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 見えなかった君08
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 とにかく走った。
 体育の授業でもこんなに一生懸命走らないというくらい走った。
 電車に乗っている間も気持ちばかりが焦って、降りて改札を抜けた後はまた走った。
 昼間混乱した頭で通った道はそれでもちゃんと覚えていて迷うことはなかった。日はもう落ちていて一ノ瀬くんの家の近くは駅前と比べると大分暗かったけれどそんなことを気にする余裕もなかった。
 一ノ瀬くんの家の前まで辿り着いて、しゃがみ込みそうになりながらぼんやりした明かりの下の戸を、ためらう前に叩いた。叩いてから呼び鈴の存在に気づいた。
 一ノ瀬くんの家族が出てきたらどうしようと思ったけれど、「どちら様ですか?」と戸の向こうから聞こえてきたのは間違いなく一ノ瀬くんの声だった。
「わたし、です。あの、古谷です!」
 しまった。せめて汗を拭って息を整えるくらいはしておけばよかった。
 わたしが焦っている間にかちゃかちゃと鍵を開ける音がして戸が開いた。
「何か忘れ物?」
 出てきた一ノ瀬くんは紺色のパジャマを着ていて髪も少し濡れていた。もうお風呂に入ったのだろう。
 目の前にいる今まで知らなかった一ノ瀬くん。もっと知りたい。わたしだけが知っていたい。ここで逃げたら、わたしは一生後悔する。
 息を大きく吸い込んだ。
「わた、わた、し。一ノ瀬くんのことが好きです」
「うん、それは昼間聞いたけど」
 震えてしまうわたしの声とは対照的に一ノ瀬くんの声はとても落ち着いていてそれがわたしを余計に追い詰める。でも。
「一ノ瀬くんが、他の誰かと付き合うなんて、いやです」
 一ノ瀬くんのことをしっかり見る。一ノ瀬くんもわたしを見ている。逃げそうになる自分を抑える。目は逸らさない。逃げない。
「……いや、自慢じゃないけど俺本当にもてないよ」
「でも、今日、わたしが何もしなかったら、いつか一ノ瀬くんはわたしじゃない人と付き合うかもしれない」
「んー、まあ先のことはわかんないか」
 そうだ、だから。
「だから、昼間の、なしです。やっぱりわたし、一ノ瀬くんと付き合いたい、です」
 じゃあもういい。
 一ノ瀬くんが言いかけた言葉を思い出し息がつまる。もし、一ノ瀬くんが今も同じ気持ちだったらどうしよう。
 一度この手に掴みかけたチャンスを自分でだめにしてしまったわたしは、やっぱり後悔して、これから先もずっと後悔して、告白したことも、ここまで来たことも全部無意味に。
「俺は古谷さんがそれでいいならいいけど」
 わたしの思考を遮るように一ノ瀬くんの落ち着いた声が言った。いつの間にか逸らしてしまっていた目を一ノ瀬くんに向ける。声と同じように平然とした様子で、怒ったり呆れたりしている様子は表情からはうかがえなかった。
「ほ、本当、に?」
「うん」
 わたしは嬉しさと安堵で込み上げてきた涙を何とか堪える。
「わたし、頑張るから。一ノ瀬くんにずっと付き合いたいって思ってもらえるように、頑張るから」
 普段なら口に出せないことばかり口にしている自分が不思議だった。
 恥ずかしさと走ったせいで顔が真っ赤になっているのは見なくてもわかる。息を荒くして汗も垂れ流している。少なくともこんな状態のわたしではずっと付き合いたいとは思わないだろうなと、頭の隅で思った。
「……お茶でも飲んでく?」
 そんなわたしを見兼ねたらしい一ノ瀬くんの提案に頷きかけて、慌てて首を横に振る。
「すぐに帰らないと。お父さんたちが帰ってきちゃうし」
「そっか。じゃあ」
「うん、あの、いきなり来たりしてごめん。あと、昼間のことも色々と、本当にごめんなさい」
 昼間謝罪できなかった分も合わせて頭を下げる。
「いや、別に。じゃあまたあし――」
「そこは『危ないから送るよ』でしょ普通。夜道を女の子一人で帰らせるなんて信じらんない。兄ちゃん最低」
 聞こえるはずのない知らない女の子の声が唐突に割り込んできて、わたしはひっくり返りそうになった心臓を押さえながら今まで見ていなかった一ノ瀬くんの背後に目を向けた。
 いつの間にかピンクのパジャマを着た中学生くらいの小柄な女の子が立っていた。濡れた短い髪に火照った頬。首にタオルをかけていてちょうどお風呂から上がったところのように見える。顔は一ノ瀬くんにはあまり似ていなくてぱっちりした目で、でも間違いなく一ノ瀬くんの妹さんなのだろう。
「いつからいたんだよ」
「『お茶でも飲んでく?』から」
 わたしは混乱しそうな頭でさっきまでのやりとりを思い返し、わたしの恥ずかしい発言は聞かれていなかったことにとりあえず胸を撫で下ろした。
「まさか兄ちゃんの彼女。ですか?」
 妹さんの言葉が突然わたしに向けられた。わたしは何と答えていいのかわからず一ノ瀬くんを見る。一ノ瀬くんは妹さんのほうに顔を向けたまま。
「そうだけど」
 即答だった。
 迷うそぶりもなく、そう言ってくれた。今はまだ実感が全然ないけれど、今夜はきっと眠ることはできない。
「……あの、この人変態ですよ?」
 妹さんはもう一度わたしに向かって言った。
 改めて第三者に指摘されて、一ノ瀬くんはやっぱりそうなのかとうっすら抱いていた疑念が確信に変わった。
「えと、あの、知って、ます。何となく」
 妹さんはとてもわかりやすく驚いた顔をした。
「兄ちゃん! こんな奇特な人、もう絶対現れないんだから大切にしなきゃだめだよ!」
 正直こんな人やめなよと言われても仕方がないと思っていたから彼女の反応は予想外もいいところだった。
「わかってるから向こう行けよ」
 わたしと話すときとは少し違う感じがする一ノ瀬くん。妹さんはわたしにぺこりとかわいらしく頭を下げてどこかの部屋に消えていった。
「えーと、じゃあ着替えてくるから待ってて」
「あ、だ、大丈夫! 駅前まで行けば明るいから」
 一ノ瀬くんに余計な面倒をかけたくなくて慌てて引き止める。
「本当に平気?」
 恐らく妹さんに言われたから仕方なく申し出たけれど本当はものすごく面倒くさかったのだろうというのがよくわかる嬉しそうな顔で一ノ瀬くんは訊いてきた。
「うん、平気。携帯あるからいざとなったら弟に迎えに来てもらえるし」
「あ、そうだよ古谷さん。俺古谷さんのメアドとかまだ聞いてない」
 言われてわたしも一ノ瀬くんのメールアドレスを知らないことに気づいた。これが夢でなければわたしは一ノ瀬くんと、多分付き合うということになったはずだから、アドレス交換くらいしてもおかしくないのだ。
 部屋から携帯電話を持ってきた一ノ瀬くんと、ミキちゃんのときと同じようにアドレスと番号を交換する。
「これって古谷さんの誕生日とか?」
 わたしのメールアドレスはnaoの前後に家族の誕生日を適当に並べたものだった。
「ううん、家族の。一ノ瀬くんは――」
 一ノ瀬くんのメールアドレスに目を落としたのは一瞬で、すぐに視線を一ノ瀬くんに戻してわたしは曖昧な笑顔を作った。
「おっぱい好きだから」
 アドレスの一部に「oppai」と見えたのは気のせいだということにしようとしたわたしの努力を一ノ瀬くんが無に帰してくれた。
 真顔で言われて今度こそ本当にどう反応すればいいのか困った。
「……う、あの、ごめん」
「なんで古谷さんが謝るの?」
 万が一わたしの胸を一ノ瀬くんに見せてしまうことになったとしても一ノ瀬くんの期待には添えられそうにないからだと言えるわけもなく、わたしはもう一度力なく笑うしかなかった。

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