「いい加減にしろ」
宗太郎さんの声が聞こえて目の前が急に明るくなった。
見慣れない天井を見つめたまま、わたしは息をすることだけを考えていた。
11.わたしの神様 - 03 -
空気を吸い込んで吐き出す。何度か繰り返してから起き上がった。体が重くて手が震えたままだった。
「大体あんたも」
膝の上で握り締めた自分の両手を見ていたら上から宗太郎さんの声が降ってきた。神くんはさっきまで座っていたところにまた座っていて、宗太郎さんはわたしのすぐ横に立っていた。
「なんでそこまで否定すんの」
「だって」
だって、わたしは。
自分で何を言おうとしたのかわからなくなってそこで黙って唾を飲み込む。
「去年の、入学式の次の日だったっけ」
「ん」
短い沈黙の後、神くんが言ったのに宗太郎さんが答えて私は少しだけ顔を上げた。
「初めて会ったの」
神くんの目とぶつかって慌てて下を向く。去年。わたしは神くんと宗太郎さんのこと、知らなかった。
「朝、渡り廊下で宗太郎と話してたとき、階段とか行ったり来たりしる子がいてね、なんか迷ってるみたいだったから、こっち来たときに声かけようとしたんだよ。そのとき俺とぶつかって、結局その子はそのまま行っちゃったんだけど」
思い出した?
神くんに訊かれる前に顔がもの凄い勢いで熱くなった。
覚えてる。慣れない校舎で自分の教室がどこだかわからなくなって、遅刻しそうだったから凄く焦っていて、渡り廊下で誰かとぶつかったことも、はっきり覚えてる。焦っていたから「すみません」って一言だけ言って、顔も上げられずにそのまま逃げた。近くにもう一人いた気がしたけど、あれが、神くんと宗太郎さん?
「でも、なんで、それで」
好きとか、そういうこと言うの。絞り出した声は最後まで出なかった。
心臓の音がうるさくて意味がないってわかってたけど息を少し止めてみた。
「それが全てってわけじゃないけど、ただ、その子のことが忘れられなかったから、朝早くから下駄箱に張り込んでクラスとか調べたりして、名前を知って、なんとなく遠くから見てて。人の感情なんてちゃんと説明がつくものばかりじゃないけど、言葉で表せないものがないわけでもないから理由が欲しいならあげるよ。でも、今それを言って坂口さんは納得してくれるの?」
とっさに声が出なかったから慌てて頭を横に振った。神くんは、全部わかってて訊いてる。
顔が熱い。こんな現実、おかしい。
「でも、そ、たろ、さんも、なんで」
「それをあんたに言う義務はない」
途切れ途切れになったわたしの言葉を、怒ってる感じの宗太郎さんの声が遮るようにして言った。ごめんって、謝ろうとしたけど声が出ないから代わりに唾を飲み込んで息を吐き出した。
今わたしが欲しいのは、理由じゃなくて逃げ道のはずなのに同じことを宗太郎さんに訊いて、本当に馬鹿みたい。
ここに来た理由を思い出す。
お礼を言いたかっただけで、うまく言えなかったけど一応二人には伝えた。だからもうここにいる必要はない。
気づいて、震えそうになる脚で立ち上がった。
「も、帰らない、と」
今度は止められなかった。少しだけ横にずれてくれた宗太郎さんの前を通って、ふすまの前に落ちたままになっていた重いリュックを持ち上げた。視線。二人分の。自意識過剰だってわかってるけど凄く見られている気がした。
「一つだけ聞かせて」
右足で敷居を一歩またいだところで、また神くんの声。右足はそのままで振り向かなかった。振り向けなかった。
「坂口さんは、どっちがいいの」
一息分の間を空けて。
「俺と宗太郎、どっちがいいの」
やっぱり神くんはとても意地悪な人だと思った。そんな訊き方は凄く、ずるい。
(わたしは、その質問には答えられません)
答えてはいけない気がするのです。
だから答えた。
「どっちも、やだ」
振り向かないで。宗太郎さんのことも、神くんのことも見ないで。自分の声が思ったよりも大きく響いて心臓が縮こまった。床を蹴る。前へ進む。後ろは見ない。
もしもの話を考えた。
もしもわたしが今ここで手を伸ばしたら、掴まえられるのかとか。ずっと欲しかったもの。もしかしたら。
「だめ」
音は出さないで口の中で形を作った。
だめ。だめ。だめ。何度も言い聞かせる。そんなこと、あるわけない。あったらいけない。
全部諦めることができたらいいのに。諦めることもできないくせに。
ぐちゃぐちゃの頭の中。全部引きずり出して空っぽにしたら楽になれるのか、意味のないことを考えながら家に帰った。
今まで生きてきた分の全てを。なくしてしまったら。考えたらとても怖かった。消し去ってしまいたいものばかりじゃない。消したくないものだってちゃんとある。
消してはいけないことも。
なかったことにはできないこと。
もう、取り返しのつかないこと。
余計なことまで考えて、どんどん深く考えて、いつもは閉じ込めているところまで落ちていって再現してしまったせいなのかもしれない。その夜昔の夢を見た。
自分の上げた悲鳴で目が覚めた。
「う、あ」
息と一緒に声にならない声を吐き出して頬を液体がなぞっていくのがわかった。
自分の肩を抱き締めて暗闇に浮かんだ壁を見つめた。自分の荒い呼吸音と、時計の針の音と、心臓が脈打つ音が鼓膜に突き刺さる。
両耳を塞いで目を閉じて、迷う。
繋がりを完全に断ち切る勇気がなかったから机の上に置いたままにした電話の子機。リュックの中の生徒手帳に挟んだ十一桁の数字が書いてあるノートの切れ端。
神様よりも確かな存在の、人。
ずっと辿っていけば結局人は誰でもひとりなのだと信じていた。だから辛くなんてなかった。一人でいること自体よりも、わたしはわたしがひとりだと周りに思われることのほうが嫌だった。そう思っていた。本当にひとりぼっちではなかったから。友達なんていなかったけどあのときはわたしにも、家族がいた。
迷うのはやめて自分のことだけを考えればいい。縋れるものがあるならそれに縋ればいい。最低の人間。それでいい。
(だって、もう)
ベッドから下りて冷たい床に足をつける。机の上の子機を取ってベッドに背を預けて冷たくて硬い床にそのまま座った。魔法のような十一桁の数字。縋れる唯一のもの。おまじないみたいに何度も何度も頭の中で繰り返していたからノートの切れ端は見なくても大丈夫。
ずっと震えたままの右手で、暗闇で光るボタンを一つずつ押していく。拒絶されるかもしれないという不安とは違うどこかで、根拠のない確信。わたしは多分とても酷いことを言った。それでも助けてもらえるという、とても不確かで、馬鹿みたいな確信。
『もしもし』
七回目のコール音が途切れて、機械越しの声が脳みそを揺らす。
「夢、見たの。昔の」
手と一緒に震えたのはわたしの声。涙はずっと垂れ流したままだった。真夜中。「もしもし」もなくていきなり。いたずら電話よりもたちが悪いかもしれない。
大きく息を吸い込んで。
(助けて)
たすけて。
音を作る寸前で。
頭が冷めた。
「ごめっ、ちが、違う、あの、わたし」
一瞬真っ白になってとんでもないことをしたのだと気づいた。何、してるのわたし。
何を、したの。わたしは。
右耳に押し付けたままの電話、切らないといけないってわかってるのに体が動かない。
『もしもし?』
声を、出さないと。なんでもないって。
『夢って、どうしたの』
嫌な夢、見たから電話したなんて。言ったら神くんになんて思われるか考えて言えなくなった。
「なんでも、ない。から。ごめ、ん」
『だったら、なんでこんな時間に電話してくるの』
堪える前に涙がどんどん溢れてしまった。また怒らせた。
望んでいたものをいざ目の前につきつけられたら怖くなってはねのけて、遠くへ行ってしまったらまたとても欲しくなって。
「だって、誰もいないから」
涙と一緒に、本当は閉じ込めておかないといけない言葉。
「他に、誰もいないの」
『坂口さんは、一体どうしてほしいわけ。俺たちに』
とても静かな声だった。
「言ったら、聞いてくれる?」
目を閉じて、瞼の裏で瞬く光を捉える。
『最初から、そのつもりだったよ』
駄目だって言い聞かせるわたしはわたしを抑えられなくなっていた。さっき作りかけた言葉を。
もう一度。
目を開ける。
「……て」
引き返せない。わかってた。最初から。
「たすけて」