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 暗闇の中で懐かしい夢を見た。


   09.ひとりの夜 - 02 -


 まだ何も知らずにいた頃の夢。
 守られていて、心地好くて、わたしは幸せだったのかもしれない。
 額にそっと触れる温もり。優しく撫でられる。
(誰)
 姿が見えない。
(誰?)
 優しさが、温もりが、体中に沁み込んできて思い出してはいけなかったものを思い出してしまう。
(早く、目を覚ませ)



 無理やり夢から覚めた。目を開けたら見慣れない天井。保健室のベッドで眠っていたことを思い出す。
 額に温もりを感じてまだ夢の中かと一瞬思った。人の肌の感触。懐かしい感覚。
 視線を少し横にずらした。
 心臓、痛いくらいに跳ね上がった気がした。
「気分、どう?」
 鼓膜が振動して涙が溢れそうになった。わたしの涙腺に直結してる、神くんの声。
 頭の中がぐるんって回った気がしたけど慌てて起き上がった。
「神くん、なんで。今、何時間目」
 声が変になって、うまく文も作れなかった。
「俺、保健委員だから。もうすぐ五時間目が始まるとこ」
 そんなに眠っていたわけではないみたいだった。
 制服に気をつけながらベッドから下りて足を床につける。
「あれ、どっか行くの?」
「授業、あるから教室に」
 すぐ近く、丸椅子に腰かけていた神くんが立ち上がって、どこかに行ったと思ったら体温計を持ってまた戻ってきた。
「熱、あったって聞いたから。授業出るんならもう一回熱測って、それから決めたほうがいい」
 神くんに体温計を渡された。
 ブレザーのボタンを外してワイシャツのボタンに手をかけたけど、神くんがまだそこにいてわたしのほうを見てたから、手を止めた。どうしようか考えてからワイシャツの裾を引っ張り出してそこから体温計を差し込んだ。神くんに見られてると思うと凄くやりにくかった。
 小さな電子音が聞こえて体温計を取り出す。三十七度七分。さっきとあまり変わってない。
「やっぱり早退したほうがいいよ」
 神くんが言ってくれたけどわたしは首を横に振った。
「数学もあるから勉強、遅れるの嫌だし」
 ワイシャツの裾をスカートの中に押し込んで、立ち上がる。
「あらあらもう大丈夫?」
 保健室の先生に体温計を返して保健室の出口に向かう。めまいはするけど多分大丈夫。
「ありがとう、ございました」
 ぺこりと頭を下げて保健室を出た。

「つらくなったらすぐ俺に言って」

 教室に戻ろうと歩いてたら後ろからいきなり声がしてびっくりして振り返った。わたしの後ろを歩いていた神くん。
 昨日の今日で、神くんの優しさは苦しくて腹が立つだけ。
 馬鹿なわたしはその優しさを勘違いしそうになる。
 もしかしたらって考えて、すぐにあるわけないって打ちのめされる。その繰り返し。
 怒りに任せて顔を上げたら本気で心配そうな瞳とぶつかってどうしていいかわからなくなった。
 優しすぎる神くんは、こんなわたしのことでさえ本気で心配してくれる。
 でも、神くんの中にはわたしではない誰かがいる。
(綺麗な瞳)
 まつ毛が長いなとぼんやり思った。
 こんな素敵な人に思われているのは一体誰なんだろう。
 汚い。汚い。
 ぐるぐる渦巻く汚い感情。きっと赤い色をしている。濁った血の色。
「坂口さん?」
 間抜けに神くんの目をずっと見つめてしまっていたことに気づいて慌てて俯いた。
「ごめ、ん」

 本当は知ってる。今まで幸せすぎたってこと。
 前に、神くんが同じクラスの他の女の子に訊かれても教えなかった携帯電話の番号、わたしは教えてもらえた。
 神くんのうちにも行って、一緒においしいプリンを食べた。
 他の人と比べれば、きっとわたしはそれなりに神くんの近くにいた。それだけで十分。前だったら好きな人と話すことさえなかった。
(これ以上のことを望んではいけないのです)
 わかっているはずのこと。それなのに神くんと宗太郎さんに思われているその人のことを考えると醜い自分を抑えられなくて。

(だってわたしには誰もいないのに)


 教室に戻って自分の席に座る。頭痛くて気持ち悪いけど大丈夫。前の授業のときのまま、英文が書いてある黒板をじっと見つめた。
 さっき目が覚めたとき、神くんがわたしの額に触れていたことに気がついて、また泣きたくなった。



「坂口さん、この問題を前に出てやって」
 六時間目の数学の時間。ぼんやりしていたら穂高先生に指名された。一時間目も当てられたのになんでわたしばっかり。
 しかも難しい問題だったから慌てて取り掛かろうとしても解けるわけない。消し跡で汚くなってしまったノートを一応持って前に出る。
 短めの白いチョークを手にとって。数式の書かれた黒板を睨んでもわからないものはわからない。焦れば焦るほど頭の中が真っ白になっていく感じで何も考えられなくなって、自分が両足で立っているという感覚までなくなってきた。
 穂高先生の授業のときは、普段はうるさいクラスなのに異様なほど静かになる。生徒というものは賢いもので逆らってもいい先生と逆らってはいけない先生の区別をちゃんとしてる。
 背中に視線、痛いくらい感じて、治まってきたと思った吐き気と頭痛がさっきよりも酷くなった気がした。
 耳の奥で自分の心臓の音がうるさいくらいに響いた。
「あなたはこんな問題も解けないの」
 冷たい声が心臓に突き刺さって、目の前がぐるぐる回ってる感じがして。
「先生」
 神くんの声、後ろから。
「その問題できたんで代わりにやってもいいですか」
「……そうね、じゃあ坂口さんはもう席に戻って」
 やっと最悪の状況から解放される。
 わたしが席に座ったのと同時に神くんが立ち上がる。まだ期待してる自分がいる。神くんは優しくて、わたしの体調が悪いこと知ってるから。それだけなのに。
 わたしの横を神くんが通る。さっきわたしが持っていたチョークを神くんが手にした。
 右手がすっと上がった。神様の手だと思った神くんの手。
 ノートも何も見ないで問題を解いていく神くんはやっぱり頭がいい。普通に学校に来てたら絶対に留年なんてしなかったはず。
 そう考えたら凄く変な感じがした。もし神くんがちゃんと三年生になっていたら今この場に神くんはいなくて、わたしが神くんと会うこともなかった。
 途端に苦しくなった。
 神くんと会わなかったらこんなに苦しむことなんてなかったけど、神くんを知らないままでいるほうがもっと怖い気がした。

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