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 見えなかった君06
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 多感な時期に、テレビか何かで見た西洋人の神父に憧れていたことがあった。妙に潔癖でもあった頃にあの禁欲的な様は何よりも魅力的だった。
 それは恋とは違ったはずだけれど、わたしの理想像の一つになったのは確かで一ノ瀬くんにもそれを重ねていた。

 どうしても重ならなかった水着の女の人のポスターと一ノ瀬くんが重なって、わたしは理想はあくまで理想でしかなかったことをを認めざるを得なかった。
 意味もなく首を傾げると一ノ瀬くんもつられたのかわたしに覆いかぶさった格好のまま首を傾げた。
 わたしが好きになった一ノ瀬くんは本当の一ノ瀬くんではなかったのかもしれないけれどやっぱり一ノ瀬くんだった。暴れる心臓は少しも静まる気配がない。
 わたしはとにかくこの体勢から抜け出したくて何とか一ノ瀬くんに提案する。
「待って、待って、一回起き上がりたい」
 あからさまに不満そうな表情を浮かべた一ノ瀬くんに、こんな顔もするのかと妙な感動を覚えた。
 不満そうな一ノ瀬くんはそれでも渋々といった様子でわたしの上からどいて布団の横であぐらをかいた。わたしも慌てて起き上がり布団の上に正座して前髪とずれてしまったメガネを直す。
「何かよくわからないんだけど、わたしは、そんなつもりはなくて」
 声が出しにくい。
「俺のこと好きって言ったのはうそなの?」
「ちが、それはほ、本当、です」
 今自分がいつも一ノ瀬くんが寝ている布団の上にいるのだと思ったら、頭の中が余計にぐちゃぐちゃになって息をするのがますます苦しくなった。
「でも付き合うとかまでは考えてなくて、ただ伝えたかっただけで」
「好きなのに付き合いたくなの?」
「そういうわけじゃ」
 この感情をうまく説明できない。一ノ瀬くんが他の誰かと付き合ったりしたらわたしは間違いなくとてもショックを受けるし、一ノ瀬くんと付き合う妄想もしていた。
「でも、いきなりすぎて」
 本当はそれだけではないとどこかでわかっていたけれどわたしは無理やり言葉を続ける。
「一ノ瀬くんのこと、ずっと見てるだけで、クラスも違ったから一ノ瀬くんのこと見られた日は本当に嬉しくて、名前だってずっと知らなくて」
「そういやなんで俺のこと好きになったの? 今まで接点なんてなかったのに」
「あ、ええと、その、一目惚れ、です」
「俺に?」
 わたしは一ノ瀬くんのことを直視できずに小さく頷いた。
「変わってるって言われない? 俺、一目惚れとかされるような顔じゃないのに」
「そんなこと、ない。です」
「そう?」
「そう。です」
「俺のこと好き?」
 一瞬言葉に詰まって、今更恥ずかしがったって何の意味もないことを思い出す。胸に秘めていた想いはもう一ノ瀬くんに伝えてしまったのだから。
 わたしは大きく息を吐き出して、目の前の一ノ瀬くんを見た。こんなに近くに一ノ瀬くんがいる。
「好きです」
 声は震えなかった。
「じゃあやっぱり付き合おうよ」
 一ノ瀬くんの提案は本来ならありえないはずで、奇跡のようなものでそれなのにわたしはどうにかしてそれを否定してしまおうとしている。
「でも、一ノ瀬くんは」
「何?」
 今まで知らなかった。一ノ瀬くんがこんなに真っ直ぐに人を見ること。
「だか、ら、わたしみたいなの、生理的に無理、とか」
 中学時代の、気づかないようにしていた嫌悪に満ちた男子の陰口は、やっぱり自分のどこかに引っかかっていて今もこうして引きずっている。
「別に無理じゃないけど」
 あまりにもあっさり一ノ瀬くんは言い切って、心臓が跳ねた。
「無理じゃないから今こうしてるわけだし。そういうこと言われたことあるの?」
 今まで知らなかった。一ノ瀬くんがこんなにずばずばつっこんでくること。
「あ、いや、男子に、陰口みたいなの、言われたことがあったから」
「ふーん。で、付き合うってことでいい?」
 少しも気にする様子のない一ノ瀬くんに、ワンテンポ遅れてからわたしは慌てて首を横に振った。
「無理じゃなくても、一ノ瀬くん、わたしのこと好きじゃない」
 一ノ瀬くんはそもそもわたしの存在を知らなかったのだから当たり前のことなのに、自分で言って悲しくなる。
「君は俺のことが好きで、俺は女の体が見たい。それでいいじゃん」
 いいわけあるかという言葉は残念ながらのどまで来ることすらできずに胸の中に落ちてしまった。
「そんなに見たいなら、彼女とか、さっさと作ればよかったんじゃ」
 言いながら胸が痛む自分がばかみたいだった。
「好きな人なんていなかったし告白もされたことなかったし、いいなって思って告白して振られでもしたら俺のプライドが」
 そんなプライドは知らないけれど、わたし以外の誰かも一ノ瀬くんの心の中にいないことが嬉しいと思ってしまう。複雑な気持ちをどうにかやり過ごしてわたしは次の言葉を探す。
「じゃ、じゃあ、い、妹さんにでも見せてもらえば」
 これはさすがにないと口にしてから思った。一ノ瀬くんも眉を少し寄せた。わたしが知らなかった一ノ瀬くんの表情。
「やだよ。妹まだ中一だし妹だし。というかおとうにもおかあにも愛、って妹の名前ね。間違っても愛には手を出すなとか真顔で言われたんだけど俺そんなに妹に手を出すように見える?」
 おとうとおかあ。お父さんとお母さんのことを一ノ瀬くんはそう呼ぶのか。そんなことにも感動しながらわたしはつい真上のポスターをちらっと見上げた。さすがに水着のポスターを貼っているくらいでそんな心配はしないだろうけれど、ほとんど初対面のわたしに女の体が見たいとか言ってしまうような一ノ瀬くんが普段もこんな感じなら、確かに心配してしまう気持ちはわからなくもない。ような気もする。
 しばらく考えてからわたしは口を開いた。
「……わ、わたしは、見えないと、思います」
 惚れた欲目だ。
「なんでそんなに考えたの古谷さん」
 一ノ瀬くんがわたしの名前を呼んだ。どうしよう。どうしよう。嬉しい。すごく嬉しい。
「古谷さんは?」
「え?」
 感動に浸る間もなくもう一度名前を呼ばれて慌てた。
「男の兄弟いる?」
「あ、うん、弟が一人」
 弟の大助は三つ下で、昔は姉ちゃん姉ちゃんといつでもくっついてきてかわいい弟だったのに、今ではすっかり生意気になってわたしのことも呼び捨てにしてくる。
「男の体見たいからって、弟の体は見たくならないでしょ」
「それは」
 答えようとしてもそもそも男の人の体を見たいと思ったことがなかったからわからなかった。
「つまりそういうことだから付き合おうよ」
 そういうことがどういうことかもわからなかったけれどわたしは何とか声を出す。
「つ、つまり一ノ瀬くんが、わたしの、その、体を見たら、それで終わりに」
「じゃあ、ためしに付き合ってみて、これから先もうまくやっていけそうだったら見せてよ」
「うまくやっていけそうじゃ、なかったら……?」
 わたしが一ノ瀬くんの提案を頑なに拒む最大の理由をやっと自覚した。
「残念だけどお別れってこと、に」
 唇を噛んで、必死に涙を堪えようとしたわたしの顔を見て一ノ瀬くんは再び眉を寄せた。相当おかしな顔をしてしまっているのだろう。
「だから、いやです」

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