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見えなかった君05
声は震えて途中でひっくり返ったりしたけれど、ちゃんと声になっていた。
言えた自分に驚いて目を開けた。
「あ」
一ノ瀬くんの声にも驚いてうっかり顔を上げてしまった。
一ノ瀬くんがわたしを見ていた。目が一瞬合って、一ノ瀬くんがどんな顔をしているのかわかってしまう前に急いで両手に視線を落とした。
「えーと、名前とか全然知らないんだけど」
名前。
一ノ瀬くんがわたしのことを知っているわけがないことはわかっていたのに名乗るという行為に思い至らないほどわたしは冷静さを失っていた。
さすがにこの状況で名乗らずに、一ノ瀬くんにはどこの誰だかわからないままでいようとすることはできない。それに気持ちを伝えられただけでいっぱいになってしまった自分がいる一方で、一ノ瀬くんに少しでもわたしという存在を知ってもらいたいという自分がいる。
わたしはどうしても震えてしまう声で答えた。
「古谷、直で、す」
「俺のこと好きって、本気で?」
何だろう。この拷問のような展開は。
ただでさえ恥ずかしさでどうにかなってしまいそうなのに一ノ瀬くんはさらにわたしをめった打ちにするようなことを訊いてくる。
「……本気、です」
泣きそうな声になってしまうのは仕方がない。一ノ瀬くんはふーん、と言ったきり黙り込む。一ノ瀬くんの視線が刺さってくるような気がするのは気のせいであってほしい。
もしかしたら断わりの文句を考えているのかもしれないと思ったら、期待なんてしていたつもりはなかったのに、わかりきっていた結果なのに涙が込み上げてきた。
そもそも告白したこと自体が間違いだったような気までしてくる。一ノ瀬くんのことはわたしが一方的に知っているだけで、一ノ瀬くんにとってわたしは初対面の人間だ。そんな人にいきなり告白されたって困るに決まっている。
ミキちゃんを通してまずは知り合いになって、それからという道だってあったのにわたしは自分からその選択肢を消してしまった。今まで散々人に頼ってきたくせにこんなときだけ自分でどうにかしないといけないと思い込んで、何をやっているのだろうわたしは。
急激に上がった熱が少しずつひいていくのがわかる。
熱はエネルギーだ。わたしの背中を押してくれて、そしてときに暴走するのだと、暴走してから気づいても遅い。もう戻れない。なかったことにはできない。
一秒がとんでもなく長く感じる。今日は探偵部の活動日だからそろそろ誰か、少なくともミキちゃんは来るはずで、こんなところを見られたくはなかったけれどこの状況から解放されるならそれでもいいと思った。誰か早く来て。
「あれ、付き合ってくださいとかそういうのはないの?」
「……は、い?」
一ノ瀬くんの言葉にわたしはまた顔を上げてしまった。
「俺と付き合いたいんじゃないの?」
一ノ瀬くんは何事もなかったような顔をしていた。わたしは多分間の抜けた顔をしていた。
確かにそういう願望が全くないと言ったらうそになる。でも現実の一ノ瀬くんは妄想するのも申し訳なくなるようなくらいストイックな雰囲気で、もし彼女がいたとしたらきっととても知的でさわやかなカップルなのだろうと勝手に想像して勝手に苦しくなっていた。
というのは建前で、勝手に想像して苦しくなったのは事実だけれどもし一ノ瀬くんがわたしを好きになってくれたらとか、もし付き合えたらとか、そういう妄想はたくさんした。しないわけがなかった。でもあくまで妄想だけで、一度も話したことのない一ノ瀬くんにそこまで求める勇気はわたしにはなかった。
「付き合いたいなら俺は別に構わないよ。胸はもっとあるほうがいいけど別にないわけでもなさそうだし」
一ノ瀬くんの口から出てきた言葉が外国語のように聞こえて意味が全くわからなかったはずなのにわたしは反射的に両手に持っていた鞄を腕で抱えて胸を隠した。あれ?
「あ、ええ、と、あの」
「遅くなってごめーん! あれ、まだ二人しか来てないの? って、え、直ちゃん?」
思考が完全に停止した頭に、戸が開く音とミキちゃんの声が響いた。
後ろを向いてミキちゃんの姿を確認しようとしたけれど、体がかちこちに固まって動かなかった。
鞄を抱えた腕に力が入る。
「あ、横井、俺この人と付き合うことになった」
「は?」
ミキちゃんとわたしの声が重なった。
「ってことで今日はもう帰るから後はよろしく」
一ノ瀬くんは手早く机の上を片づけて鞄を肩にかけると再びわたしの前に立った。
「それじゃあ行こうか」
一ノ瀬くんがわたしに声をかけてくれた事実を認識する前に一ノ瀬くんの左手がわたしの二の腕を掴んで引っ張った。危うく落としそうになった鞄を左手で何とか持ち直してわたしは一ノ瀬くんに引っ張られるまま歩き出した。
「な、直ちゃん」
恐らく私と同じようにとても混乱しているだろうミキちゃんに見送られて視聴覚室を出た。
下駄箱のところで一旦解放されたわたしはわけがわからないうちに再び一ノ瀬くんに掴まった。
「腕組むのと手繋ぐのどっちがいい?」
「どっち、どっち」
声を出してはみたけれど意味なんてわからなくて一ノ瀬くんの質問に答えることはできなかった。
「俺、あれやってみたい。恋人繋ぎだっけ」
一ノ瀬くんの右手がわたしの左手に伸びてきた。わけがわからないうちにてのひらが合わさって指が絡まる。
一ノ瀬くんの手の大きさと温かさを感じて、世界がぐらぐら揺れた。
一ノ瀬くんとわたしは手を繋いで校門を出た。一ノ瀬くんとわたしが。一ノ瀬くんが。一ノ瀬くん。
校門を出て前の歩道をわたしの足は右に行こうとしたのに一ノ瀬くんは左へ行った。わたしも逆らえずに左へ行く。
「駅、違う」
駅は反対方向だということを伝えたかった。一ノ瀬くんはわかったらしく、涼しげな瞳を前に向けたまま言った。
「俺の家はこっちだから」
一ノ瀬くんの言葉は難しい。何を言ってもわたしはすぐに理解できない。
「うち親は共働きで夜までいないし、妹も確か今日は帰りが遅い」
たっぷり三秒は経ってから、だからそれが何なのだという疑問が湧いてくる。
本当はもっと根本的な、何故一ノ瀬くんとわたしが手を繋いで歩いているのかという疑問ももちろんあったけれど、呼吸困難に拍車がかかりそうだった上に心臓にとどめをさしかねなかったからから無理やり考えないようにしていた。
広いわりに交通量の少ない道路の歩道をしばらく歩いてから、一ノ瀬くんはもう一度左に曲がって小道に入る。
一気に緑が多くなる。わたしは空を覆う緑を見上げて現実から逃避した。のも束の間、緑が開けて飛び込んできた水色に目が痛くなったのと同時に一ノ瀬くんが立ち止まった。
「ぼろいけど気にしないで」
歴史を感じさせる平屋だった。妙に懐かしさを感じたのはわたしが昔住んでいた家に雰囲気がよく似ていたからかもしれない。
鞄から鍵を取り出すために一ノ瀬くんの手がやっと離れる。わたしはなかなか定まってくれない視線をそのままにして左手をきつく握り締めた。
家の中はひんやりとした空気が流れていた。慣れない匂いがする。お邪魔しますと口の中で言った。声にはならなかった。靴を脱いで、一瞬迷ってから揃えて慌てて一ノ瀬くんについていく。ぎしぎしと音が鳴る薄暗い廊下を進んで右手のドアを一ノ瀬くんが開けた。
「布団敷くからちょっと待ってて」
畳の部屋だった。どうしたって落ち着ける状況ではなかったけれど何だか落ち着くような気がした。
一ノ瀬くんは電気をつけると窓際の机の前に鞄を置き、脱いだ学ランを椅子にかけて部屋の右側にある押し入れを開けた。机の上にはノートパソコンらしきものがある。部屋はそんなに広くはないけれどわたしの散らかり放題の部屋とは比べられないくらいきれいに片づいていた。
左側の壁の前の大きな本棚には本がびっしりと詰まっているようだった。机の横の背の低いタンスの上にはプリンターが置いてあった。
ここは、もしかしなくても一ノ瀬くんの部屋。
視界に入った茶色い天井に水着の女の人のポスターが貼ってあったのは多分何かの見間違いだと思う。だからわたしは自分のつま先を見た。ああ、どうしよう。右の親指のところに小さな穴が開いている。よく見なければ気づかないような穴だけれどどうにか隠そうともぞもぞ動かしている間に一ノ瀬くんは何故か宣言通り布団を敷いていた。
「入っていいよ」
一ノ瀬くんの声につられて勝手に動いた右足を慌てて止めた。
待って。
この状況がわからない。わたしは暴走して勢いあまって一ノ瀬くんに告白してしまった。本当なら今頃は恥ずかしさと後悔でのたうち回りたい衝動と闘いながら電車に乗っているはずだ。
でもわたしは今一ノ瀬くんの部屋にいる。もう二度と顔を合わせられなくなってしまったはずの一ノ瀬くんもすぐそこにいる。何かの間違いでなければここに来るまでに手も繋いだ。
「一ノ瀬、くん」
掠れた声で一ノ瀬くんの名前を呼んだ。一ノ瀬くんは穏やかな笑みをわたしに向けた。
一ノ瀬くんのことが本当に好きだった。ほんの一瞬でも姿を見ることができた日はそれだけで一日中幸せだった。
「何?」
今まで言葉を交わすことなんて夢でしかなかったのに、どうして一ノ瀬くんはわたしの呼びかけに答えてくれるのだろう。
「やっぱこわい? でもいずれ通る道なんだし大丈夫だよ」
やっぱり何か変だ。
やさしい言葉をかけてくれているはずなのに何故かとてもこわく感じる。
一ノ瀬くんがわたしに近づいたと思った瞬間、掴まれた手首を思い切り引っ張られてバランスを崩した。鞄が落ちる。
あちこちに衝撃を感じて何が起こったのか把握する前に水着の女の人と目が合い、自分が一ノ瀬くんが敷いた布団に横たわっていることを知った。
「え、え?」
水着の女の人が一ノ瀬くんの顔で隠れた。
両耳のすぐ横に一ノ瀬くんが両手を突いて、顔に血が上るのがわかった。近い。
「一ノ瀬くん!」
焦ってもう一度一ノ瀬くんの名前を早口で呼んだ。声が出てよかった。
「ん?」
「何、何してるの!」
「何って、交際中の男女が布団の上ですることと言ったら」
「待って待って待って」
思ったことが勝手に口から出る。ときと場合によっては困るかもしれないけれど今のこの状況では助かった。
すぐに理解できない一ノ瀬くんの言葉を何とか拾い上げる。
「いつそんなことに」
「だって君が俺のこと好きだって」
「だだだだだから! それはわたしが一方的に」
「だから俺は別に君でもいいと思ったから」
何かがおかしい。何かがずれてる。
「女の体、ずっと見てみたかったんだよね。画像とかでなら見れるけどしょせん画像だし本物はさすがに簡単には見れないし、そこにちょうど君が」
待って待って。
一ノ瀬くんが言っていることを理解したくないと思えば思うほど、頭の中で何度も繰り返されてしまう。
違う。こんなの、違う。
「一ノ瀬くんは、ストイックで、そんなこと、違う」
「ストイック? 何それ」
わたしを見下ろしながら鼻で笑うこの人は、一体誰。
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