トップ - 小説一覧 - 青い鳥はいない・おまけ ←前へ   あとがきへ→


  彼女の部屋

 ぐがっと大きく響いた薫子のいびきに驚き双葉はびくりと震えた。
 初めて入った薫子の部屋。部屋の主は双葉を置いて大の字で熟睡していた。
「薫子……」
 もしかして朝が弱かったのか。だからあんなに勉強会は午後からがいいと言っていたのかもしれない。
 薫子とできるだけ一緒にいたいという自分の気持ちを優先させてしまったことを反省しながら、双葉は部屋を見回す。
 ぬいぐるみに囲まれた部屋はどこを見てもぬいぐるみと目が合う気がする。
 一人遊びが大好きな薫子はぬいぐるみを使ってどんな遊びをしているのだろう。想像するだけで頬が緩んだ。
 薫子のことを知れば知るほど好きになる。もっと早く声をかけていればよかったと、甘いのか苦いのかわからない後悔を胸に抱きながら双葉は深く息を吐き出した。
 薫子は目立たないようで目立つ。変わった転校生と一緒にいるのもあるが、薫子自身もどこか目をひく存在感を持っている。
 双葉の周りでは変な人というイメージが定着していた。全然それだけではないことをあえて教えてライバルを増やす必要はないから否定はしていない。
 しかし薫子の隣の席の寺崎にとって薫子はすでに変な人だけではなくなってしまっていた。腕に止まった巨大蛾を薫子に取ってもらって以来、寺崎の視線がよく薫子を追いかけていることを双葉は知っている。思わず同情するくらい完全に一方通行、加えて薫子は今双葉とつきあっていて入り込む隙間もないため牽制は控えているが。
 それに双葉が今寺崎よりも気になるのは、薫子の頬にキスをしたという男の存在だった。
 過去のことだからどうにもならないのはわかっている。だからせめてその過去を今で塗りつぶしたい。
 交際相手の前で無防備に寝ている薫子を双葉は視界の端に捉える。薫子が本当に何も考えずにそうしているのはわかっているから、できるだけ視線を向けないようにしていたが気にならないわけがない。
 双葉はしばらくの間葛藤を繰り返し、意を決して立ち上がった。
 窓際のマットレスで熟睡している薫子の元へ歩み寄り膝をつく。
 あどけない寝顔は起きているときの薫子とはまた違った魅力があり双葉は思わずのどを鳴らした。
 薫子は、今まで知らなかった様々な感情を双葉に教える。それは決してプラスのものだけではなく、むしろマイナスの感情のほうが多いかもしれないがどれも今までよりもはるかに大きな幸福感に繋がっていた。
 おそるおそる手を伸ばして頬に触れてみたが反応はない。そのまま誘われるように指先が薫子の唇に一瞬触れ、双葉ははっと我に返り手を離した。
 部屋中のぬいぐるみに諫めるような目で見られているような気がして、双葉は慌てて元いた場所に戻った。





  兄のお眼鏡

「双葉。俺、薫子ちゃんに告白されちゃった」
 薫子を送り届け戻ってきた若葉がそう告げると、風邪をひいてベッドに横になっていた双葉は飛び起きてその大きな目で若葉を見つめた。
 双葉から彼女ができたと聞いたときは、とうとうこのときが来たのかと感傷的な気持ちを抱きながらも表面上は弟を精一杯祝福した。
 恋人の存在自体にはなんの問題もない。自慢の弟にいつまでも恋人ができないほうがおかしい。
 若葉にとっての問題は双葉がどんな相手とつきあっているのかということだった。
 双葉の選んだ子ならという思いもあったが、その前に双葉はまだ子供だ。間違うこともある。だからもし双葉によくない影響を与えるような相手ならそれとなく引き離すつもりでいた。
 そしてその相手とは予定外の対面を果たすこととなった。
 槙村薫子と名乗った双葉の交際相手は可なくも不可もないような平凡な印象の少女だった。
 双葉の少し変わっていて面白くてとてもかわいいという話から想像していた、双葉のように明るく愛くるしい少女とは違っていたが惚れた欲目の範囲に収まる誤差だろう。
 しかし、即刻双葉から引き離さないといけないような相手ではないと判断した若葉に対する薫子の反応は、いい意味で若葉の期待を裏切るものだった。
 あの場面で建前を取り繕うことをせず双葉のことが大嫌いで不幸にしたくてつきあっていると言ったあげく、交際相手の兄に躊躇いもなく好意を告げる少女のことを若葉は気に入った。
「意外と普通の子って思ってたけど確かに面白い子だね」
 幸福を常に当たり前のように享受できる双葉はある種の人間にとっては毒だ。双葉を不幸にしたいという薫子はまさにその種の人間なのだろうと若葉は思う。そしてそういう人間にとってその毒は抗いがたい甘い蜜にもなる。口では何を言っても、薫子が双葉にどうしようもなく惹かれているのは間違いなかった。
「兄ちゃん」
 若葉は目に涙を浮かべながら自分を見つめる双葉を横にならせると、珍しい反応を見せるかわいい弟の頭をそっと撫で、笑顔を見せながらもそれ以上は何も答えなかった。





  秘密のキャサリン

「キャサリンってさ、いつからキャサリンって名乗ってるの?」
 ざわついた昼休みの教室で、私のところにやってきて真っ赤なワンピースにそれとお揃いのリボンをつけたクマのぬいぐるみのクマ子を披露していたキャサリンはクマ子と一緒に顔を上げた。
「んー?」
 右耳の上で一つにまとめられたキャサリンの髪にもクマ子と同じ真っ赤なリボンが結ばれていた。派手なリボンだからつい目がいく。
「前から気になってたんだよね」
 さすがに生まれたときからこのキャラではないはずだ。
 また「キャサリンはキャサリンだよっ」とか意味のわからないことを言われるかと思ったけど、クマ子のワンピースが会心の出来でご機嫌のキャサリンは「中学に入るくらいの頃かなぁ」と衝撃的な答えを返してきた。
「なんかきっかけがあったりとか」
「きっかけって言うか、それまでパパとママに褒められたくていろんなこと我慢してたんだけど、今死んだらキャサリン絶対にすっごく後悔するなって、急に気づいたのっ」
 私の正面の教卓の上でクマ子を踊らせながら、いつもと変わらない口調でキャサリンは言った。
「パパとママも、キャサリンが生きたいように生きるのが一番だよって言ってくれたからっ」
「ふーん。じゃあ、キャサリンになった今は後悔しないんだ」
「まっさかぁ。後悔はどうやってもするんじゃないかなっ。キャサリンは、死ぬときにする後悔を少しでも減らそうとしてるだけだよっ」
 当たり前のことのようにそう言えるキャサリンはきっと、クラスの誰よりも大人だ。キャサリンとは腕相撲以外にもどんな勝負をしても勝てる気がしない。
 クマ子はキャサリンの手によってまだ踊り続けていた。
「中学に入るくらいってことは、前の学校でもそのキャラだったんだ。うまくいってた?」
 うちのクラスではうまくいかなかった結果、キャサリンは今ここにいるのだと思うと不思議な気持ちになる。
「キャラじゃなくて本当のキャサリンだってば。前の学校では友達たくさんいたよっ。新島さんタイプの子が、誰とでも仲良くできる自分をアピールしたい子だったから」
 珍しくキャサリンの言葉に刺があって驚いた。
「アピールって、本当に仲良くしたいと思ってたんじゃなくて?」
「だってぇ、キャサリン、なんかいつも見下されてたんだもんっ」
 キャサリンは口をとがらせて頬をふくらませた。
「まあ、キャサリンもその分色々利用させてもらってたんだけど」
 続けてぼそりと聞こえた不穏な言葉は聞こえなかったことにした。
「今は友達はカオルンだけだけど、今のほうがずっと楽しいよっ」
「……うん」
 面と向かって言われて嬉しいけど照れくさい。
「それに、カオルンはキャサリンにうそつかないし人の悪口言わないしっ」
「黒岩くんの悪口ならいくらでも言えるけど」
「それってのろけ話とおんなじだもん」
「……あと、うそくらいつくよ。なんでも話すわけじゃないし」
 黒岩双葉のことだって本当はキャサリンにも隠すつもりだった。
 キャサリンも、うそはともかく私に言わないことなんて山ほどあるだろう。
「うん、そこで肯定しないではっきりそう言ってくれるところが好きっ」
 キャサリンのとびきりの笑顔が眩しすぎて私はクマ子の顔を見つめた。





  ある日の体育の授業

 ボールは凶器だ。
 目の前で繰り広げられているバレーボールの試合を眺めながら思った。
 昨夜から今朝にかけての土砂降りの雨のせいで、今はもう雨は止んでいたけど二時間目体育の授業は、外で授業のはずの男子もネットの巨大カーテンで半分に区切られた体育館の向こう側でバスケの試合をしている。試合待ちの女子の半分以上は、目の前の試合じゃなくてカーテン越しに男子の試合を見ていた。
「カオルンカオルン、黒岩くんあそこにいるよっ」
 飛び交うボールを見ていられなくて抱えた膝を見つめていたら左隣に座っていたキャサリンに肩を激しく叩かれた。
「どうでもいい」
「あ、こっち見た。ほらほらっ」
 激しく叩かれた肩を激しく揺すられて仕方なく顔を上げた。バレーのコートを挟んでカーテンの向こう側、同じく試合待ち中らしく暇そうに立っていた黒岩双葉と目が合った。途端にしっぽを振る犬みたいに嬉しそうに手を振り出した黒岩双葉からはすぐに目を逸らした。私の代わりにキャサリンが手を振り返した。
「もう、カオルンも手くらい振ってあげればいいのにっ」
「私今それどころじゃないから」
 もうすぐあの凶器が飛び交うコートに立たないといけない。
 うまくいけば一度もボールに触らずにすむしパスされてもすぐに近くの人にボールを渡せばどうにかなるバスケと違って、バレーは自分の場所に飛んできたボールから逃げるわけにもいかないし受けたボールがどこ飛んでいくかもわからない。何より順番が回ってきたら強制的にサーブを打たされる。手以外の場所でボールを受けることが多い私は、サーブが相手コートに入ることが滅多になかった。
 ろくな思い出がないから球技はまとめて嫌い。
 マット運動も苦手だけどうまくいかなくても困るのは私だけだからまだいい。
 その点陸上競技、特に持久走はひたすら走るだけで天国のようだった。息苦しさなんてボールをとんでもない方向に飛ばしてしまったときの気まずさに比べれば楽なものだ。
「早く持久走になんないかな」
「バレー、本当に嫌なんだねカオルン」
 キャサリンが私のつぶやきに反応する。
 キャサリンはドジっ子アピールしてそうなキャラのくせして運動神経抜群で体育の授業はなんでもこいという裏切り者だ。
「確かにこの間の顔面レシーブはひどかったけど」
 キャサリンの言葉に猛スピードで迫ってきたボールの恐怖がよみがえる。鼻血でも出れば試合を抜けられたのに残念ながら私の鼻は頑丈で痛いだけでうんともすんとも言わなかったため、私が平気なのがわかるとそのまま試合は続行された。
「はい、じゃあ次の試合やるよー」
 すっかり痛みはとれた鼻をなんとなくさすっていたら、先生の声が恐怖の時間の始まりを告げた。
「カオルン、頑張ろうねっ」
 お尻をはたきながらキャサリンが立ち上がって言った。敵チームのキャサリンはやる気満々だ。

 今日は調子がいい。こわいくらいにいい。試合開始から十分、私はいまだかつてないほど絶好調な自分に驚いていた。サーブは入るし私のところに来たボールは手に当たってとりあえずコート内に打ち上げられたし、私の普段の惨状を知っている同じチームの子たちも驚く絶好調ぶりだった。
 それですっかり油断していた。
 普段ならボールの行方を必死に追いながら警戒していたのに今日は調子にのってコートの外に気を逸らしてしまった。ネットのカーテン越しに、同じく試合中の黒岩双葉と目が合った。黒岩双葉の目が見開かれたのを疑問に思う前に、やけに響く嫌な音とともに左肩に衝撃を受けた。
 余りにも突然の衝撃だったから痛みよりも先に驚きで腰が抜けたようにその場に座り込んでしまった。
「薫子!」
「カオルン!」
 二種類の声が合わさる。私が当たったのはキャサリンが打ったサーブだったようだから、キャサリンが駆け寄ってくるのはまだわかる。
 私の目は、血相を変えてカーテンをくぐってこっちに向かってくる黒岩双葉の姿をずっととらえていた。
「薫子!」
「こら黒岩ぁ! 何やってんだ! 戻れ!」
 キャサリンよりも先に私のところにたどり着いた黒岩双葉は、男子の体育の先生のものすごい怒鳴り声にびくりと肩を震わせながらしゃがんで私に目線を合わせた。
「薫子」
 笑ってしまうくらい心配そうな瞳がそこにあった。
「大丈夫、なんでもない。ちょっとびっくりしただけだから」
 私は左肩を回してみせる。
「でも」
「ほら、そこの男子! 戻って!」
 女子の先生にも注意されて黒岩双葉はやっと立ち上がった。
「カオルン、ごめんっ」
「槙村さん、大丈夫?」
 キャサリンと先生に頷いて私も立ち上がる。黒岩双葉に手を引いてもらいながら。
 黒岩双葉は何度も私のほうを振り返って駆け足で戻っていった。黒岩双葉のせいで余計にざわついていた女子のコートでも試合が再開される。
 黒岩双葉が先生に怒られているのを横目で見ながら左肩を押さえて大丈夫そうなのをもう一度確認して、私は今度こそ本当にボールに集中した。

 予想はしていたけど、体育館の更衣室を出たら黒岩双葉が待ち構えていた。
「薫子」
「本当に平気だから。なんならぶつかったとこ見てみる?」
 ワイシャツのボタンに手をかけたら黒岩双葉に慌てて止められた。
「ごめん、わかった」
 横を見たらさっきまでいたはずのキャサリンの姿がいつの間にか消えていた。気をきかせたつもりらしい。黒岩双葉と一緒に教室に戻らないといけないのか。私はため息をつきたくなるのを抑えながら黒岩双葉に向き直った。
「先生に怒られてたね」
「超こわかった」
 ざまあみろ。黒岩双葉にダメージを与えられたことに私はとりあえず満足する。これが怪我の功名ってやつかもしれない。
「薫子が怪我とかしたらって思ったら、頭真っ白になって。無事で本当によかった」
 たかがボールが肩にぶつかったくらいで大げさな。
 黒岩双葉の左手が私の右手をつかんでしまうから、そのまま教室に戻ることになった。最近周りの視線が気にならなくなりつつある自分が少しこわい。


←前へ   あとがきへ→


トップ - 小説一覧 - 青い鳥はいない・おまけ