好きな人に好きって言われた。
信じちゃいけないってわかっていたけど、その夜わたしは泣きながら眠った。
いつもの苦しくて悲しいだけの涙じゃなくて、少しだけ幸せな涙だった。
11.わたしの神様 - 01 -
朝起きて、学校に行って神くんと顔を合わせないといけないことを考えたらおなかが痛くなった。
昨日のことは夢かもしれないし夢じゃないかもしれない。
ただ、体の奥に響いた声とか、触れられた感覚は怖いくらいにはっきりと残っていて。
夢じゃなくてもただ、からかわれただけなのかもしれない。
夢なのとそうじゃないのとどっちが幸せなのか考えようとしたけど、何故だか苦しくなってわたしはまた逃げる。
いつもと同じ時間に学校に着いた。教室には誰もいなくて机に伏せた。
一時間目が始まっても神くんは来なかった。二時間目も三時間目もそのあとも後ろの席はずっと空っぽだった。
ほっとして悲しくなって、やっぱり苦しい。
「坂口伊織」
六時間目が終わって帰ろうと教室を出たところで後ろから名前を呼ばれた。振り向いたらつんつん頭が立っていた。少しだけ見た顔はなんだか怒ってるみたいだった。
「話、あんだけど、ちょっといい?」
首を横に振ろうとしたらつんつん頭は不機嫌そうな声で続けた。
「宗太と孝太のことで」
名前、聞いただけで心臓がどくんって大きく動く。
結局断れないままつんつん頭の後ろをついていく。外に出て、プールの近くにある倉庫の裏。人がいないところ。
「お前、いい加減なんとかしろ」
わたしに背中を向けていたつんつん頭がこっちを向いて、怒ってる感じの声で唐突に。
「とばっちりを受けるのはいつも俺なんだよ畜生」
「え」
「え、じゃねえ!」
怒鳴られて思わず肩を竦めた。
「あいつら、宗太と孝太。あれ、どうにかしろ」
「なん、で、そんなこと、わたしに」
やっぱり、つんつん頭は好きじゃない。どうにかしろってどういうこと。わたしは何もしてないはずで、だからつんつん頭にわけのわからないことを言われる理由もないはずで。
「なんでって、お前が原因だろうが」
意外と大きなつんつん頭の目。
思わず見つめて。
「わたしは、何も」
「その何もしてないのが問題だっつうの。出す答えはお前が決めることだから、どういう結果になっても俺にはなんも言えないけど、中途半端なままにするのだけは絶対にやめろよ。昨日だって、アパートに行ったら二人揃ってやばい雰囲気だったし」
つんつん頭は眉間にしわを寄せて唇を噛む。
「もしかして、昨日なんかあったのか?」
何か、あった。夢みたいなこと。
こんなこと、つんつん頭に言うべきことじゃないけど。
「神くんに変なこと、言われて」
「変なこと?」
両手できつく握り拳を作ってつばを飲み込む。
「す、き、とか」
「あ?」
聞き返されてやっぱり言わなきゃよかったって思った。
つんつん頭が怖いのと、昨日のことをはっきりと思い出してしまったのとでまた泣きそうになった。
「神くんと宗太郎さんの、好きな人は、わ、わたしだって」
見つめた地面が滲んで見えた。
そんなことあるわけないって、つんつん頭に笑われるかもしれないって考えたら、凄く逃げたくなった。
「それで?」
それで。
「びっくりして、よくわからなくて」
少しだけ顔を上げたらつんつん頭は笑ってなくて、そんなことあるわけないとも言わなかった。
「……ん? あれ、ちょっと待て」
つんつん頭はしばらくうーんと考え込んで。
「まさかお前、今までなんにもわかってなかったなんて、言わないよな」
なんて答えればいいのかよくわからなかったから地面を見たまま黙っていたら、つんつん頭がまた大きな声を出した。
「はあ!? 馬鹿かお前は! あんだけあからさまな態度取られりゃ誰だって気づくだろうが!」
何故かつんつん頭に怒られているおかしな状況。
「で、坂口伊織はそれになんて答えたわけ? あいつらの不機嫌具合からしてろくなこと言ってなさそうだけど」
「神くんには、今はやめてって、言って」
「あー……、それじゃあ機嫌も悪くなるわな……。そんで、宗太には」
「別に、何も」
力が抜けたようにつんつん頭はその場にしゃがみ込んだ。そのまま倉庫の壁に寄り掛かる。
「とにかく」
大きく息を吐き出したつんつん頭。
「宗太と孝太はお前のことを好きだって言ってんだろ。坂口伊織はあいつらのことをどう思ってるか、せめてそれだけでも伝えてやれよ」
どくどくいってる心臓は気がつかないふり。
「でも、だって、二人とも、わたしのことをからかってるだけかもしれな」
「この、あほ!」
また怒鳴られて、唇を噛み締めてすぐに零れそうになってしまう涙を我慢する。
「俺も坂口伊織のどこがいいのかさっぱり、これっぽちもわかんねえしわかりたくもないけど」
でも、とさり気なく酷いことを言うつんつん頭は続けた。
「でも、どう見たってあいつらは本気だろうが」
壁に寄り掛かかって座っていたつんつん頭は、そこまで言って立ち上がった。
「前に俺も坂口伊織の気持ち、考えないで、孝太のことだけじゃなくて宗太のことも考えてやれとか余計なこと言ったけど。お前なら、どうにかしてくれんじゃないかとか、思って。昔のこと知ってる奴からしたら、今のあの二人は奇跡みたいなもんで、多分それは坂口伊織のおかげで」
わたしは何もしてない。うまく声が出てくれなくて黙っていたらつんつん頭が神くんと宗太郎さんのこと、知りたいかって訊いてきた。だからわたしは何も考えずに頷いた。
「俺、あいつらとはもう十年以上の付き合いだけど、小さい頃は仲が良かったのに、中学に入ったあたりから妙におかしくなって。何て言うか」
つんつん頭が何かを思い出すように、目を伏せた。
「本気で、憎み合ってたんだと思う。あの頃は。顔を合わせればすぐに喧嘩になって。おばさんもそのことで一時期ノイローゼになりかけたくらい酷くてさ」
仲がいいのだと勝手に思っていた神くんと宗太郎さん。昨日の二人を思い出した。わたしの知らない人で凄く怖くて、怖くて。
「で、卒業間際になって学校でついにでかいのをやらかしたんだよ。ガラスは割れるわ、流血沙汰になるわ、最後は警察とか救急車まで来て、ホント、あのときはやばかった。マジで殺し合うつもりかと思ったもん」
「うそ」
勝手に漏れた声につんつん頭がちょっとだけ笑った。
「そういう奴らだったんだよ。俺でもあの頃のあいつらには簡単には近寄れなかったから」
わたしの知らない二人。昨日散々思い知らされたはずなのにつんつん頭が言ったことが信じられない。信じたくない、のほうが近いかもしれない。
わたしの知ってる二人はお互いのことを一番わかり合ってる感じで、わたしはそれがとても羨ましかった。とても憧れていた。
二人だけの、絶対の世界。
だから。
「それでもう、とにかく二人を引き離そうって、進学と一緒に孝太が家を出たんだよ」
訊きたくて訊けなかった神くんの一人暮らしの理由。こんなところで知るなんて思わなかった。
壁に寄り掛かっていたつんつん頭は空を見上げた。わたしはつんつん頭のぺちゃんこの革靴をじっと見つめていた。
「高校も別のとこにすりゃあいいのに通いやすいからって同じとこ受けやがって。お互いのために引く気なし。でも校舎は別だったし今度はとことん避け合って、それにちょっとは大人になったのか、うっかり顔を合わせても前みたいにいきなり殴り合うようなことはなくなったし」
「でも、今は仲いい。です」
今度はちゃんと声を出せた。
「ホント、そこが俺には理解できないんだよな。普通、同じ女を好きになったりしたら、もっと険悪になりそうなもんなのに」
ふうっと、つんつん頭が息を吐いて。沈黙。
こんなところでつんつん頭と変な話をしている自分が信じられなくて、やっぱり夢でも見ているんじゃないかと思った。
「じゃ、頑張れよ」
ぼんやりしていたらつんつん頭の声で引き戻されて、顔を上げたらつんつん頭がにって笑った。
何を頑張るの。
訊けないうちにつんつん頭はバイバイって行ってしまった。
つばを飲み込んで両手をぎゅっと握り締める。
いつもみたいに逃げたらわたしはきっと苦しいままで、逃げなかったらもっと苦しくなるかもしれなくて。
(でも、でも)
真っ暗なままだったわたしの世界。たとえほんの一時のものでも神くんと宗太郎さんのおかげで少しだけ光が見えた気がした。もう二度と触れられないと思っていた温もりを感じることができた。
二人に会えてわたしはとても幸せだった。
(だから、そのお礼)
ありがとうって、伝えるだけなら、きっと大丈夫。逃げる前に二人にそれだけ言えたらわたしは少しは自分のことを好きになれるかもしれない。
いつもは引っ込んだままの勇気を、ほんの少しだけ出して。
電車に乗っている間も歩いている間も、ずっと心臓がどくどく鳴っていた。
手は震えるから握り拳を作ったままにした。
今日は迷わずに神くんのアパートに着いた。
石段を三つ上って、一番奥の部屋。
(大丈夫、大丈夫)
ドアの前、大きく息を吸い込んで。ノックをしようと持ち上げた右手はドアを叩く寸前で止まってしまった。
右手を下ろして深呼吸してから気づいた。
わたしは神くんの友達でも何でもなくて、ただクラスが同じなだけで、そんな人がいきなり家に来たりしたら、神くんはきっと嫌な気分になる。それに今日神くんが学校に来なかったのは体調が悪いからかもしれない。そんなときにわたしが来たりしたら、本当に迷惑だ。
気づいてよかった。
(時間はまだあるし、今日じゃなくてもいい)
自分にいいわけをして、がちゃり。あっと思ったときはもう遅かった。
目の前に、開いたドアと神くんが。
「ちょっとコンビニに行ってくる。宗太郎は何か」
部屋のほうに顔を向けながら靴を履いていた神くんがこっちを向いて、それから驚いたように目を大きく見開いた。
「坂口さん」
金縛りにあったみたいに固まってしまった体。神くんの声で解けて勢いよく頭を下げた。
「あの、ごめ、ごめん、なさ」
「うわ、どうしよう」
神くんが言って心臓がぎゅって縮こまって泣きそうになった。神くんを困らせたいわけじゃないのに、いつも迷惑をかけて、最低だ。
「こんな不意打ちもありなんだ。すっげえ嬉しい」
頭、ちゃんと働いてる? 何だかおかしい。わたしが考えていたのとは違う感じの言葉が聞こえた。
壊れそうな心臓の音を聞きながら、思い切って視線を上にずらした。
「上がって。この間のプリンもあるから」
嫌そうな顔じゃなくて、笑顔で。拒絶ではない言葉を。