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 はじめて、神様ではない人に。
 実際に口に出したら壊れてしまうかもしれないって思ったけど、大丈夫だった。
 わたしはここにいる。


   11.わたしの神様 - 04 -


 ずくずく動く心臓を抱えたまま電話を切った。その前に神くんが何か言った。耳に残った音を繰り返してみる。
(すぐに行くから)
 待ってて。
 わたしに向かって。それがどういう意味かわかって天井を見上げた。瞬きするたびに涙が零れていった。
 薄闇の中で温い空気が揺れた。もうすぐ夏が来る。気づいたのと一緒に寒気がした。
 頭を振って立ち上がる。ベッドの上の枕を掴んで部屋を出る。階段の途中で腰を下ろして枕を抱き締めて目を閉じる。


 生きることは誰だって苦しい。そんなことはわかってる。わたしだけが特別なわけじゃない。
(わかってるけど)
 他の人が当たり前のようにできることを、どうしてわたしはできないのかとか。他の人が当たり前のように持っているものを、どうしてわたしは手に入れられないのかとか。ずっと、そういう下らないことばかり考えていた。苦しいときは、いつも自分の中の神様に縋っていた。今も同じ。今のほうがもっと酷いかもしれない。

 昔はそれでも、家族がいた。この家にはいつも誰かがいて、温かかった。
 お父さんは仕事が何よりも大切な人で、お母さんはとても弱い人で、妹はわたしと違ってちゃんと人の目を見て話せる子だった。お母さんの自慢は、明るくて笑顔のよく似合う妹で、お母さんにとって妹が唯一の希望で全てだった。わたしのことを愛してはくれたけどあまり見てくれなかったのは、きっとわたしがお母さんと似てたから。

(寒い)

 思い出したくないこと、一気に頭の中を駆け巡って息ができなくなりそうになった。遠くからエンジン音が聞こえてきて顔を上げた。すぐ近くで音が止んだ。少しして電話が鳴った。びっくりして弾かれたみたいに立ち上がって階段を下りて廊下の隅にある電話の前。枕は左手に抱えたままで、震える右手で受話器を取った。もしもしって、言えなかった。
『今、坂口さんちの前にいる』
 さっき聞いたばかりの神くんの声。夢の続きなのかもしれない。そう思ったらちょっとだけ楽になったから今度は声がちゃんと出た。
「なんで」
『バイク、飛ばして来た。さすがに電車はもうないから。宗太郎もいる』
 聞きたい答えと違った。バイクに乗るんだ。受話器を置いて玄関へ。枕は左手に抱えたままで、チェーンを外して鍵を開けた。がちゃり。夢なのにリアル。

「なんで、来たの」
「あんたが呼んだから」

 ドアを開けたら神くんと宗太郎さんが立っていた。電気、何もついてなかったけど目が暗いのに慣れていたからはっきり見えた。勝手に動いた口に答えたのは宗太郎さんだった。
「上がってもいい?」
 神くんが言ったから頷いた。ぼんやりしてたら宗太郎さんが先に上がって階段を上っていった。神くんもその後ろについていく。わたしも慌てて階段を上った。追いついたときに部屋の電気がちょうどついて眩しかった。眩しくてちゃんと目を開けられなくて、明るいのに慣れたらわたしの部屋にわたし以外の人が二人もいてびっくりした。神くんは右側にあるベッドに座っていて、宗太郎さんは反対側にある机の前の椅子に横向きに座っていた。机の上、ぐちゃぐちゃにしたままの見られたと思ったら恥ずかしくなった。
 ドアを後ろで閉めた。夢。だったらいいけど、もしかしたら、夢じゃないかもしれない。考えて心臓が痛くなった。
 両手で枕を抱き締めてドアに寄りかかる。視界に誰も入らないように自分の裸足のつま先を見つめる。おかしい。凄くおかしい。わたしの部屋にわたしじゃない人がいる。二人も。
 なんで。
 なんで。
 なんで。
 本当は、話すことだってない人たちで。見てるだけのはずで、宗太郎さんのことは、もしかしたら知らないままだったのかもしれなくて。
 そういうこと、考えるとやっぱり怖くなるからやめた。
 今二人がここにいるのはわたしが電話をしたから。夢を見て。怖くなって。ただ、それだけのことで真夜中に電話した。違う。電話したけどそれだけだった。だったらなんで神くんと宗太郎さんはこんな時間にこんなところにいるの。
 いきなり電話なんかして、気持ち悪いって思ったかもしれない。ぐるぐる後悔。夢を見ただけで。夢。夢じゃない。現実だった。あれは。わたしは。

「坂口さん」

 あちこちに飛んでた思考が神くんの声で元の場所に戻った。顔を上げてしまったのは名前を呼ばれたから。
「おいで」
 手招き。されるままに動きそうになった足を慌てて引き止めて頭を横に振る。
「ごめ、ん。もう、しないから。電話」
「坂口さん、前も同じこと言った。なんでいつもそういう結論に達するの」
「だって」
 わたしは。
「わたしは、最低の、人間で」
「だからそれがなんなの」
 宗太郎さんに、それがなんでもないことのように聞き返されて、心臓がどくり。さっきよりも大きく跳ねる。
「だから、わたしが近づいたら、嫌だと、思って」
「それを決めるのはあんたじゃない」
 ずっと神くんのほうに向けていた顔を左にずらした。左腕を椅子の背もたれに乗せていて、やっぱりなんだか偉そうだった。
「大体なんでそこまで卑屈になんの」
「そういう、性格だから」
 答えて、気づいた。この人は。
「前来たときも思ったけど、向かいの部屋、誰の部屋」
 前に、宗太郎さんがこの家に来たとき。あのとき。先に、階段を上って。
「なんで、勝手に」
「いつもこの家にあんたしかいないのはなんで」
 遠慮なんてなくて、どこまでも追い詰めてくる、怖い、人。
「昔の夢って何」
 声を。出さないといけない。出して、何を、言えばいいの。
 宗太郎さんの目は真っ直ぐわたしを見ていた。見ているのがわかるから多分わたしも宗太郎さんを見ている。なのに何も見えない。体の、上のほうに血が全部集まってる気がした。抱えた枕を握り締めた両手と裸足の足は冷たい。冷たくて。つめたくて。耳の奥で、ごうごう音が鳴る。
 暗い。電気、ついてるはずなのに見えない。
 たすけてって、言った。わたしは、それを言ってどうするつもりだったの。
「妹の、部屋。一つ違いの、妹が、いて。凄くいい子で」
 知られたら。わたしがどういう人間かということを。
「そのままに、してあるの。死んじゃったから。いい子だったのに、あのとき、わたしと喧嘩して、家、飛び出して、トラックに、はねられたんだって」
 知られたら。
「妹がいなくなって、お母さんが、おかしくなって、お父さんは帰って来なくなって」
 今ここにいるはずの人たちはいなくなる。好きって、言われたのも本当に夢になる。
「お母さんも、いなくなった」
 わたしは、また、ひとり。
 ひとりになった日は、とても暑い日だった。
 いつもみたいに買い物に行っただけのはずなのに、帰って来なかった。
 続けて交通事故で亡くすなんて。誰かの声が言ったのを聞いた。本当は、違う。あれは、事故だけど事故じゃなかった。
「わたしが、言ったから」

 閉め切った窓、埃のにおい、息が詰まる。暑い。暗闇の中で。電話が鳴ったの、布団をかぶって、聞えないふりを。汗を、かいているのに、ずっと震えて、いたのは。

「お母さんに」
 たった、一言。心の底から、願ったことを。願って、しまったことを。
「死んでって、言ったから」
 わたしが。
「わたしが、お母さんまで」

 吐き気がした。見ているはずなのに見えない目は閉じた。体全部、どこかに行ってしまいそうな。

「坂口さん」

 声。聞きたくなかったから耳を塞いだ。枕が足の上に落ちた。少し遅れてうずくまる。
(最低だ)
 また逃げる。
 逃げて。

 どれだけ逃げても出口なんて見えない。世界はいつも真っ暗だった。

 痛い。手首。左の。
「坂口さん」
 強い声。目を開けて顔を上げたら、目とぶつかった。神くんの右手がわたしの手首を掴んでいた。
「今、俺たちがここにいるのは坂口さんのためだってわかってる?」

 こんなことは、あったらいけない。

「無理、です。駄目。どっちもやだって、言った」
「どっちもやだは、正しくないでしょ」
 神くんは唇の端を少しだけ持ち上げた。わたしは息を呑んだ。神くんがこんなにやさしい目をする人だって、知ってたつもりで何もわかってなかった。
「そうやってずっと逃げんの」
 椅子に座っていた宗太郎さんが立ち上がって、しゃがんでいる神くんの横。見上げたら、ナイフの切っ先みたいな目が。
 どうしてこの人たちには、わかってしまうんだろう。

 ――あんたのせいで、あの子が。
 泣きながら、小さい頃やさしくわたしを撫でてくれたその手で、わたしの首を絞めて。
 ――ごめんね、伊織、ごめんね。
 泣きながら、抱き締めてくれたお母さん。

「だって、見たくなかったの。わたしが妹を死なせたっていう事実も、幸せじゃないお母さんも、見ていたくなかったから」

 わたしは、わたしほどずるくて汚い人間を知りません。

「あのとき、わたしと喧嘩しなかったら、妹は死ななかった。お母さんだって、わたしのせいで」
 いつもはなかなか出てこない言葉が、こんなときだけすらすら出てくる。
「わたしがいなかったら、みんな幸せだっ」
 最後まで言えなかったのは、一度離れた神くんの右手が、今度はわたしの頬に触れたから。反対側の頬も温かいものに包まれて、顔が怖いくらいに熱い。
「大丈夫」
 顔を上に向けられて、神くんの目から逃げられなくて。
「大丈夫だから。俺たちは、ちゃんとここにいる」
 触れられることは怖いのに、今はとても心地好い。
「きっと、幸せだよ。坂口さんのお母さんもお父さんも妹も、みんな。だって、俺は坂口さんがいて凄く幸せ」
 どうして、欲しい言葉をそんなに簡単にくれるの。
 顔、いつの間にか流れていた涙でぐちゃぐちゃになってしまっているはずなのに、それでもこの人たちは真っ直ぐわたしを見てくれる。
 なんて、幸せな。
「だめ、わたしは」

 ひとりでいることは、きっと罰なのです。

 そうやって、自分をかわいそうだと思うことを免罪符にして、なのに苦しくて潰れてしまいそうになったら神様に縋って、自分だけ幸せになりたがってる。
「やっぱりわたし、最低だ」
「うん、本当に、最低。だから余計に、放したくないんだよ」
 涙でぼやけた先、神くんは笑ったように見えた。
「いい加減諦めろ」
 宗太郎さんはいつもと同じ不機嫌そうな顔をしてるように見えた。
 真夜中の、わけのわからない電話一つで飛んできてくれた。わたしのために。
 嘘みたいな現実。
 この人たちはきっと本気なのでしょう。
 本気で、わたしのことを。

 わたしよりずっと明るいはずの未来を閉ざされた妹と、全ての希望をなくして逝ってしまったお母さんと、家に帰って来れなくなったお父さん。温かかったこの家は、今はとても寒い。
 大切な人たちの全てを壊してしまったわたしの世界は、ずっと真っ暗なままなのだと思ってた。

「ありが、と」
 瞬きをしたら涙がぱたぱた落ちていった。
「ごめん」
 神くんの手が、ゆっくりと離れていった。わたしは立ち上がって、瞼の裏で世界がぐるんと一回転。
「なんで謝るの」
 しゃがんだままの神くんがわたしを見上げて訊いた。一度は言えなかったこと。言ってしまってもいいのか考える。もしかしたら昼間言ったことよりも酷い言葉。
 神くんも立ち上がって今度はわたしが神くんを見上げる。
(どっちがいいの)
 本当の答え。
「どっちかじゃ、だめ、なの。どっちも、だか、ら」
 二人は真っ直ぐわたしを見てくれたから、本当はわたしも真っ直ぐ見ないといけなかったけどできなかったから俯いて目を閉じる。

「最初から、そう言えばよかったんだよ坂口さんは」

 予想外の言葉が耳に飛び込んできて、目を開ける。
 びっくり、した。
 そういうこと、二人は凄く嫌だと思ってたから。仲がいいと勝手に思っていたけど、本当は相容れない空気でぶつかっていた二人は、それなのに。
「二人一緒に坂口さんに惹かれたときに、お互い切っても切れないものなんだって、思い知ったから」
「でも」
「覚悟はとっくにできてる。それにね」
 神くんが少しだけ言葉を止めて。
「宗太郎は何か勘違いしてたけど、坂口さんが見てるのは俺だけじゃないって、知ってた」
 誰にも知られたくなかったこと、知られたくなかった人にあっさり言われて顔が熱い。熱くなって、わたしが神くんを好きだということを、神くんはいつのまにか当たり前のように知っていたって気づいてしまった。うそ、どうしよう。
「だからって諦めるつもりは毛頭なかったから、坂口さんに選んでもらえば、どうにかなるんじゃないかと思って」
「あんたが出した答えがそれなら、それでいい」
 それでいい。
 現実から遠くに行きかけていた意識を元に戻して、耳に残った宗太郎さんの声を拾う。
「それでいいって」
 何がいいの。
 最後まで声にならなかった。
「坂口さんは今まで通り、俺たちのことを見ていればいい」
 さっきから視界がぼやけているのは涙のせい。止まらなくて。

(神様)

 ずっとずっと縋ってきた形のないそれが、一瞬消えて目の前の二人に重なって、変な感じがした。今初めて知ったような、最初からわかっていたような、不思議な感覚。

「前に、夢、見たの」
 二人ともわたしの言葉を聞いてくれている。それだけのことなのに、どうしようもなく嬉しくて。
「凄く、楽しい夢。神くんと、宗太郎さんと、三人で、笑って、凄く幸せだったよ」
 泣き笑い。顔を上げる。きっと酷い顔をしているけどそれでもよかった。
 わたしはやっぱり最低で、それはこれから先も変わらない。幸せになる価値だってないかもしれない。もしかしたら今までよりももっと苦しくなるかもしれない。
 でも、今までみたいに世界は真っ暗じゃない。
 だって、目の前には神様みたいな人たちがいる。

 わたしの、神様。

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