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 見えなかった君09
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「ただいまー」
 暗い夜道で変質者に出会うこともなく無事に家に辿り着き、わたしは激しい疲労感に襲われ靴を履いたまま玄関に座り込んだ。お父さんもお母さんもまだ帰ってきていないようだ。ほっとしたところでどたどたと重い足音を立てながら大助がやって来た。
「おかえり。どこ行ってたんだよ」
「……ちょっとそこまで」
 わたしはうそをつくのが苦手だ。今も思い切り目を逸らしてしまったからちょっとそこまでではないところへ行ったのだと白状したようなものだった。
「まさか、失恋したとかいう相手のとこか」
 無駄に鋭い大助はしゃがんで目線をわたしに合わせる。別に怒っているわけではないようだけれど、何となく怒られているような気持ちになる。
「別に、失恋したわけじゃ」
 しまった。この言い方だと少なくとも異性に会いに行ったことは認めたことになる。大助の顔にも一瞬にやりといやな笑みが浮かんだ。
「じゃあどうなったんだよ」
 だめだ。目を逸らせない。絶対に家族には言えないと思っていたはずなのに、わたしは大助の妙な迫力に押されてとうとう口を開いてしまった。
「付き合うことに、なった」
 言った瞬間後悔と恥ずかしさで頭の中が真っ白になりかけた。
「……マジで?」
「……多分」
 大助はまじまじとわたしを見つめる。わたしはやっと目を逸らすことに成功して俯き大助の目から逃げた。
「本当にそんなモノズキいるの?」
 大助の失礼な発言にむっとしてわたしは下に向けたばかりの顔を上げてつい言い返した。
「いたもん」
「紹介してよ」
「ぜ、絶対いやだ!」
 こんな会話を大助としていること自体おかしいのに、一ノ瀬くんと大助を会わせるなんて無理だ。
「なんで。いいじゃん別に。減るもんじゃねえし」
「そういう問題じゃなくて。じゃあ大助も彼女紹介してよ」
「……彼女いなくて悪かったな」
 大助はまだ中学生だし、大柄で見た目が少しこわいから本当に彼女がいると思って言ったわけではなかった。逆にいると言われたほうがショックだ。
「だからそういうわけでわたしの紹介もなしに」
「何だよそれ」
「と、とにかく、お父さんたちには絶対言わないでよ! わたし、着替えてくるから!」
 重い体をどうにか動かし、わたしはその場から何とか逃げたのだった。

 自分の部屋に戻ると部屋の隅でぐちゃぐちゃになっていた布団を抱き締めながら制服のまま絨毯の上に寝転がった。
 実感がわかない。あの一ノ瀬くんと、ずっとずっと好きだった一ノ瀬くんと付き合えることになったのに、さっきまでのことが全部夢での出来事のように感じる。実感があったらもしかしたら嬉しさで押しつぶされてしまうかもしれない。心臓ももってくれる自信はない。
「一ノ瀬くん」
 思わず口にした途端、ポケットに入れていた携帯電話が震えて叫びそうになった。
 数度震えてすぐに止まったから多分メールで、起き上がってポケットから取り出して見たらやっぱりそうだった。どこかで期待しながら受信ボックスを開いて、すぐに携帯電話を閉じた。暴れ回る心臓と声にならない声を何とか抑えようとするけれどうまくいかない。期待通りの名前があった。「一ノ瀬高志」という、登録したばかりの名前が確かにあった。
 転げ回りたい衝動も何とか追いやってわたしは何度も深呼吸しながら一ノ瀬くんから送られてきたメールを開いた。

『帰り道大丈夫だった? さっきは妹が何かごめん。おやすみ』

 文面が頭に届くまで短いそのメールを何度も何度も見返した。やっと内容を理解してから間違えて消してしまったりしないようにメールを保護する。返信もしないといけない。
『ちゃんと家に着いたよ。妹さん、かわいいね。おやすみ』
 もっといい文章があるはずだけれど沸騰しそうでできない今のわたしの頭ではこれが精いっぱいだった。平常心で送信することはできそうになかったから目をきつく閉じ、息を止めて送信ボタンを押した。
「あ、あああ……」
 自分の口から意味のない声が漏れるのを押さえられずに布団をかぶろうとした瞬間携帯電話が再び震えて思わず携帯電話を右手から落としてしまった。
 一ノ瀬くんから返事が来たのかと思ったけれどそれにしては早すぎる。胸を押さえながら確認するとメールの主はミキちゃんだった。
『話したいことがあるんだけど明日会えないかな?』
 短い文章の中に絵文字をうまく使っているメールを見て、絵文字も何も使わなかった送ったばかりのメールがとてもそっけないような気がしてきた。一ノ瀬くんからのメールにも絵文字は使われていなかったからと自分を励まし、ミキちゃんへのメールの内容を考える。
『うん、わたしも話したいことがあるから会いたい』
 しばらく迷って笑顔の絵文字を最後に一つだけつけた。



「なーおちゃん!」
 放課後、視聴覚室の前の廊下で、壁に寄りかかりながら自分の上履きを見ていたわたしはミキちゃんの声に顔を上げた。
「ミキちゃん」
「遅くなってごめん! 掃除あるの忘れてて。ささ、どうぞどうぞ」
 ミキちゃんは視聴覚室の戸を開けて、わたしに先に入るように促す。視聴覚室に入ると、窓を閉め切っているせいか少し息苦しさを覚えた。
 戸を閉めたミキちゃんは今日は一番後ろの右端の机に鞄を置いた。椅子を一つ挟んでミキちゃんと向かい合って座る。
「私、直ちゃんに謝らないといけないことがあります」
 ミキちゃんがとても真剣な顔をするからわたしも姿勢を正した。
「もう知ってるかもしれないけど、一ノ瀬の調査結果で直ちゃんに言わないといけないこと、黙ってました。ごめんなさい」
 深々と頭を下げられて慌てた。
「わ、そんな、ミキちゃん」
「許してくれる?」
「許すも許さないも、ミキちゃんが教えてくれなかったらわたし、一ノ瀬くんの名前も知らないままだったからミキちゃんには本当に感謝してる。ミキちゃんが言えなかったのは、わたしに原因があると思うし」
 今振り返るとすごく恥ずかしいけれどミキちゃんに一ノ瀬くんのことを説明したとき、何も知らなかったわたしはかなり理想を混ぜ込んでしまっていた。そんなわたしに現実を突きつけるなんてやさしいミキちゃんにはできなかったのだろう。
「ううう、ありがとう直ちゃん」
「それはわたしのセリフだよ。ありがとうミキちゃん」
「えへへ、それじゃあ、今さらかもしれないけど報告してもいいかな?」
 一瞬迷ってわたしは頷いた。
「うん、お願いします」
「じゃあ、いきます」
 ミキちゃんは大きく息を吸い込んだ。
「一ノ瀬の趣味の読書はほとんどが官能小説とかのエロ本の類で時々ミステリー。パソコンでも色々見てるみたいだしビデオ鑑賞っていうのももちろんそっち系が含まれています。そういうこと自体はお年頃だし別にいい……いや、よくはないんだろうけど仕方ないとは思うわけですよ。普通そういうことは隠れてやるだろうし」
 あのぎっしり詰まった本棚やパソコンの中身を想像しそうになって慌てて振り払った。
 大助もそういうことに興味があるのだろうか。わたしが部屋に入るのをいやがるのは何か見られたくないものがあるから?
 いや、これ以上考えるのはよそう。改めて突きつけられた現実から逃避しようとして余計なことを考えてしまった。
「でもね、一ノ瀬は小学生みたい……とはまた違うかな、とにかく色々ひどいというかオープンすぎるというか。あ、実際に女の人に何かしたとかは絶対ないから安心して! セクハラ発言はあるけど!」
「う、うん」
 もうわかっていたことで心の準備もできていたはずなのに、頷きながら丸々二年も抱いていた幻想はそう簡単には消えてくれないことを思い知った。
「やっぱり、もう知ってたんだね」
「昨日、色々あって」
「そう! そのことだよ直ちゃん! 私は昨日のことが気になって気になって気になって。一ノ瀬とは一体どうなっちゃってるんですか」
 ミキちゃんは右手にマイクを握るジェスチャーをしてそれをわたしに向けた。
 ミキちゃんにはちゃんと言わないといけない。わたしは何度か深呼吸してから目を閉じて一気に言った。
「つ、付き合うことになりました」
「お」
 ミキちゃんの声に目を開けたら、ミキちゃんが心底驚いたという表情でわたしを見ていた。
「おめでとう!」
 ミキちゃんに言われて、まだ実感がわいていない現実がじわじわと目の前に迫ってくるのを感じた。
「うわーうわー嬉しい。嬉しいけどでも! 直ちゃん、どういう経緯でそんなことに」
「わたしが、告白、みたいなことをしまして」
「すごい! 頑張ったんだね」
 昨日のわたしは、今までのわたしでは考えられないようなことばかりした。後悔したくなくて無我夢中で、だめなところもたくさんあったけれどわたしは。
「……うん、頑張った」
「こんなにかわいいんだもん。一ノ瀬もイチコロのはずだよね」
 ミキちゃんの嬉しい言葉をそのまま飲み込みそうになって、慌てて首を横に振った。
「一ノ瀬くんは、わたしのこと何とも思ってないよ」
「え、でも付き合うって」
「OKしてくれたのは、その……女の体が、見たいからって」
「え」
 ミキちゃんは笑顔のまま固まった。
「わたしみたいなのでもいいなんて変わってるよね」
 恥ずかしくなって笑い飛ばそうとしたけれどうまくいかなかった。
「……い、いやいや変わってるのはそこじゃないよ! それにそんなのだめだよ! そんな、体目当てなんて……!」
 身を乗り出したミキちゃんに両肩を掴まれた。ミキちゃんがわたしのことを本気で心配してくれているのが伝わってくる。申し訳ない気持ちよりも嬉しい気持ちのほうが大きくなるのを抑えられない。
 恥ずかしいしミキちゃんを余計に心配させてしまうだろうからいきなり押し倒されたことは言わないでおこう。
「でも、体を見せるのはこの先もうまくやっていけそうだってわかってからでいいみたいなことを言ってくれたし、実際そんなことにはならないんじゃないかなって、思うから。目当てにされるような体じゃないしね」
 ミキちゃんはしばらく唸ってからわたしの肩から手を離した。
「直ちゃんが納得してそう決めたんだったら、私も直ちゃんを応援する。一ノ瀬だってまさか無理やりなんてことはしないはずだし。うん」
「ありがとう。一ノ瀬くんに愛想尽かされないように、これからもっと頑張る」
 ミキちゃんの言葉が本当に嬉しくて、少し余計なことまで言ってしまった。
「……直ちゃんは本当に一ノ瀬のことが好きなんだねえ」
 ミキちゃんにしみじみと言われて顔が熱くなった。

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