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第5話 光
"私、自殺シヨウトシタコトガアルンデス"
今までずっと誰にも言わずに、特別なことのように胸に秘めていたそれは、口に出してしまえば案外どうでもいいことのような気がした。
由良木さんがどんな反応をするか何だか怖くて、乾いた地面に視線を落とす。
「理由、訊いてもいい?」
私はもう一度顔を上げ、由良木さんを見据えた。
「邪魔だって、言われたから」
「へ、そんなことで?」
そんなことでも。
「たった一言でも、死にたくなる理由には十分なんです」
小学校を卒業すると同時に、私は生まれたときから住んでいた地を離れ、全く知らないこの街に引っ越してきた。
中学校に入学したばかりの頃、ただでさえ慣れない環境のせいで何もかもが不安だった。
そして夜眠るのが怖くなった。
暗闇の中で眠りにつくまでの時間がとても長くて、考えなくていい未来のことまで考え、息もできなくなるほどの重圧の中で私は泣いた。
情緒がひどく不安定だったのか、道を歩いているときでも授業を受けているときでも、急に泣きたくなったり笑いたくなったりすることがよくあった。
そんな自分が嫌で、気がつくとシャーペンの先で手の甲を突いていて、その痛みに快感を覚え、じわじわと滲み出てくる血を見てさらに惨めになった。
今思えば些細なことでも、その頃の私にとっては全てが自分を傷つけるものでしかなかった。
けれど、それもしばらくして時間が解決してくれた。
気がつけば夜に泣くことも、自分を傷つけることもなくなっていた。
友達もでき、普通に笑って普通に生きた。
「ちょっと邪魔」
それは何かの拍子だった。別になんてこともない日常生活の一コマ。
ただ、その言葉を口にしたのが私が特に仲がいいと認識していた友達で、それが何かの衝動に拍車をかけたのかもしれない。
あのときの衝動は今の自分でもよく理解できない。
自分が必要のない人間だと思った。誰にも必要とされていないなら、自分が生きている意味なんてない。だから死ぬ。
笑ってしまうくらい短絡的な考え。でもそのときの私にはそれが全てだった。
不眠症の母親が持っていた睡眠薬を持ち出し、自分の部屋でできるだけ多くの錠剤を飲み込み、ベッドに横になった。
そこからの記憶はない。
気がついたら病院の白い天井を見上げていて、いつの間にか普通の生活に戻っていた。
もっとも前と同じ生活には戻れなかった。
両親に睡眠薬を飲んだ理由を何度も尋ねられたけど、私は何も答えなかった。何を言っても両親には理解できないと思っていたし、自分でもあそこまで衝動を抑えられなかった理由がよくわからなかった。
私は手のかからないいい子から、何を考えているのかわからない扱いにくい子になり、そしてまた夜に涙を流した。
全てが怖くてたまらなかった。
本気で死を願った自分も、周りの人間も、まだ先の長いはずの未来も全て。
だから結城くんは私の唯一の光だった。
結城くんには何も話したことはないけれど、彼は私の救助信号に気づいてくれた。
何も聞かずに傍にいさせてくれるやさしい結城くん。
私はもう結城くんに甘えてはいけないのかもしれない。
人はいつまでも同じところに留まることはできないのだから。
たとえそれが、光の中でも。
「あれ、由良木さんは……?」
結城くんに頼まれたジュースの缶を持って屋上に行った私は、今日もフェンスに寄り掛かって曇った空を見上げていた結城くんに訊いた。
「知らない」
結城くんの髪をかき上げる仕草や、ワイシャツの襟元から覗く鎖骨を見たら急に鼓動が早くなってきて、私は思わず視線を逸らしてしまった。
結城くんのほうを見られなくてフェンスの網に手をかけ、何気なく空を仰いだ。そして息を呑んだ。
それは光だった。
空一面を覆う雲の切れ間から射す、一筋の光。
いつもはごちゃごちゃして見える街が、その光の下ではとても神聖なもののように見えた。
今すぐあの光の中に飛び込みたかった。
光を感じたかった。
あまりにも美しすぎるその光景に息をするのも忘れ、溢れてくる涙を止めることはできなかった。
「……っ……」
落ちた涙がコンクリートの地面に吸い込まれていく。
「……泣きたいなら思い切り泣けば?」
結城くんの言葉にさらに泣きたくなって、フェンスの網を強く掴み額を押し付けた。
「うん……」
こんなときに限ってやさしいことを言って涙腺を刺激してくる結城くんを恨めしくも思い、同時に嬉しくも思った。
数分後、私は結城くんの隣に膝を抱えて座っていた。
人前で声を上げてな泣くなんて、小さい頃以来かもしれない。
何だか急に恥ずかしくなってきた。
「ごめん……」
「何が」
「いきなり、泣いちゃって……」
「別に、泣きたくなるときなんて誰にでもあるだろ」
私はふと思って訊いてみた。
「結城くんにも、そんなときがあるの?」
「あるよ」
結城くんの意外な言葉に私は思わず驚いてしまった。
私の中で結城くんは誰よりもやさしくて、強い人だったから。
「俺はお前が思っているような奴じゃない」
私の気持ちを察してか、結城くんが空を見上げたまま言った。
「俺とお前は似てるんだよ」
結城くんも、不安で泣く夜があるの?
私と同じような気持ちになったことがあるの?
だから、結城くんの傍にいるのは心地好くて。
「結城くん」
私は意を決した。
初めて正面から受け止める結城くんの瞳は、思っていたよりも穏やかな色をしていた。
「前に、本で読んだんだけど、人は悲しいときに泣きたくなるけど、美しいものに出会ったときにも涙が出てくるのは何故かって」
「何故?」
結城くんはちゃんと私の話を聞いてくれている。
「人はね、多分それが長続きしないと知っているから。私、結城くんと一緒にいると悲しいわけでもないのに、いつも泣きたくなるの。それも同じ理由かもしれない」
そこまで言って大きく息を吸い込んだ。
「私、もう結城くんに甘えられない。"犬"ももうやめる。だから……」
引っ込んだはずの涙がまた零れてくる。
「今まで、ありがとう」
「……ああ」
結城くんが私の頬に触れる。
唇が涙の跡に降りてきて、私の唇に触れる。
それはキスとかそういうものじゃなくて、傷つきあったもの同士がお互いを慰めあうような、そんな行為。
空から雨が落ちてくる。
私は前によく見ていた夢を思い出していた。
穴に落ちる夢。
真っ暗闇で無重力を体験し、死を願いながら、同時に本当は光も求めていた。
今やっと見つけた。
一点の光を。