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「なんで、いるの」
 気がついたら震えた声を出していた。


   10.水の底に沈める - 05 -


「暇だったから」
 暇。それだけの理由で。
「用がないなら、帰って」
「遅かった理由って、孝太郎?」
 勇気、思い切り出してちゃんと言ったのに、人のこと無視して心臓に悪いこと平気で口にする。
 悔しいからわたしも宗太郎さんの質問には答えないで鍵を開ける。手が震えてたの、宗太郎さんは気づいてしまったかもしれない。
 家の中に入って急いでドアを閉めようとしたけどその前に宗太郎さんの手に止められた。
(やだ)
「孝太郎、何言った」
「知らない」
 外から無理やりドアを開けられる。宗太郎さんは当たり前のように人の家に入り込んできた。
「そろそろやると思ってたけど、本当にやったかあの馬鹿」
 勝手に話を進めて勝手に靴を脱いで人の家に上がって、必死に考えないようにしてること、まるで傷口を抉るみたいに触ってきて。
「よかったな」
 わたしのほうを向いて、一段高いところから見下ろしてくる宗太郎さん。この人はいつもわたしよりずっと高いところにいる。神くんとは違う、手が届かない感じ。とても怖くて。
「何、が」
「孝太郎が言ったんだろ。あんたのことを好きだとかそういうことを」
 顔に血が上ったのが自分でもわかった。
「や、だ。やめて。知らない。わたしは、何も」
「あんたさ」
 自分の靴、じっと見つめたまま言ったら宗太郎さんの声が少し低くなった気がしてさっきよりももっと怖くなった。
「好きだった男から告白されてなんで逃げてんの」
 何がなんでもこの人を家に入れるべきじゃなかったってもの凄く後悔した。
 忘れちゃいけないこと、忘れてた。
(どこまでも追い詰めてくる、怖い人)
「それは、わたしじゃない。違う。そんなこと、あるわけないよ」
 そうだ。神くんは宗太郎さんと同じ人のことが好きって言った。だから。
「宗太郎さんの、好きな人、誰。神くんは、宗太郎さんと同じ人、好きって」
 宗太郎さんの顔を少しだけ見上げたら眉間にしわが寄ったのが見えて、すぐに俯いた。
 自分でも馬鹿だと思った。宗太郎さんの口から好きな人のことを聞けばそれでわたしはまた傷つくくせに。
(でも、他にどうしたらいいかわからなくて)
 今のわたしは逃げることだけで精一杯で。
 宗太郎さんの腕が動いたのが視界の端っこに見えた。右腕が上がる。宗太郎さんは何かを指差した。わたしは指差したほうを見る。真後ろ。ドアしかなかった。わたしは顔を正面に向ける。
 宗太郎さんの人差し指と真っ直ぐすぎるほどの視線がわたしに向けられていた。背中の辺りがぞくっとした。わたしが訊いたのは宗太郎さんの好きな人。その答え。
(だから、そんなことあるわけない。あったらいけない)
「嘘、だよ。そんなの。だって、嫌いって言ったよ宗太郎さんはわたしのこと」
 声が震えてしまうのを抑える余裕もなかった。泣きそうになるのを我慢するだけで精一杯だった。
「あんたが、そういう顔するから」
 そういう顔ってどういう顔。
「だって、わたしは、可愛くないし、スタイルだって全然、よくなくて」
「そんなの見りゃわかる」
「性格だって、最悪で」
「知ってる」
「だから、す、好きとかそんなこと、あるわけ」
「容姿だとか性格だとかはあくまできっかけになり得るものであって、それだけが全てじゃないだろ」
 いつもと変わらない苛々したような口調で、さらりと凄いことを言った。
 きっとそれは宗太郎さんにとっては当たり前すぎることなんだろう。
(見た目とか性格とか、宗太郎さんはそういうのを超えたところで)
 とてもとても怖いと思った。
 宗太郎さんの目はいつも何を見ているの。
 わたしの何を見て。

 怖いのとか苦しいのとかよくわからないのとかいろんな感情が混じった涙が溢れそうになったとき電話が鳴った。

 慌てて靴を脱いで電話に出る。宗太郎さんの横を通って。
「はい、もしもし」
『あ、坂口さん? 俺、神だけど』
 心臓が痛いくらい跳ね上がって、手が勝手に電話を切りそうになった。
『もしかして、宗太郎そっちに行ってない?』
「あ、うん、来て、ます」
 今日のことを思い出しそうになったけど神くんは何もなかったように言うから、わたしも何もなかったことにして無理やり声を出した。
『……ケータイの電源切ってるからそんなことだろうとは思ってたけどあの馬鹿。あのさ坂口さん』
 宗太郎さんがさっき言ったのと同じ言葉をとてもよく似た声で聞いた。
『前に、宗太郎が坂口さんちに行ったりしたら、必ず俺に連絡してくれって、言ったよね』
 いつかの朝の会話。
 もしかしたらわたしはまた神くんを怒らせた?
「あの、ごめん」
 謝ったら神くんが電話の向こうで大きなため息をついたのがわかった。
『やっぱり今日も家の人誰もいないの?』
「う、ん」
『いつ帰ってくる?』
「もしかしたら、今日は帰ってこないかもしれなくて」
 嘘、ついた。もしかしなくても帰ってなんて来ないしそれは今日だけのことじゃなくていつものこと。
『いい加減、自分のいる状況の危険性をわかって』
 危険性。わたしは家にいて、それだけで。今がいつもと違うのは宗太郎さんがいることだけで。あ、神くんが言ってるのはそのことだ。
「あ、うん、いくら宗太郎さんでも、暴力ふるったりとかそんなことはきっと」
『だからそうじゃなくて』
 呆れたような神くんの声。わたしは何か勘違いしたみたいだった。恥ずかしさで顔がもっと熱くなる。
「ごめ、ん」
『坂口さんは今、宗太郎と二人きりなんだよね』
「うん」
『好きな子と二人きりでいて、宗太郎が何もしないなんて保障はどこにもないんだよ』
 わたしの頭が言われたことを理解する前に神くんは先を続けてしまう。
『坂口さんは、俺たちから見たらセックスの対象なの』
「せっく」
 意味がわからなかったから聞き返そうとして、漢字変換じゃなくてカタカナ変換だって気がついた。
「え」
『だから、そういうこと。そういう目で見てたって気がつかなかった?』
 そういうことってどういうこと。そういう目ってどういう目。今日の神くんは本当に変だ。わけのわからないことばかり言う。
『とにかく、今から坂口さんちに』
 ぷつっと、電話が切れた。わたしのじゃない手が電話機に置いてあって切れたんじゃなくて切られたのだと知った。
 顔を上げて見たらわたしのすぐ横に宗太郎さんが立っていた。
 いつも怖くてたまらない宗太郎さん。でも今はなんだかいつもと違って見えて、眼鏡のレンズの奥の宗太郎さんの目をじっと見上げたまま、逸らせなかった。
「孝太郎のこと、殺してやりたいくらい嫌い」
 別に怒ってるわけじゃなくて静かな口調でだから余計に言ってることが怖い感じがした。
 何、言ってるの宗太郎さんは。わたしの知らないものを見てる目でわたしのことを見て。
「でも、あれも一応、弟だし」
 それにって言いながら宗太郎さんの右手が上がって、わたしの頭が急に重くなった。
「あんたが出した答えがそれなら、俺にはどうしようもない」
 ぽんぽんって。頭の上。宗太郎さんの手が。心臓がどくどく動いている音が耳の奥で聞こえる。
 宗太郎さんに触られたのは初めてだと頭の隅っこで思う、妙に冷静な自分もいて。
 頭が軽くなって宗太郎さんはくるりと向きを変えてそのまま玄関に向かう。
「バイバイ」
 背中、向けたまま。別れの言葉を。
(宗太郎さん)

 わたしのことを好きだと言う、怖い人。

 何かを考える前に体が勝手に動いた。
 追いかけて、右手を伸ばして黒いシャツの裾を掴む。
 宗太郎さんの足が止まって。
「何」
 いつもの不機嫌そうな声と顔に戻っていた。
「あの」
 自分でもなんで引き止めたのかよくわからなかったから何も言えなくて。
 でも、何かを言わなきゃいけなくて。
「あの、絵」
 宗太郎さんのシャツを握り締めたままの自分の右手を見つめる。
「宗太郎さんの描いた絵。見たいなって、思って。だから、いつか」
 そこまでなんとか言って、宗太郎さんにもう会えなくなりそうで怖くなったのだと気づいた。
 酷い言葉を平気で投げつけてきて、神くんみたいに優しいわけじゃない。わたしの絵を描いてくれただけで他に何かしてくれたわけでもない。近くにいたら傷つけられるから傍には近寄りたくない。
(それでも、好き)
 幸せで苦しくて欲しくて怖くて矛盾だらけのよくわからない感情。
 理屈なんて最初からなかったのかもしれない。
「気が向いたら」
 宗太郎さんの声。駄目って言われなかったのが嬉しくて。
「うん」
 不確かで微かな繋がり。約束とも言えないけど、でも何もないわけじゃない。
 握り締めていた手をゆっくり開いた。

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