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 見えなかった君07
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 最初からきっぱり振られるのももちろんつらいけれど、一度もしかしたらと期待してそこから落とされるのはきっともっとつらい。
「んー、そんなこと言ってたら古谷さん、この先誰とも付き合えないよ」
 一ノ瀬くんの言うことはもっともだった。誰と付き合うにしても別れの不安は常に付きまとう。
「でも、でも」
 わたしは自分の中の一ノ瀬くんにずっと恋をしていた。二年もの間勝手に積み上げてきた一ノ瀬くん像は、今日一日で一ノ瀬くん本人にあっさり崩されてしまった。
 これで熱が冷めたらよかったのだ。
 ずっと勘違いをしていたわたしは今まで知らなかった一ノ瀬くんを知って、勝手にショックを受けながらそれでもやっぱり一ノ瀬くんのことが好きだった。
 そしてもっと好きになっている。
「じゃあもうい――」
 自分が何をしたのかすぐに理解できなかった。本当は口をふさぎたかったのだと思う。好きな人の唇なんて触れないというささやかな乙女心が、一ノ瀬くんの口から否定的な言葉は聞きたくないというとっさの行動を少しおかしくさせた。
「古谷はん」
 一ノ瀬くんの顔を思わず伸ばした両手で強く挟んだわたしを、挟まれてたこ唇になった一ノ瀬くんが見ていた。
「ご」
 素直に口をふさいだほうがずっとよかった。
「ごめん!」
 動揺してさらに両手に力を入れてしまってから、慌てて一ノ瀬くんの顔から離した。
「ごめん本当にごめん!」
 わたしは慌てて立ち上がろうとした。正座していたせいで両足が見事に痺れていたことを忘れて。
「あ」
 声を上げたのは一ノ瀬くんだった。思い切り体勢を崩したわたしは声も出せずに、あろうことか一ノ瀬くんがいる方向に倒れ込んだ。
 重い音と衝撃と痛みを同時に感じた。
「びっくりした」
 左耳のすぐ近くで一ノ瀬くんの声がした。思わず閉じていた目を開けて目の前にあったのは畳と自分の右腕。視線を少し左にずらせば何があるのかはわかっている。というかすでに視界に入っている。
 思ったよりも冷静な頭で状況を確認する。わたしは一ノ瀬くんを下敷きにしている。一人で無様に転ぶだけならまだしも一ノ瀬くんまで巻き添えにしてしまったのだ。とにかく少しでも一ノ瀬くんにかけている体重を軽くしようと畳に突いていた両腕に力を入れて何とか上半身を一ノ瀬くんから離す。一ノ瀬くんと目が合った。ついさっき一ノ瀬くんに押し倒されたときよりも近い。
「古谷さんは上のほうがいいの?」
 表情も声も一ノ瀬くんが怒っているふうには見えなかった。ただ何か不穏なことを言われたような気がしたから意味を深く考えるのはやめた。
 冷静な頭で状況を確認したわたしは、冷静な頭のまま何とか起き上がり一ノ瀬くんの上からどいた。メガネにも手をやって少しずれてしまったのを直した。腕や膝がじんじんと痛む。
「重かった」
 わたしに押しつぶされていた身を起こした一ノ瀬くんの声には非難の色はなくて悪いのはわたしで一ノ瀬くんはただ単に思ったことをそのまま口にしただけで表情も少なくともわたしには笑みを浮かべているように見えて、でも、でも、もうだめだった。冷静なふりをするのはもう限界だった。無理やり抑え込んでいた感情はそのせいで余計に勢いよく襲いかかってくる。
「大丈夫?」
 その声がとどめだった。
 一ノ瀬くんに大丈夫だと答えることもできず今度はよろめきながらも何とか立ち上がり、謝罪の言葉一つ口に出せないままわたしは部屋を飛び出した。
 顔が熱い。恥ずかしさで込み上げてきた涙で視界が滲む。痺れの残る足でぎしぎしと行きよりも大きな音を立てて廊下を戻り玄関に辿り着いた。手間取りながら靴を履き、戸に手をかけたところでやっと鞄を持っていないことに気づいた。
「忘れ物」
 振り返ったらわたしの鞄を持った一ノ瀬くんが立っていた。

 鞄を一ノ瀬くんから奪い取るように受け取ってしまった後どうやって家に帰ったかはよく覚えていない。周りの景色は何も見えなかった。家に帰ったら布団を頭からかぶって膝を抱えて部屋の隅で泣いた。いつもだったらお母さんに「何やってんのー」と布団をはぎ取られただろうけれど、幸いなことに今日は近所の奥様方と遊びに出かけて帰りは遅い。

「ただいまー」

 どれだけそうしていたのか遠くから大助の声が聞こえた。まずい。大助のことを忘れていた。だんだん近づいてくるどたばたうるさい足音を聞きながら、わたしは布団の中でさらに体を丸めた。
 大助はわたしが大助の部屋に入るのはいやがるくせに、自分は些細な用事でわたしの部屋に来るし何故か家に帰ると自分の部屋よりも先にわたしの部屋にやってくることが多い。下手に避けられたりするよりかはいいのかもしれないけれど、今日だけは来ないでほしかった。
「直ー! あれ?」
 願いもむなしく今日もやっぱりわたしの部屋にやってきた大助は電気を勝手につけた。部屋が明るくなれば部屋の隅の布団の山にいやでも気づく。
 いつの間にかわたしよりも図体が大きくなってしまった大助ももちろん気づいて、ずかずかと部屋に入ってきてわたしが必死に握り締めていた布団をあっさりとはぎ取った。
「……何やってんの?」
「何でもない」
 ぐずぐず鼻を鳴らしながら涙声で言っても少しも説得力がない。わたしは大助の手から布団を取り返して抱き締める。
「何でもなくねえじゃん。失恋でもしたんか」
 大助の言葉に、わたしは今日の自分の失態の数々を思い出し情けなさで涙が溢れてくるのを抑えられなかった。
「え、マジで失恋?」
 大助に言い返す気力もなく嗚咽だけを洩らす。大助が困ったような顔をしたのは、メガネがなくて涙で滲んだ視界でもわかった。
 恋愛話ができるほどうちはオープンな家族ではない。姉弟間でももちろんしたことがなかったから、こんなときどうすればいいのかお互いわからない。わたしはただ涙を垂れ流し、大助は低く唸ってから伸ばした右手でわたしの頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でて何も言わずに部屋から出て行った。
 大助の日に焼けてごつごつした手は一ノ瀬くんの手とは正反対で、そうやってまた一ノ瀬くんを思い出す。
 何がこんなに悲しいのか。
 一ノ瀬くんがわたしの想像と全然違ったこと。一ノ瀬くんにみっともないところばかり見せてしまったこと。
 ――じゃあもういい。
 一ノ瀬くんはあのときそう言おうとしたのだろう。一ノ瀬くんにとってわたしは本当にどうでもいい存在だというわかりきっていたはずのことが一番悲しい。

「直、カレー温めたぞ」
 しばらくしてから控えめなノックの後に大助が顔を覗かせた。布団を抱き締めたまままだ泣いていたわたしは、慌てて布団で顔を隠す。
「……ん、今行く」
 いつまでも泣いていても仕方がない。大助が行った後手を伸ばして机の上のティッシュ箱を取り、涙と鼻水を拭う。すっかり重くなってしまってまぶたを手の甲で抑えてメガネをかけてから立ち上がった。制服を着替えるのはご飯の後にしよう。
 ダイニングではお母さんが作っていったカレーを短パンにTシャツ姿の大助がよそっていた。つまり気味の鼻にもカレーのいい匂いが届く。
「どんくらい食べる?」
「大盛り」
「了解」
 大助に答えてわたしは冷蔵庫の中から福神漬けとサラダを出してテーブルに並べ、グラスに麦茶をついだ。
「いただきます」
 気まずい空気の中食事が始まる。
「今日数学の小テストがあったんだけどマジむずくってさー。直も千ちゃんに教えてもらってたんだろ? 昔からあんなん?」
「うん……」
 大助が無理に話を振ってくれたのに会話を続けられない。おいしいはずのカレーライスも、大盛りにしてもらったのを少し後悔していた。
 後悔。今日の一連の出来事を思い出すと色々な感情が合わさってとても言葉にはならないけれど、もし今日何もしなかったらそれ以上の後悔に襲われていたのだろうか。
 もし、今日わたしが何もできなくて一ノ瀬くんに告白したのがわたしじゃなかったら。

 一ノ瀬くんはわたしではない人の手を取り、わたしではない人と話し、わたしではない人と――。

 悲しいとは別の感情が体の中を這い上がってわたしは椅子を倒して立ち上がった。
 それは、恐怖だった。
「な、何なんだよいきなり」
 向かいの席で、わたしとの会話を諦めカレーライスを頬張っていた大助が驚いたように顔を上げた。
「ちょっと、出かけてくる」
「は? 今から? 飯はどうすんだよ」
「ラップかけといて。帰ったら食べるから」
 お父さんもお母さんも、帰ってくるまでにはまだ時間があるはず。
 急いで部屋に戻って、放り投げたままになっていた鞄から定期と携帯電話を取り出してポケットにつっこむ。洗面所でぼさぼさだった髪の毛を結び直して、腫れたまぶたはどうしようもなかったけれど顔を洗って涙の跡はしっかり流した。
 タオルで顔を拭きながらふと見てしまった鏡にはどうしようもないわたしが映っていた。ここに映っているわたしが今日あんなことやそんなことをしてしまったのだ。一ノ瀬くんはこんなわたしを見てどう思ったのだろう。
 落ち込みかけた気分は慌てて頭を横に振って追い払った。今はそんなことを考えるよりも急いで一ノ瀬くんのところに行かなければいけない。
 どういう経緯であれ、話すこともなく終わるはずだった一ノ瀬くんがわたしを見てくれようとした。そのチャンスをわたしは自ら手放そうとしているのだ。何もしないで一ノ瀬くんと別々の人生を送ることになるのがこわくて、絶対にできないと思っていた告白をして、理想は理想でしかなかったけれどわたしは一ノ瀬くんのことが好きで一ノ瀬くん自身はわたしと付き合ってもいいと言ってくれた。
 何をこわがっていたのだろう。数時間前の自分を蹴り飛ばしたい。
 一番こわいのは、そうやって何もできずに失うことなのに。

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