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 見えなかった君04
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 一ノ瀬くんの姿を見たかったから。理由はそれだけだった。

 一年のときは何ヶ月も姿を見られないこともあったのに、たった数週間見られなかっただけでどうにかなってしまいそうだった。ミキちゃんにもらった小さな写真を見て泣いた。一ノ瀬くんのことを考えるのがいやになるくらい、一ノ瀬くんのことを考えると苦しくなった。
 一ノ瀬くんと同じ探偵部のミキちゃんに頼めば、一ノ瀬くんに会うことは簡単なのだろうけれどそのままミキちゃんに寄りかかってしまいそうで頼めなかった。ミキちゃんに寄りかかることを覚えたわたしが余計に動けなくなるのは目に見えていた。
 探偵部。
 今視聴覚室に行けば一ノ瀬くんがいる。
 放課後の教室掃除を終えた後、突然膨れ上がってきた熱に押され下駄箱から取り出そうとした靴を戻してわたしは引き返した。
 一ノ瀬くんの姿を見たいなら見に行けばいい。簡単なことだった。簡単なことだけれどわたしには難しいことだった。
 でもわたしは今こうして視聴覚室の前に立っている。

 部外者が勝手に入っていいのかわからない。ミキちゃんに会いにきたことにするわけにもいかない。
 とりあえずこの場から離れる言い訳を作ってこれからどうしようかと考えていたら肩をつんつんとつつかれて飛び上がりそうになった。同じようなことが前にもあって、そのときはミキちゃんが後ろに立っていたから今度もミキちゃんだと思って振り返った。
「入部希望者? って、あ、三年か」
 想像していたよりも低い声だと思った。思ってからちゃんと声を聞くのは初めてなのだと気づいた。背が、初めて見たときよりもやっぱり伸びていた。
「視聴覚室に忘れ物? 鍵開いてるはずだけど」
 息ができなくなって、顔に血が上るのを感じてからやっと、目の前のこの人が誰なのかを理解した。

 一ノ瀬高志。わたしの好きな人。

 あの一ノ瀬くんが目の前にいる。
 あの一ノ瀬くんに話しかけられた。
 あの一ノ瀬くんがわたしを見ている。
「ミ」
「み?」
「ミキちゃん」
 情けない声が出た。わたしは一ノ瀬くんの目を見つめたまま逸らせなかった。自分がひどい顔をしているということだけはわかったけれどそれ以上は考えたくなかった。
「ミキちゃんって」
 一ノ瀬くんがわたしの言葉を聞き返す。他に何も出てこなくてミキちゃんの名前を出してしまった。今さら違うとも言えなくて、正常な状態ではない頭を何とか働かせようとしたけれど無駄に終わった。
「ミキちゃんは、ミキちゃんは、よ、横井美紀!」
「ああ、横井に用? 今日は少し遅れて来るみたいだから中で待ってなよ」
 数秒遅れてから何とか意味を理解し、入り口をふさいでいたわたしはこくこく頷いてから横にずれた。
 一ノ瀬くんが戸を開けるのを凝視しながら、頭の中はありえないという言葉とどうしようという言葉で埋め尽くされていた。

 一ノ瀬くんの後に続いてわたしも視聴覚室に入って、少し迷って戸を閉めた。その場に立ったまま、一ノ瀬くんが一番前の右端の席に座るのを見ていた。
 どうやら本を読み始めたようだった。
 一ノ瀬くんが同じ空間にいるという現実をまだ受け入れられなかったから、さっきの一ノ瀬くんとのやりとりを何度も繰り返した。今までとは情報量が違いすぎてやっぱり頭が追いつかない。
 あの目がわたしを見て、わたしもあの目を見た。ほんの数分前まで、そんなことは夢のまた夢でしかなかったのに。
 わたしは一ノ瀬くんが好き。ずっと好きだった。今も苦しいくらいに好きで、これからも好きでいる。
 心臓はもういつ止まってもいいやと言わんばかりの勢いで動き続けている。
 この広い視聴覚室に一ノ瀬くんと二人きり。夢みたいだけれど、多分これは現実。
 黒いカーテンは今日は全部開いていて、教室の両側にある窓から爽やかな水色や緑が見えて落ち着かない。
 わたしは右肩にかけていた鞄を下ろしていつの間にか汗ばんでいた両手で持った。
 こんなチャンス、きっともう二度とない。これが、わたしが一ノ瀬くんに自分から気持ちを伝えることのできる最初で最後のチャンス。このチャンスを逃したらもう終わりだ。一ノ瀬くんはわたしのことなんて何も知らずに、わたしだけが一ノ瀬くんのことを引きずって今日何もできなかったことを後悔する。これからずっと、後悔する。
 一ノ瀬くんの遠い背中を見つめながら自分を追い詰める。
 熱に押されてここまで来た。そのおかげで初めて一ノ瀬くんと言葉を交わすことができた。
 熱はエネルギーだ。何もできないわたしを突き動かしてくれる。一ノ瀬くんへの熱。
 足を一歩前へ。
 動け動けと念じる。
 気持ちを伝えることでこの恋が砕けてしまっても、何もしないで後悔するよりはずっとましだ。たくさん泣くかもしれないけれどその後はきっと前に進める。だから。
 右足が前へ出た。勢いが止まらないうちに左足も出して一番右側の通路を進む。歩き方がわからない。息の仕方もわからない。
 前から三番目の長机のところまで来て足がもつれそうになって止まる。本を読んでいた一ノ瀬くんが気づいてわたしのほうを向いた。
「何? どうかした?」
 鞄の持ち手を握り締めた両手を見つめてから、わたしは顔を上げて一ノ瀬くんを見た。
 一ノ瀬くんの目にわたしはどんなふうに映っているのだろうと考えて、中学時代に男子に陰でメガネと呼ばれていたことを思い出してしまった。あのときは事実だったから気にしなかったけれど、一ノ瀬くんにも同じように思われているかもしれないと思ったら今までお気に入りだったメガネが無性に恥ずかしく思えてきた。
 髪だって中途半端な長さのを後ろで適当に一つに結んでいるだけ。恋をしても遠すぎたからおしゃれをしようなんて思わなかった自分を恨んだ。一ノ瀬くんの近くにはミキちゃんみたいなおしゃれでかわいい女の子がいるのに。
「わたし」
 一ノ瀬くんが怪訝そうな顔でわたしを見ているからわたしは無理やり声を出した。
 のどはからからに渇いていてつばもうまく飲み込めない。
 全身の震えは止まらなくて涙が溢れそうになる。
 恥ずかしい。
 こわい。
 逃げたい。
「何か顔赤いけど、大丈夫?」
 一ノ瀬くんが立ち上がってわたしのほうへ来て、わたしは思わず後ずさって足を机にぶつけた。
 それを見て一ノ瀬くんも立ち止まる。一ノ瀬くんのことを見ていることができなくて、目をきつく閉じてうつむいた。
 一ノ瀬くんのことが好き。それを伝えるだけ。残念ながらわたしには何の魅力もいいところもなくて、そもそも一ノ瀬くんはわたしのことなんて全然知らなくて、今までも、このままならこれからも何の関わりもない人で、そこまで考えたらもうどうでもよくなった。

「わたし、一ノ瀬くんのことが好きです!」

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