寝坊した。
起きたのはいつも家を出る時間。目覚ましをセットするのを忘れていた。
09.ひとりの夜 - 01 -
校門の前まで来たところで一時間目開始のチャイムが鳴った。
息が切れて、気持ち悪い。他にも遅れてきてる人はいたけどわたしのクラスの靴箱の周りには誰もいなかった。
今日は一時間目は数学の日で数学の先生は凄く厳しくて、下手に遅刻なんてできない科目。よりにもよってこんな日に寝坊するなんて最悪だ。
階段を駆け上ってる途中で泣きそうになった。歯車がどこか狂った感じ。
深呼吸してから後ろの入り口から教室に入る。閉まっていた戸を開ける音が大きく響いて嫌だった。
周り、見ないようにして机と机の間を歩く。ちょっとだけ神くんが視界に入って、それだけのことにも反応してしまうわたしの心臓。
「坂口さん、問三ね」
息が切れたままリュック下ろして椅子に腰を下ろすのと一緒に。
名前を言われて反射的に顔を上げたら先生と目が合った。
穂高しのぶ、二十八歳、数学担当。甘やかすつもりは毛頭ないから覚悟してね。
パンツスーツに短い髪。男っぽい感じで、でもきちんとお化粧してて普通に綺麗な人で、きっぱりさっぱり最初の挨拶でそう言い切った。遠く離れたところから見ているだけなら気持ちのいい、わたしの苦手な先生の一人。
「はい、早く前に出てやる。遅刻してくる余裕があるんだからもちろん宿題もやってあるでしょ」
針、ちくんと刺されたみたいな痛さ。嘘。本当はもっと痛い。緩みかけた涙腺は唇を噛んだ痛さで気づかないふりをする。
少し前の数学の授業で、いくら考えてもわからなかった宿題を運悪く当てられて、ちゃんと答えられなかったのはわたしだけで、宿題さぼってやらなかったわけじゃなかったのにそんなふうに言われた。
でも今当てられたのはちゃん解けた問題だった。だから大丈夫だって思ったのに。
「これは一番やってはいけないやり方ね。くれぐれもこういう間違いはしないように」
手の甲、机の下できつくつねった。抑え切れなくて目に浮かんだ涙を先生に気づかれないようにずっと俯いていた。
手が震えた。
「坂口さん」
数学の授業が終わって名前を呼ばれた。
「坂口さん」
後ろから神くんの声が、鼓膜に突き刺さる。顔を少しだけ神くんのほうに向ける。
「珍しいね。坂口さんが遅刻するなんて」
「ちょっと、寝坊して」
神くんの中にはわたしなんてどこにもいないのに、これだけの会話がどうしようもなく嬉しい。
今日の神くんとの会話。日記に神くんと話したこととか細かく書いているのは馬鹿みたいだけど、思い出として残しておくくらいは許してください。いつかそれを綺麗な気持ちで読み返せる日が来るといい。今は無理でもきっと時間が全てを解決してくれるはずだから。
「坂口さん」
神くんとは違う声で名前を呼ばれて、少しだけ神くんのほうに向けていた顔を黒板のほうに向けたら穂高先生が立っていた。
「昼休みに私の所へ来なさい」
おなかが痛くなって吐きそうになった。
「いいわね」
嫌だと言えたらよかった。絶対無理なのはわかっているけど。
凄く憂うつなことが控えている前は時間が経つのがやたらと早い。
あっという間に昼休み。逃げたくても逃げられない。
四時間目の終わりのチャイムが鳴ってすぐに席を立つ。このままだとお弁当なんて喉を通らない。
吐き気を伴う腹痛。
今日は男子が五、六人教室の前の廊下の壁に寄り掛かって座っていた。教室の後ろから出ればよかった。重い足を引きずって職員室までの廊下を歩く。
職員室の前まで来たところで、ちょうど中から戸が開いた。
中に入って穂高先生の姿を探す。数学の先生の席は職員室の奥のほう。
吐き気を伴う腹痛に加え頭痛とめまい。
精神が肉体に与える影響は馬鹿にならないと身をもって思い知らされる。
「坂口さん」
後ろから、落ち着いた感じのよく通る声。
振り返る気力もないけど頑張って足に力を入れて体を後ろに向ける。うっかり顔を上げて先生の目を見てしまった。
「あなたは体調の管理くらい自分でできないの」
頭が先生の言葉を理解する前に左腕を先生に掴まれてそのまま引っ張られた。
視界が揺れて足元がふらついたけど腕を先生にしっかり支えられていたから倒れることはなかった。
連れて行かれた先は保健室。
「あらあら穂高先生どうなさったんです?」
「生徒の具合が悪いようなので連れてきました」
「あらあら大変。顔色真っ青よ」
保健室の先生に言われてさっきの穂高先生の言葉の意味がわかった気がした。
精神が肉体を蝕んだのか、それとも最初から肉体のほうに問題があったのか。今更どっちでも変わらないけど。
保健室の先生に促されるままにベッドに横になった。体温計を渡される。
熱なんて滅多に出ないわたしにとっては、しばらくしてから起き上がって取り出した体温計に表示された、三十七度八分という数字もなかなか信じられないもので。
思わずそのまま体温計をじっと見つめていたら穂高先生に体温計を取られた。
「早退したほうがよさそうね」
「あの、でも午後の授業が」
今日は六時間目にも数学があるけど、勉強が遅れて今よりも授業がわからなくなるのは嫌だ。
「どっちにしろ昼休みはここで横になって休んでなさい。午後の授業までまだ三十分以上あるんだし。それからまた様子を見て決めましょう」
保健室の先生に言われて頷いた。穂高先生は何も言わずに出て行った。
ベッドに横になる。目を閉じて。体が沈み込んでいく。
(深く。どこまでも)