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 いつもより三十分遅く目が覚めた。
 いつもなら勝手に部屋に入ってきて起こしてくるおばさんが今朝は来なかったらしい。
 おばさんは元々こっちの都合なんか無視して目覚まし時計が鳴る三十分も前に起こしにきていたからこれが本来の起床時刻だ。遅刻の心配はない。


  15.かごの鳥


 部屋を出て、朝ごはんを求めて台所に向かうとおばさんがいない代わりに珍しくおじさんがいた。この時間は家にいないか、いても寝ていることが多いのに。
 ダイニングのテーブルに向かって、何故かうなだれて座っている。顔を見るのが久しぶりすぎて一瞬知らない人に見えた。
「何してるの?」
 思わず声をかけるとおじさんは弾かれたように顔を上げた。
「あ、いや。おはよう」
 無精ひげの伸びた顎をさすりながらパジャマ姿のおじさんは立ち上がった。と思ったらまた座った。
 おじさんはおばさんよりも二つ年下で、つまり十八歳のときに私の父親になった。昔から老けていて、おばさんのほうが年上だと思う人はまずいないけど。
 とにかくその若さで駆け落ち同然でおばさんと結婚して子供を抱えて、相当苦労しただろうということは聞かなくてもわかる。私が小さい頃は仕事がよく変わっていて、私が「今は何屋さんなの?」と尋ねるといつも違う答えが返ってきていた。今は何屋さんなのか知らない。
「薫子はさ」
 おじさんと口をきくのはいつ以来だろうと思いながら冷蔵庫を開けて牛乳を取り出した。
「薫子は、やっぱママと一緒がいい?」
「なんの話」
 一応とぼけてみたけどそんなこと、訊くまでもない。とうとう私に話す段階まできたのか。
「実は、その……パパとママ、もしかしたら離婚、するかもしれなくてね」
 私が何も知らないと思っているおじさんの深刻な顔が滑稽だった。
 もしかしなくてもするくせに。おじさんとおばさんの言動を見ていれば、この二人がもう元には戻れないことくらい小さい子供だってわかる。私だって嫌というほどわかっている。
 全部、わかっていたことなのに心臓が嫌なふうに動く。
「もし本当にそうなった場合、どっちと一緒にいるほうが薫子は幸せなのか、ママと考えてるんだけどなかなか答えは出なくて、薫子の気持ちもちゃんときいておきたくて」
「……うそつき」
「え?」
 おじさんもおばさんも私のことなんて考えてない。私はただのお荷物で、だから二人ともそっちと一緒にいるほうが私のためだと言いながらお互いに押しつけあってるくせに。
 それなのに真面目な顔で私のことを考えているんだと言えるおじさんが滑稽で、気持ち悪い。コップに注いだ牛乳を一気に飲み干した。
「どっちでもいい」
 どっちについていったって私が邪魔なことに変わりはない。
「……そっか。あ、それとママ、今日からしばらく家をあけることになったから家のことママの分まで頼むな」
「仕事?」
「いや、なんというか、別居的な、ね」
 面倒くさいなと思いながら訊いたら、想定していない答えが返ってきた。想定しておくべきだった。私を起こさなかったのは、そういうことなのか。
「友達の家にお世話になるらしくてね、たまにはうちにも帰ってくるらしいんだけど」
 黒岩双葉のうちの、廊下に積まれていたダンボールを不意に思い出した。
「あ、これはすぐに離婚とかいう話じゃなくて、一度距離を置いて――」
「私」
 おじさんの言葉を無理やり遮った。
「名前が変わるの、やだ」
「……そっか、わかった。ママにもそう伝えておくよ」
 おじさんのほうはもう見ないで部屋に戻った。
 心臓が、おかしい。
 どこか遠かった未来が現実になりつつある。
 そしておばさんは家を出ていった。私に何も言わずに。
 部屋を囲むぬいぐるみたちの視線を感じる。体の先端から凍りついていく。
 昨日のおばさんはいつもと同じだった。いつも通り、ちゃんとした母親みたいな顔して、少なくとも私の前ではこれからもずっと、そうしてくれると当たり前のように思っていた。
 おばさんにとって私は、しょせんその程度の存在だったんだ。おばさんは本当に私のことがいらなかったんだ。
 どこかでおばさんのことを信じていた自分を自覚して足元のウミスケに八つ当たりしそうになった瞬間、机の上に置いていた携帯が鳴り出した。
 この時間に私の携帯を鳴らす奴なんて一人しかいない。
 一応確認したらやっぱり黒岩双葉だった。いつも通り、おはようから始まる能天気な内容のメール。いつも五文字ルールに則って適当に、それでも律儀に返していたメールを今日は無視した。
 最悪の気分の朝に黒岩双葉の顔なんて思い出したくもない。
 でもおかげで、涙は引っ込んだ。こんなことくらいで泣いてたまるか。

 遅刻ぎりぎりの時間に家を出た。黒岩双葉は間抜けにもまだ橋のところで私を待っていた。
「おはよう、薫子」
 お決まりの幸せ全開の笑顔が普段の何倍も癪に障ったから無視して横を通り過ぎた。
「薫子? 薫子ってば」
 人の名前を連呼するな。大股の早足で進んでも黒岩双葉の声は遠ざからないどころかあっという間に横に並んでしまった。
「なんかあった?」
「何もない」
 黒岩双葉に言うことなんて何もない。
「その態度だとなんかあったって言ってんのと同じだよ」
 自分でもわかっていることを黒岩双葉に指摘されてイライラした気持ちはどんどんふくらむ。
「何かあったけど双葉には絶対言いたくない」
 黒岩双葉の顔を見たくない。話もしたくない。
 さすがの黒岩双葉も私の拒絶オーラの大きさに気づいたのかその後は黙って私の横を歩いた。

「今日のカオルン、ものすごくご機嫌斜めだねっ」
 休み時間に私のところにやって来たキャサリンは、性懲りもなく私に話しかけてくる黒岩双葉と、黒岩双葉を思いきり無視している私を見比べて言った。
「何かあったの?」
「いや、それがわかんなくて」
 黒岩双葉の視線を避けるように机に突っ伏した私の上で、キャサリンと黒岩双葉はああでもないこうでもないと的外れな会話を繰り広げていた。

 家に帰りたくない。
 上履きから靴に履き替えて外に出たところで唐突に思った。正確に言うと朝からずっとどこかで思っていたことを、はっきり自覚したのがそのときだった。
 ちなみに横には今日一日無視し続けたのがきいたのか不気味なほど沈黙を守っている、それでもこうして私についてくる黒岩双葉がいた。
 黒岩双葉のしつこさはよく知っている。何があったのかしつこく訊かれるよりはいいと思って私は黒岩双葉はいないものとして歩き出した。のもつかの間。
 右隣を歩いていた黒岩双葉に手を取られた。
 それでも無視して歩こうとしたけれど手をつないでいたら嫌でも黒岩双葉の存在を感じずにはいられない。
「離してよ」
「嫌だ」
 朝ぶりの会話はそれで終わった。
 残念ながら私は黒岩双葉には力では勝てない。キャサリンの腕力があればと思いながら黒岩双葉につかまれた手をそのままにして歩くしかない。
 ふと気づくといつもの道とは違う道を歩いていた。川沿いの道の途中で分かれた小道の先。この間黒岩双葉と立ち寄った小さな公園まで来て黒岩双葉は立ち止まった。
 無人の公園。強烈なにおいを放っていた金木犀は花が散ってただの木になっていた。
 ベンチに黒岩双葉と並んで座る。手はつないだまま。黒岩双葉が口を開く気配もない。風でこすれる木々の葉の音がやけに耳についた。
 黒岩双葉は一体何がしたくてこんなところにいるんだ。
 まさかこれは、何があったか言うまで離さないぞという無言の脅しじゃないだろうな。
 気づいて黒岩双葉のほう見たら黒岩双葉も私を見ていて目が合った。どんな顔をしているのかと思ったら、いつも通りの能天気な笑顔を浮かべていた。
 黒岩双葉の笑顔と、それにどこかで安心してしまった自分に猛烈な苛立ちを感じて私はわざとらしくそっぽを向いた。
 やっぱりだめだ。黒岩双葉は無理だ。
「双葉は」
 名前を呼んだ瞬間、私の手を握る黒岩双葉の手に力が入ったのがわかってしまう。
「どういうとき、幸せじゃなくなるの」
「今だって、幸せじゃないと思えばそうなるけど。薫子、何も話してくれないし」
「でも、双葉はそんなふうに思わないじゃん」
 質問の仕方を間違えた。
「どういうとき、幸せだって思えなくなるの」
「んー、つらいこととか悲しいこととか色々あるけど、でもそういうのってあって当たり前だし、あるから幸せだって思えるし。立ち直れないくらいの状況になったことってまだねえや。俺、本当に幸せ者だって思う」
「うちのおじさんとおばさん、別居するんだって」
 幸せそうな黒岩双葉に耐えられなくなって私は黒岩双葉には言いたくなかったことを結局口にした。
 黒岩双葉もさすがに笑顔は引っ込めた。
「おばさんが、朝起きたらいなくて、おじさんに言われるまで私、何も知らなかった。おばさんは私に何も言わないで出ていった。これってつまり、おばさんは私のことなんてどうでもいいって思ってるってことでしょ」
「そういうこと、直接言われたわけじゃ」
「言われたのと同じだよ。私のこと本当にいらないんだよ。これって、双葉にとって幸せだって思えないようなこと? それとも、こんな状況でも双葉は幸せだって思えるの?」
 黒岩双葉はすぐには答えずにただ私の目を見つめた。
 どの答えが正解なのか考えているのだろう。そしてどの答えにも私が満足しないことに気づいているに違いない。
「薫子は、幸せだって思えない?」
 時間をかけて黒岩双葉の口から出てきたのは、最悪の答えだった。
「思えるわけ、ないでしょ」
 普段出さないような低い声に、私の手を握り続けている黒岩双葉の手がわずかに緩んだ。でも離そうとする気配はない。
「だから、嫌いなの」
 声が震えてしまわないようにつばを飲みこんだ。
「一緒にいても、双葉は勝手に自分だけどんどん幸せになってく」
 同じ状況でも黒岩双葉は幸せで、私は不幸なままどんどん置いていかれる。
 お兄さんは心配することなんて何もないって言っていたけど、十年後の黒岩双葉ならともかく、少なくとも今の黒岩双葉はお兄さんみたいに大人じゃない。
「それに」
 おじさんとおばさんの深夜の密談を知って、私が自分の不幸な状況に気づいたのとほぼ同時期に黒岩双葉と同じクラスになってしまったのは不運だった。
 私にはどうにもできないことだったからせめて不幸な自分に浸りたかったのに、黒岩双葉のせいでそれもできなかった。
「それに双葉を見てると、どんなときでも幸せって思えない私がすごく嫌な人間になったみたいで、だから――」
「だから俺のことが嫌い?」
 そう訪ねてきた黒岩双葉の顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。どうして、ここでそんな顔ができるんだ。
「そうだよ。大嫌いだよ。双葉のこと不幸にしたくてつきあうくらい大嫌い」
「だったら、不幸にして」
 黒岩双葉の口から出てきた言葉の意味が理解できなくて私は見つめたくもない黒岩双葉の目を見つめた。
「一生をかけて俺を不幸にして。俺は薫子のこと、一生かけて幸せにするから」
 意味不明すぎるその言葉がプロポーズのつもりだったらしいと、赤くなった双葉の顔を見て気づいた。懲りずに消したい過去をまた増やすなんて。
「五年後とかじゃなくて、今はっきり断ったら双葉は不幸になる?」
「断られても諦めなければいいだけだから」
 この調子だと黒岩双葉が飽きるまで私は黒岩双葉につきまとわれることになるのか。おそろしい未来に身震いしかけたところでいいことを思いついてしまった。
 このままずっとつきあって、黒岩双葉に他に好きな人ができても別れてやらない。そうすれば黒岩双葉を確実に不幸にすることができる。
 私の時間が犠牲になるけど今さらだ。
 一生は無理でも、せめて黒岩双葉の幸せも不幸もどうでもいいと思えるようになるまでは私が黒岩双葉につきまとってやる。
 黒岩双葉を不幸にするために大きな決断をした私は静かに息を吐き出して空を見上げた。
 いつの間にか、この世の終わりのようだった気持ちが薄らいでいる。
 親の離婚なんて、どこにでもある話だ。現に黒岩双葉のところだって離婚した。今の私は当たり前にあったはずの家族がばらばらになることに何も思わないほど大人じゃない。でもそれは今の私で、大人になった私ならこの苦しさだってちゃんとのみこめるはず。
 おばさんのことも、黒岩双葉の言う通り直接決定的なことを言われてはいない。たとえ言われたとしてもそれだけだ。
 おじさんとおばさん、どっちについていったとしても二人ともまだ若いから再婚する可能性が高い。そのときに私が本当の邪魔者になることもこわいことの一つだったけど、それだって大したことない。私の世界はおじさんやおばさんだけでできているわけじゃない。
 私には一人遊びという誰にも邪魔されない私だけの楽しい世界があるし、友達は今のところキャサリンしかいないけどとびきり濃くて一人だけでおなかいっぱいなくらい。それに、黒岩双葉もいる。黒岩双葉がいれば、イライラして嫌な気持ちになる代わりに私は私の不幸から目を逸らせる。黒岩双葉だったらどうやって幸せだと思えるのか暇つぶし程度に訊いてみるのもいいかもしれない。
「私、小さい頃青い鳥が欲しかったんだよね」
 昔おばさんに読んでもらった童話の一つをふと思い出して言った。
「青い鳥って、チルチルとミチルの?」
 私は頷いた。気づかないだけで幸せは身近にあるという寓意の結末にひねくれた子供だった私は拍子抜けしたけど青い鳥の存在には夢中になった。実際に家の中や近所を探し回ったりもした。でもそのうち、幸せな王子様とお姫様みたいにありえないものなのだと気づいた。
「青い鳥が本当にいたら、私も双葉みたいになれるのかな」
 黒岩双葉のことは大嫌いだけど、いつでも笑って幸せと言ってしまえるところが、本当はほんの少しだけうらやましい。
「青い鳥がいなくても、薫子は幸せになれるよ。だって俺がいるから」
 よくもまあ自信満々にそんなことが言えるものだ。「俺が薫子の青い鳥だよ」とか言い出さないだけましか。想像するだけで寒気がする。
 変に力が抜けて繋いだままの手を振り払う気力をさらにそがれてしまった。
 手を繋いでも鳥肌は立たなくなって、下の名前も普通に呼べるようになっていて、慣れっておそろしい。黒岩双葉の恥ずかしい発言にはまだ慣れないけど。
「俺は、青い鳥をつかまえたけど」
「は?」
 まさか「薫子は俺の青い鳥だよ」とか言うつもりじゃないだろうなと睨んだら右手を強く握りしめられた。
「絶対逃がさないから」
 満面の笑みで発せられたおそろしい言葉はどこからつっこんだらいいのかわからない。
「そんなこと言ってるといい男にはなれないと思うけど」
「そう?」
 私の精一杯の反撃はその一言であっさりはねのけられた。
 幸せ王子を不幸にするには、本当に一生をかけるしかないのかもしれない。
 一瞬うっかり浮かんだ考えを打ち消すために私は、がっちり握られて振り払えない黒岩双葉と繋がっている手に渾身の力を込めて握り返した。
 黒岩双葉は痛がるどころかますます幸せそうに笑った。


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