「あの、鍵忘れてっ」
『え?』
ってそうじゃなくて。
07.夢か現か - 02 -
「あ、ご、ごめんなさい、朝早くに。あ、ええと、ま、またかけ直しますっ」
『あ、ちょっ』
勢いよく受話器を下ろした。
これじゃあ、いたずら電話だ。
心臓が痛い。
深呼吸をしてたらまた電話が鳴った。
だから電話は好きじゃない。心臓に悪すぎる。
「はい、もしもし」
できるだけに普通に声を出して。
『坂口さんのお宅ですか? 神ですけど』
一瞬頭が真っ白になった。
『もしもし?』
「え、あ、はい、坂口です」
『あのさ、違ってたら悪いんだけど、さっきうちに電話した?』
どうしよう、どうしよう。
「ごめん、なさいっ、あの、別にいたずら電話をかけようとしたわけじゃなくて」
『ん、それで俺に何か用でもあった?』
用、あって。なんだっけ。
鍵。鍵を。
「鍵を忘れていって、それで今日中に持って来いって電話があって」
焦って上手く説明できない。それよりも主語が抜けてる。
「あの、宗太郎さんが」
慌てて付け足したら一瞬沈黙があって。
『宗太郎?』
怪訝そうな声が返ってきた。
「うん、宗太郎さんがうちに忘れていって」
今度は少し落ち着いて言えた。
『……ごめん、ちょっと話が見えない』
「あ、ごめ、ええと、あの、昨日の夜宗太郎さんから電話があって」
言おうか迷ってから。
「あの絵は、一番嫌いなものを描いた絵だから勘違いするなって、それで」
神くんの反応が怖くて続けて話した。
「その後すぐに、宗太郎さんがうちに来て、雨で濡れてたからお風呂に入ったり服を乾かしたり」
『……余計なことかもしんないけど、夜に知らない男を家に上げるのは無用心すぎると』
「だって、神くんのお兄さんだし、それに宗太郎さんが勝手に」
そして沈黙。
今電話で神くんと話してるんだ。冷静に考えると凄い。ちゃんと話せてる。
『ええと、鍵だっけ』
「うん、どうすればいいかな」
あ、いい感じ。宗太郎さんで免疫がついたのかもしれない。ちょっとだけ感謝。
『月曜日学校に持って来てくれればいいよ』
「え、でも、今日中にって」
宗太郎さんが。
『いやそれは……あー、だったら俺が取りに行くよ』
「えっ、や、いいよ、わたしが行くから。神くんの家に持って行けばいい?」
またしばらく沈黙があってから。
『本当にいいの?』
「うん、ちゃんと持って行くから」
『じゃあ頼みます』
神くんの声で耳がじんじん痺れた感じのまま、受話器を置いて大きく息を吐き出した。
(神様)
今更意味のないドキドキだとわかっているはずなのに、それでも泣きたくなるくらい嬉しいんです。
駅から神くんのアパートまで迷いに迷って、本当なら一時間もかからないところを、九時前に家を出たはずなのに十一時近くになってやっと到着した。歩きすぎて足が痛かった。
深呼吸をしてから神くんの部屋をノックする。
しばらしてから足音が聞こえて、ドアが開いて。
びっくりした。
休みの日だから当たり前と言えば当たり前だけど、私服の神くんは初めてだったから。
白っぽい長袖のシャツに、着古した感じのジーンズ。
眩しすぎて直視できない。
「遅くなって、ごめんなさい。来る途中、ちょっと迷って」
ちょっとじゃなくて、かなりだけど。
右ポケットから鍵を取り出した。神くんが手を伸ばしてくれて、わたしは神くんの手に触らないようにそっと鍵をその上に乗せた。手も、震えないように。
頭を下げて帰ろうとしたら。
「もう帰んの? せっかく来たんだから上げっていけば?」
一瞬、固まってしまった。
「や、いいです」
すぐに思いきり首を横に振った。本当に心臓がもたない。
「ああ、これから学校に行くとか?」
家に帰るだけなのに、なんでそんなことを訊くんだろうと思って、制服を着てるのを思い出した。
「あの、制服なのは洗濯してなかったりして着る服がなかっただけで」
恥ずかしくなったからもう一度頭を下げて今度こそ帰ろうとしたのに。
「すっげえうまいプリンがあるんだけど」
別にプリンにつられたわけじゃないけど。
「あの……じゃあ、ちょっとだけ」