「お邪魔、します」
震えた声が空に散った。
11.わたしの神様 - 02 -
「どうぞ」
神くんがふすまを開けて、黒いテーブルを挟んでベッドの上。脚を組んで何かの雑誌に視線を落としていた宗太郎さんが顔を上げるのと一緒にわたしは少しだけ頭を下げた。
宗太郎さんがぱたんと雑誌を閉じて一言。
「なんで来んの」
下げたままの頭、上げられなかった。
「ごめ、ん」
神くんが嬉しいって言ってくれたのはただの社交辞令なのに、それを真に受けて喜んで、馬鹿みたい。
ずっと溢れそうになってる涙はまだぎりぎりのところで我慢して、下を向いたままくるりと向きを変える。
「わたし、やっぱり帰るね」
震えてしまう声を絞り出して足を一歩踏み出す。
「駄目だよ」
神くんの声に踏み出した右足を絡め取られる。
神くんはずるい人です。
駄目だよなんて、神くんに言われたらわたしは動けなくなってしまう。たった一言。それだけで。
「せっかく坂口さんが来てくれたんだから、すぐには帰さないよ」
横に立っていた神くんを見上げたら、笑顔のままだった。神くんはとても綺麗に笑う。
「あの、でも」
「宗太郎も余計なこと言うなよ」
宗太郎さんのほうに顔を向けた神くんの右手が、わたしの背中を押して。
(神くんの手)
布越しに触れられただけで、それだけで。
気がついたらわたしは前に来たときのようにふすまを背にして座っていた。
正方形のテーブルの正面にはベッド、右側には宗太郎さん、左側には神くん、目の前には生クリームの乗ったプリンとコーヒー。
「坂口さん、この間来たとき気に入ってくれたみたいだから。食べて」
「あ、い、いただきます」
スプーンを手に持って息を吐いたら、頭の中が真っ白になった。
頬杖をついた宗太郎さんと、何故だかにこにこしてる神くんが、見てる。わたしのこと。
(わたし、こんなところで何をしてるの)
ありがとうって言いたかっただけで、でもいきなりそんなこと言われたって神くんも宗太郎さんも困るだけだよ。
いつも周りが見えてなくて自己嫌悪。
スプーンを持った手が震えて止まらなくなった。スプーンを置いて膝の上で両手をぎゅっと握り締めて神くんが出してくれたプリンを見つめる。
(どうしよう、どうしよう)
「緊張してる?」
神くんが言ってわたしは勢いよく顔を上げた。少しだけ細められた目とぶつかる。
「あの、わたし」
声を出して急に、怖くなった。
神くんと宗太郎さんが傍にいること。
とても遠くにいるはずの人たち。触れてはいけないはずの人たち。なのに今はこんなに近くにいる。手を伸ばせば届いてしまうようなところにいる。なんで。
ここにいたら駄目だ。
「坂口さん?」
名前なんて呼ばないで。
わたしを見ないで。
「ごめん。やっぱり帰る」
早口でそれだけ言って震えそうになる足で立ち上がった。ここはいやだ。ここはわたしがいていい場所じゃない。
(だから早く)
ふすまを開けようとして左腕に痛みを感じた。
神くんの右手に掴まれた左腕。びっくりして左手に持っていたリュックを落とした。
違うってわかっているけど、それでもわたしにとっては神様のような人。
「やだ、や、放、して」
「帰さないって、言った」
見上げた神くんの顔はもう笑ってなかった。でも怒ってる顔じゃなかった。
「何か用があって来たんじゃないの? それともただ会いたかっただけ?」
神くんに見られていることが怖くて下を向いて目をぎゅっと閉じる。
「お、お礼を、言いたかった、の」
声を絞り出したらわたしの腕を痛いくらいに強く掴んだ神くんの手が少しだけ緩んだ気がした。
「お礼って、なんの」
座って頬杖ついたままこっちを見ていた宗太郎さんが言って、わたしは閉じていた目を開ける。
「宗太郎さんが、絵を、描いてくれたこと、とか」
震える声を絞り出して。
「神くんが、やさしくしてくれた、こととか、本当に嬉しくて、たくさん幸せ、もらったから、ありがとうって言いたくて」
凄くおかしなことを言ってる気がして酸素が足りない感じがした。顔が熱い。
「それで?」
思わず神くんの顔を見上げた。それでって、わたしが言いたかったのはそれだけで。
「だから、お礼を、言いたかっただけで」
「返事は?」
返事。
「なんの」
言ったら神くんの眉間にしわが寄ったのが見えてどうしようって思った。
「これでも一世一代の思いで告白したんだけど。俺も宗太郎も」
わたしの腕を掴んだままの神くんの手、また力が強くなった。言われたことの意味がすぐにわからなくて酸素の足りない頭で考えようとしたけど、うまくできなくて下を向いて目を閉じた。
「もしかして、まだ信じてくれてないの?」
何を信じるのって、言ったらきっと神くんはもっと怒ると思ったから黙ってた。
「やっぱり、言ってわかんないなら行動で示すしかないね」
(まただ)
背中の辺りがひくついた。目を開けてもう一度神くんを見上げた。
(どうしてこの人はいつもこんなに綺麗な笑顔を作れるの)
怖いがいっぱい。さっきのとは違う。昨日の感じと似てる。ぞくぞくする感じ。
掴まれたままの左腕を引っ張られた。足がもつれそうになる。引っ張られてテーブルの脚につま先をぶつけて、痛いと思う間もなく強い力に掴まったままバランスを崩した。右肩に柔らかい衝撃。思わず閉じたまぶたを持ち上げたら視界に飛び込んできたのは淡い水色。どこかで見たことのある色だった。どこかでじゃなくてさっきまで見ていた色だった。
ベッドの上。倒れ込んでしまった拍子にスカートが太もものところまで捲れてしまっていたから慌てて直して。
起き上がろうとしたのにできなかったのは、神くんがわたしの左肩をベッドに押さえつけたから。
「抱いたらわかってくれるの」
天井と一緒に見上げた神くんの顔。
動いた唇を見つめて熱くて冷たい頭が一瞬だけ真っ白になった。
熱いのと冷たいのが混ざって温くなる。じんわり温かくなった何かが全身を巡って涙になって目から零れて、わたしは神くんの言葉を理解する。
「やだ」
「そればっかり。坂口さんのやだはもう聞かない」
神くんは笑っていたけど、怒った顔をしているときよりも怖いと思った。
「やだ」
わたしは神くんの目を見つめたままそれだけ言った。それしか言えなかった。
信じてくれない坂口さんが悪いんだよ。
ぎゅっと目を閉じて現実から逃げたわたしの耳元で囁かれた言葉に鳥肌が立つ。
離れてって言えないでいたら、ベッドがぎしっと軋んで目元に何か温かいものが触れた。
「孝太郎」
宗太郎さんの少し怒った声が神くんを呼んで、目を開けたら神くんの顔が目の前にあって息を呑んだ。
「しょっぱい」
近すぎる距離で神くんの唇が動くのを見た。近すぎる距離に怖いという感情は麻痺する。
でも心臓はおかしくなってしまいそうなくらいにドクドク脈打ってるのがわかった。
「な」
からからに渇いた喉から言葉にならない声が飛び出した。
「ん?」
「何、し」
「舐めた」
神くんはいたずらした子どもみたいに笑った。時々そういう顔するの、わたしは知ってる。
涙、と濡れた唇が続けて言って焦点が合わなくなった。
(やだ)
声を出す前に反対の目元が熱くなって吐息を感じた。神くんの。
堪え切れなかった涙がまた溢れる。それをすくうように動く温かいもの。
わたしの体は小さく震えたまま石になったみたいに動かなかった。
何も考えられなくなって、自分が息をしているのかもわからなくなった。