耳の奥で血が流れる音が怖いくらいに大きく響いていた。
10.水の底に沈める - 02 -
(あんたには関係ない)
あんたはわたしのことでそう言ったのは神くんで、関係ないという言葉はつまりわたしが神くんの世界に立ち入るなということで。さっきの人たちに向けたのと同じ声がわたしに向けられて。
(拒絶)
たとえ同情でもわたしは神くんにとって少しは特別な存在かもしれないと自惚れていた。
(たとえ同情でも、わたしは神くんにとって少しは特別な存在でいたかった)
「ごめん」
普通に声を出せたからよかった。神くんにも変に思われないはず。ずっと下に向けていた視線を持ち上げて、神くんの目を頑張って少しだけ見た。別に神くんに何か言われたからって傷つくわけじゃないって強いふり。
神くんは事実を言っただけ。わたしだって神くんに同じこと言ってる。大したことじゃない。だから。
(今は泣いちゃ駄目)
教室、他の人もたくさんいるから。
(泣くな)
奥歯を噛み締めて、一度下げた視線をまた持ち上げて神くんの目を見た。
(あなたのきれいな瞳に映っているわたしはきっと誰よりも醜いのでしょう)
「ごめん」
もう一度だけ言って、頭を下げて、バイバイ。心の中で言った。
つばを飲み込んで体中に力を入れた。
「坂口さん」
教室を出ようとしたところで後ろから呼び止められた。溝口先生の声。ふわっと柔らかい空気に包まれる。
「資料室に運ばないといけない荷物があるのだけれど、もし時間があったら少し手伝ってもらえませんか」
「あ、はい」
頷いたら先生が嬉しそうに目を細めたからわたしも嬉しくなって、ただでさえ溢れてしまいそうだった涙を抑えきれなくなりそうになった。
「よかった。僕が声をかけるとみんな逃げてしまうんですよ」
「先生」
その声はまるで刃物みたいで。たった一言聞いただけで嬉しい気持ちから一気に引き戻されて、でも今度は涙が怖がったみたいに引っ込んだ。
わたしの横に神くんが並んで。
「俺も手伝います」
(なんで、神くん)
わたしが神くんの世界に立ち入ることを拒んで、だからこのままなんの干渉もなく、それでおしまいだと思っていたのに。
「ああ、神くんか。ちょうどよかった。実はこの後用事が立て込んでいまして。それじゃあ僕の代わりをお願いできますか」
少し下がった眼鏡を直しながら、先生が神くんに言って神くんも「はい」って答えた。
先生、神くんと一緒は嫌です。
そんなこと、言えるわけがなくて。
「では二人とも、一緒に職員室まで来てください」
「これを資料室に戻してきてほしいんです」
職員室、先生の席の後ろに小さめのダンボール箱が二つ置いてあった。
少しだけ持ち上がったふたの隙間から見えたのは、国語辞典みたいだった。
「資料室って北校舎一階の端にあるやつですよね」
「そうです。箱を適当に置いてきてくれればいいですから。ええと、これが鍵です。終わったら僕の机の上に戻しておいてください。それじゃあ後は頼みます」
「はい」
神くんが鍵を受け取ると、先生は急ぎ足で職員室から出て行ってしまった。神くんは何も言わずに箱を一つ持ち上げる。怖くてずっと足元を見ていたわたしも、慌ててもう一つの箱を持った。重い。
針でちくちく刺してくるみたいな空気。心臓が壊れてしまいそうで怖い。吐き気がしたまま神くんの後ろを歩いた。
日の当たらない資料室は他の場所よりもひんやりしていて、電気をつけても薄暗くて、普段掃除をしてないせいか凄く埃っぽかった。
狭い部屋いっぱいに並んだ棚には、たくさんの本やよくわからない紙の束があって、床にはそこから溢れたものやダンボールの箱があちこちに積み重なっていた。
神くんは部屋の奥のほうへ行って箱を置いて戻ってきた。わたしもその隣に置こうと奥へ行く。
息が、苦しい。
重い箱を床に下ろして、深呼吸をした。
入り口のところに戻ったら神くんがいなかったから、もう外に出てしまったんだと思って慌てて戸に手をかけて開けようとしたのに開かなくて。
「それ、鍵かけたから」
神くんの声が後ろからしてびっくりして振り返った。神くんは外に出たんじゃなくて違う棚の影に入ってしまっていただけだった。
「これでゆっくり話ができる」
話。
なんの話。わたしと神くんの間で。鍵、かけたってなんで。ゆっくり、何を話すの。
(息が)
「そろそろはっきりしてくれないと、いい加減俺にも我慢の限界ってやつがあるから」
あ、怒ってる。
そう思った途端、本当に怖くなって。ぎゅって握り拳を作って、唇を思い切り噛んで、上履きのつま先を見つめた。
優しい神くんを、わたしが怒らせた。
「関係ないって、先にそう言ったのは坂口さんなのに、俺が同じこと言ったら泣きそうになって、坂口さんは一体どうしたいの」
どうしよう。どうしよう。神くんを怒らせた。音は耳に入ってくるけど頭に入ってこない。神くんは今何を言ったの。
「坂口さん」
どうしよう。
息、できてない気がする。苦しい。
「坂口さん」
誰か。助けて。
(たすけて、かみさ――)
「坂口さん」
左肩に急に力を感じて、見たら手があった。
(誰の)
神くんの。
よくわからない頭のまま、いないってわかってるはずの神様にまだ縋ろうとしている自分に吐き気がして、顔を上げて。
神くんが目の前に立っていたことにびっくりして、それから神くんの右手がわたしの左肩を掴んでいることに気づいた。
(神様だった神くんの手)
「あ」
目の前がぼやけて頬が熱くなったのと一緒に神くんが小さく声を漏らした。
「あ」
今度はわたしの喉から勝手に声が飛び出た。
どうしよう。
(神くんの前なのに)
泣いたら駄目なのに。
「ごめ、ん」
零れてしまった涙を拭こうと、慌てて両腕を持ち上げようとする前に本当に息ができなくなった。変な力に捕まえられて反射的に目を閉じた。
(熱い)
何が起こったのかすぐにわからなかった。頭の後ろが温かくて腰に何かが巻きついてる感じがした。
鼻と口は何かに押し付けるみたいになってる。
思わず閉じてしまった目を開ける。正面に、さっきまでいたはずの神くんがいなくなってカーテンが閉まったままの窓が見えた。
(神くんはどこ)
それから頭の右側がなんだかおかしな感じがした。自分のじゃない呼吸音がすぐ近くで聞こえる気がする。
体中が熱くておかしい。何かに捕まってる感じ。何に。
「神、くん」
「ん……」
鼻と口に何かが当たったままだから少し苦しい。掠れた声を喉から絞り出していなくなってしまった神くんを呼んだら、神くんの声が耳元でして頭の中が真っ白になった。