今までのこと、全部夢だったんじゃないかって思った。
10.水の底に沈める - 01 -
朝神くんと一緒になることがなくなった。
神くんの声がわたしに向けられることがなくなった。
わたしが神くんと言葉を交わすことがなくなった。
神くんはわたしの後ろの席で、ただそれだけだった。
神くんの優しさが怖くて逃げて、神くんに離れて欲しいって思ったのはわたしで、でもその優しさにまだ縋りたがっているのもわたしで、どこにも行き場がない。
(元に戻っただけ)
何度自分に言い聞かせても泣きそうになる。
夢、見られただけでも幸せだった。好きな人とたくさん話せて、宗太郎さんは怖かったけど神くんには優しくしてもらえた。
(執着)
手に入れることも諦めることもできないで。
いつまでどこまでひきずるのわたしは。
「おい」
お弁当食べた後、眠くなったからリュックを枕代わりに机に伏せていて、夢でも見てるのかと思った。いつもならざわついてる昼休みの教室が異様に静かで、絶対にこの場にいるはずのない人の声が聞こえた気がした。
とんとんって机叩かれて、寝ぼけたままの頭を少しだけ持ち上げて音がしたほうに顔を向けた。
(だれ)
目を開けたら見たことのある手が机の端に置かれていた。
(宗太郎さんの、手)
宗太郎さんの。
次の瞬間一気に目が覚めた。
「え、なん、で」
慌てて顔を上げたら目の前がぐるぐる回った。
「……孝太郎は」
黒縁眼鏡のレンズの奥の、不機嫌そうに細められた目を見てしまって、心臓痛くてすぐに下を向いた。
なんで宗太郎さんがここにいるの。学校、やめたって言ってた。今も制服じゃない、ジーンズの脚。
「何やってんだよ、こんなとこで」
頭、真っ白になりかけたところで神くんの声。宗太郎さんが入り口のほうに顔を向けた気配がした。
「原田に用があったんだよ。なんか文句あんのか」
はらだ。原田。原田先生だ。美術の、この学校の数少ない若い男の先生。宗太郎さんは絵を描く人で、前に神くんが宗太郎さんは美大を目指してるとか言ってた気がするからそのことで用があったのかもしれない。
そこまで考えてから、変な感じがした。空気が、なんか変だ。
(ざわざわしてる。首の後ろとか背中のあたりとか)
「だったら、ここに来る必要はねえだろ」
今まで、聞いたことのない声で神くんが言った。リュックの上に置いてきつく握り締めた両手をじっと見つめて、つばを飲み込む。
「どうしようが俺の勝手だろ」
机の上に置かれていた宗太郎さんの手が、視界の端から消えた。
(こわい)
普通に会話してるだけのはずなのに刃物で切りつけ合ってるみたいに痛い。
神くんと宗太郎さんは仲が良くて、わたしには絶対に入り込めなくて、それなのになんで。
「ちょっと神くん、今の誰っ?」
高いトーンの声で我に返った。いつの間にかいなくなっていた宗太郎さん。神くんは自分の席に座って、まだ空気がぴりぴりしていて。
いつかわたしと神くんが付き合ってるのか訊いてきた人たちが、わたしの横を通って神くんの周りを囲む。
こんな怖い空気をまとっている神くんにどうして声をかけられるの。背中を向けていても針が突き刺さってくる感じがするのに。
(神くんは優しくて)
でも今後ろにいる神くんは、触ったら切れそうなくらい怖くて全然違う人みたいで、わたしは神くんのことを何も知らなかったんだって思い知らされる。
「やーもうすっごいびっくりしちゃった!」
「あの人って神くんのお兄さん? なんの用で来たの?」
「神くんとむちゃくちゃ似てるねー。もしかして双」
はしゃいだ声が急に止まった。息を呑む気配。
「うるさいよ」
神くんの声がたった一言。息ができなくなった。
(こわい)
全身に鳥肌が立って寒気がした。
(わたし、本当に神くんのこと何も知らない)
別に乱暴な口調でも大きな声を出したわけでもないのに、そんなことをするよりずっと怖かった。
わたしに向けられたわけでもないのに、体の奥の奥まで突き刺さった。
始業式の日に神くんが怖い人らしいって誰かが言ってた。あとで、わたしは宗太郎さんのことと間違えたんだと勝手に思ってたけど、やっぱりそれは神くんのことを言っていたのかもしれない。
神くんの顔、見えなくてよかった。どんな顔してるのか、考えるだけで震えそうになる。
初めて神くんと顔を合わせたときの神くんのナイフみたいに鋭い目を思い出した。一瞬だったけどあの目は確かに神くんの目で。
(わたしが知っている優しい神くんは、一体誰)
「坂口さん」
わたしの心臓はきっと神くんに握られてる。帰りのホームルームが終わって机を後ろに下げて、掃除当番じゃないからリュックに手をかけて。今日はいきなり宗太郎さんが現れて神くんを初めて本気で怖いと思ったこと以外は何もない一日で、それで終わりだと思ったのに終わりじゃなかった。
神くんに名前呼ばれたの何日ぶりか考えてから一応体だけ神くんのほうに向ける。
「宗太郎、何か言ってた?」
いつもと同じ声だったけどまだ怖い感じがした。わたしは首を横に振る。
「あ、の」
なんで声出したのか自分でもわからなかった。
「何」
問い返されて、なかったことにできないから何を言おうか考える。聞きたいこと、一つあった。スカート握り締めて。
「神くん、宗太郎さんと、喧嘩したのかなと、思って」
息を吐き出して。
「――あんたには、関係ない」
氷よりも冷たい声に、息を吸い込んだ瞬間全身の血が逆流するかと思った。