはわたしのことを何とも思っていない。そのわたしと付き合ったり手を繋いだりできるということは、つまり、わたしではない誰かとも簡単にそんなことができるということ。
 だめだ。
 ただずっと付き合ってもらうだけではだめだ。一ノ瀬くんに嫌われないようにすることばかりに意識がいっていたけれど、それだけではだめなのだ。
 一ノ瀬くんにとって特別な存在になりたい。他の誰よりもわたしのことを好きになってもらいたい。わたしだけを見てほしい。
「古谷さん?」
 一ノ瀬くんの声で我に返る。
「どうかした?」
「あの」
 声も出た。
「もしもの、話、なんだけど」
「うん」
「もし、このまま付き合っていったら、一ノ瀬くんが、わた、わたしのこと、その、あの、す、す」
「す?」
「好きに、なる可能性って、ある?」
 わたしは顔から火が出そうなのにちらっと見た一ノ瀬くんの顔はやっぱり平然としていた。
「その質問、答えにくい。ないって言ったら古谷さん傷つくだろうしあるって言ったら俺が何か負けた気分になるし」
 その答えですでに傷ついたとは言えず、負けた気分って何だとつっこむこともできずにわたしは「ごめん」と謝るしかなかった。
 一ノ瀬くんの手が離れる。ほっとするはずだったのにこわくなってすぐにまた鞄を握り締めた。
 もし他の誰かが一ノ瀬くんに告白したら、一ノ瀬くんは迷わずその人を選ぶのだろう。そしてこんなふうにあっさり一ノ瀬くんはわたしの手を離すのだ。
 やっぱり一ノ瀬くんにわたしのことを好きになってもらわないといけない。そうしないと一ノ瀬くんは、一ノ瀬くんは。
「でも、古谷さんのこともっと知りたいと思う」
 息が一瞬、できなかった。
 一ノ瀬くんはずるい。わたしの気持ちを簡単に落としたり持ち上げたりしてしまう。
「い、一ノ瀬、く――」
「おもしろいし。体見たいし」
 そのセリフの後にそんな笑顔を見せないでほしいと思うのはわがままなのか。わたしも笑顔を作ろうとしたけれどひきつってうまく笑えない。まさか本当に見せることにはならないと信じているけれど、少し不安になった。
「それで、どれがいい? 呼び方」
 そうだった。名前の呼び方の話をしていたのだった。
「ま、まだ、名字がいい、です」
「そう?」
 今度はちゃんと答えて沈黙が訪れる。
 気まずい。歩きながらの沈黙と向かい合っての沈黙では気まずさの度合いが違う。一ノ瀬くんはこういうのも気にならないのだろうか。おそるおそる一ノ瀬くんの顔を見た。目が合った。
「うちの学校にさ」
 やっぱり一ノ瀬くんは何も気にしていなかったらしい。さっきの会話の続きのように口を開いた。
「古谷さんみたいなメガネかけてる人って他にいる?」
 わたしみたいなメガネ。
 授業中だけメガネをかけるという人もいるけれど、常時メガネをかけている人は少なくともわたしの周りにはそんなに多くはいない。さらにこんなメガネを好んでかけているのはわたしの周りにはわたししかいなかったし学校で見かけたこともなかった。
「わたしは見たこと、ないけど」
「んー、じゃあやっぱ古谷さんだったのかな。俺、古谷さんのことは知らなかったけど、そのメガネは見覚えあるんだよね」
 わたしのメガネは見えていたのか。
 一ノ瀬くんにわたしは少しも見えていなかったと思っていたから、感動した。
「この間視聴覚室で古谷さんに告白されたときも、どっかで見たことあると思ってそのメガネ」
 あの日のことを思い返そうとしたけれど思い出して変な顔にならない自信がなかったからやめておいた。
「廊下とかで、時々すれ違ったりしたから、それで」
「それもあるんだろうけど、入学式の後だっけ、一瞬そのメガネと目が合って初日から何かすごいの見たとか思った記憶を今思い出してすっきりした」
 わたしが一ノ瀬くんを好きになったのはそのときですとか目が合ったのはメガネじゃなくてわたしですとか言いたいことはあったけれどわたしのメガネはそこまで強烈なのかという不安も同時に抱いて結局何も言えずにとりあえず一ノ瀬くんに合わせて笑った。
 あの瞬間が一ノ瀬くんの中にも残っていたのが嬉しかった。
「それでこれからどうする?」
「これから、って?」
 一ノ瀬くんの話についていけなくなりそうになって慌てて訊き返した。
「普通にしてたら全然会わないし、せっかく付き合うんだから一緒にいる時間作ろうよ。お昼は一緒に食べるとか、休みの日はデートするとか」
 一ノ瀬くんがわたしとのことを意外とちゃんと考えてくれていることに驚いた。意外と、と思ってしまうあたり、わたしも現実の一ノ瀬くんに結構慣れてきたのかもしれない。
「うん、そうだね」
 一ノ瀬くんに答えながら、わたしは鞄を握り締めていた手にさらに力を込めた。
 今までは先のことを考えてこわくなって何もできなくなっていた。今も、こわくてたまらない。一ノ瀬くんはわたしのことを好きになってくれないかもしれない。でも、少なくともこの瞬間はわたしのことを見て、わたしのことを知ろうとしてくれている。何もしないで後悔するのはもういやだ。
 まだやっとスタートラインに立てたばかり。先のことなんて誰にもわからないことをわたしはよく知っている。今は今できることをやるしかないのだ。泣くのは、全部やり切ってそれでもだめだったときでいい。
 わたしだって結構頑張れる。頑張れたからここにいる。大丈夫。
 自分に言い聞かせて、わたしは顔を上げた。
「一ノ瀬くん」
「ん?」
 あんなに遠かった一ノ瀬くんが、こんなに近くにいてわたしを見てくれている。だからきっと前に進める。真っ直ぐ進める。

「これから、よろしくお願いします」

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