神くんに抱き締められている。
一瞬冷めた頭が理解して、そのあと一気に沸騰した。
10.水の底に沈める - 03 -
「や……っ」
体のどこにも力が入らない。思わず飛び出た、ただでさえ掠れてしまっている声、口と鼻に当たっている布で遮られて余計に聞き取りづらくなる。
「神、くん、や、だ」
「うん」
神くんの声がそう言ったのと一緒に、さっきよりももっと強い力に捕まってさっきよりももっと苦しくなった。
(このまま神くんに殺される)
そうなったらきっととても幸せなんだろうと熱い頭のどこかで思って、びっくりしすぎて一度引っ込んだ涙が我慢する前に勝手に溢れてきた。
「坂口さん」
耳元で低く名前を呼ばれて、首とか背中とか腰の辺りがぞくっとした。全身に鳥肌が立ってる気がする。
この状況は一体何。
「やだ、はなして、はなして、やだ、やだ」
同じ言葉を繰り返す。何も考えられない頭、神くんに撫でられてる感じがするのは気のせいだといい。
「ごめん、いきなり」
どれくらい時間が経ったのかわからないけど、気がついたら肺に空気が一気に入ってきた感じがして神くんの体が離れていた。でもまだ変な感覚が残ってて熱くて苦しい。
「あの、ごめん、ごめん、なさい」
自分でも何を言ってるのかわからなくなった。涙が少し気持ちが悪かったから、制服の袖で顔をごしごしこすった。
「目に、ゴミが入って」
意味のない嘘をついたら神くんが少しだけ笑ったような気配がした。
「本当に、ごめん。でも」
もう怒っている感じはしない神くんの声。
「好きな子にあんなふうに泣かれたら、俺も我慢できない」
「あ、うん、わたしも本当にごめ」
(息が)
今、なんだかもの凄く変なことを神くんが言った気がする。
わたしが泣いてしまったから神くんはとても困ったはずで。だから思わずわけのわからないことをしてしまっただけのはずで。
(好きな子。神くんの好きな人。が泣いた)
いつどこで。
神くんの、好きな人。
「あ、れ? 坂口さん、まさか」
頭、くらくらしたまま神くんを見上げた。
「まさか、わかってない?」
何が、って訊く代わりに馬鹿みたいに神くんの顔を見つめてしまった。
そうしたら神くんがいきなりその場にしゃがみ込んでびっくりした。
「あー、うわ、俺今まで一人で何してたんだろ。すっげえ無意味なことしてた」
頭を抱えるみたいにしてしばらく唸っていた神くんは、それからゆっくり立ち上がった。
「坂口さん」
今度は神くんの顔見られなかったから上履きを見た。
「坂口さんは俺の好きな人、誰だと思ってるの」
「え、あ、えと、あの、わたしの、知らない人、だと思って」
そんなこと、訊かれると思ってなかったからどうしていいかわからなくて、うまく声が出なかった。
「坂口さんもよく知ってる人、なんだけど」
わたしもよく知ってる人。ということは多分同じクラスの人。
痛くて痛いのにそれとは違う変な感じがしてちゃんと考えられない。同じクラスの人の顔も思い出せない。
「もう、はっきり言います。俺が好きなのは」
え、うそ。なんでそんな話になってるの。
(やめて)
そんなこと別に知りたくない。聞きたくない。耳を塞ぎたいけど腕が動かない。神くんの上履きをじっと見つめて呼吸するのに集中した。
「坂口さん」
名前、呼ばれたから顔を上げないといけないんだと思って、少しだけ神くんの顔を見た。
「坂口伊織」
何故かフルネームを言った神くんの唇。ずくずくしてるわたしの心臓。これは現実じゃないのかもしれない。現実じゃないといい。
(夢、だったら幸せ)
「自分でも怖いくらい、手に入れたいって思ってる」
あ、神くんの好きな人、誰だか聞いてなかった。聞かなくてよかった。心臓が痛くて凄く苦しくて、今すぐこの場所から消えてしまいたかった。
神くんに求められている幸せな人を、わたしが欲しくても手に入れることのできないものを持っている全ての人を妬んで。
誰よりも醜いわたしは綺麗なものに憧れて。ただ憧れて。
「ずっと見てた。坂口さんのこと」
耳に飛び込んできた音、とっさに理解できなくて、見つめたままになってた神くんの目が真っ直ぐわたしを捉えていて、逃げられないような感じがして怖かった。
「わたしのこと。なんで見てるの。神くんが」
「好きだから」
勝手に動いた口に神くんが答えた。
「好きって、誰の、こと」
「だから坂口さんのことが」
あれ、なんだかおかしい。凄くおかしい。
「え」
「えって、さっきから言ってるんだけど」
もの凄く変な顔をしているわたしはきっと息をしてない。
(だって、苦しい)
好き。神くんの、好きな人。きっと外側も内側も凄く綺麗な人で強い人で、わたしが持ってないものを全部持ってる人で。
神くんの好きな人は、そういう人のはずで。
(嘘だ)
「うそ」