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 あの人は心臓に悪すぎる。
 大体人の家のお風呂に当たり前のように入るなんて一体どんな神経をしてるんだろう。


   06.きらいなひと - 02 -


 廊下に宗太郎さんの濡れた足跡がついていた。
 あまり広くないリビングのドアを開けて、汚れた食器がたまっているはずの台所のほうに目を向けた。長方形の茶色のテーブルにも埃が積もってる。椅子を引いて横向きに座って大きく息を吐き出した。
 同じクラスの男の子の、双子のお兄さんが、どうしてわたしの家のお風呂に入ってるんだろう。
 深く考えるとさらに混乱しそうになるからやめた。
 電話、どこから。携帯電話。今はそういう便利な道具がある。
 電話番号と住所は、どうやって。ああそうか、クラス名簿を、神くんが持ってるはずだから。
 どうでもいいことばかり色々考えて答えを出してから、宗太郎さんの濡れた服を思い出した。乾かさないときっと帰れない。何か着るものを用意したほうがいいのかもしれない。
 宗太郎さんが着られそうなものがあるか、一階にあるお父さんの部屋に探しに行く。
 電気をつけたら、ずっと掃除をしてなかったから凄く埃っぽかった。
 お父さんのだと宗太郎さんには小さい。でもずっと前にお父さんがサイズを間違えて買ってきたパジャマがある。大きすぎて結局一、二回しか着てない、水色に白の縦のストライプが入ったやつ。あれならきっと宗太郎さんにちょうどいい。タンスの奥から引っ張り出した。防虫剤のにおいがした。
 洗面所のドアを開ける。宗太郎さんの服を勝手に乾かしていいのか悩む前に乾燥機が動いているのに気がついた。勝手に人の家に上がり込んでお風呂に入るような人だから。
 わたしが代わりの着るものを持ってこなかったら、服が乾くまでどうするつもりだったんだろう。ずっとお風呂に入ってるつもりなのかな。
 パジャマを水色のかごの中のタオルの上に置いて洗面所を出た。
 色々なことが一気に起きすぎる。
 だからまだ頭が追いついてなくて大丈夫。
 麻痺してる。
 痛すぎて痛みがわからないみたいに。
 リビングに戻って、今度は灰色のソファに座って同じ色のクッションを枕にして横になった。大きくてふかふかしてて気持ちいいからこのソファは好き。
 脚の短いガラスのテーブルの向こう側のテレビ、最近見てない。
 目を閉じた。
 このままどこか遠い世界に飛んでいけたら。

「おい」

 まぶたの裏側が急に暗くなって、声と一緒に頬に冷たいものが落ちてきた。
 目を開けて、視線を上に向けたら宗太郎さんがわたしを見下ろしていた。
 眼鏡をかけていなかったから一瞬神くんかと思って声を出しかけた。
 慌てて起き上がって、ソファの後ろに立っていた宗太郎さんを見た。
 濡れた髪から水がぽたぽた落ちていて、わたしが用意したパジャマをちゃんと着てくれていた。ボタンが全部外れてて前が全開だったけど。
「いつ帰ってくんの」
 数秒、間があいてからなんとか声を絞り出す。
「誰、が」
 宗太郎さんが肩にかけたタオルで髪の毛を拭きながら、ソファの前に回ってわたしの左隣に腰を下ろしたから、わたしは右横にずれた。
 二人の間、数十センチ。近いのか遠いのかわからない。本当はもっと離れたかったけどこれが限界だった。
「親とか」
 ガラスのテーブルを見た。この間右足の小指をぶつけて痛かった、凄く。
「お父さんは、多分今度の日曜日に、お金を持って来ると思います、けど」
「金って何」
「……生活費、です、けど」
 失敗したと思った。
 凄く失敗した。
「あんたの父親はなんで帰ってこないの」
 だからこの人は怖いんだ。
「どこかに別に部屋、借りてるから」
「なんで」
「……この家には、帰りたくない、みたいだから」
「なんで」
 まだ許してくれない。
「理由なんて、知らないです」
 本当はわかっているけど。
「母親は」
「宗太郎さんには関係ないです」
 思わず声が大きくなった。
 だって、どうしてここまで踏み込まれなければいけないの。
(神様、助けて)
 この人、凄く怖い。
 膝の上で重ねた両手をじっと見た。微かに震えてる。
 この場から逃げ出したかった。
 どこまでも追い詰めてくるこの人の傍から離れたかった。
 そうしないと本当に逃げ場がなくなりそうで怖かった。
「眼鏡」
 声が裏返りかけた。
 早く話題を変えないと。
「眼鏡、かけないんですか」
 手の震えがまだ治まらないからギュッて力を入れた。
「ああ、孝太郎みたいだから嫌なんだ」
 思わず宗太郎さんのほうを見てしまって。
(神様)
 本当に偉そうに脚を組んでソファの肘掛で頬杖をついてる宗太郎さんは、やっぱり睨むみたいにわたしを見ていた。
「元々一つだったのが二つに分かれたわけで、不本意だけど見た目は全く同じに形成されちまったのは事実だからな」
 目を逸らしたいのに動けない。
 怖くて痛くて嫌なのに、宗太郎さんの目に吸い寄せられてるみたいにじっと見つめ返すことしかできなかった。
「あいつもバカだよな。後先考えないからあんたみたいなのに付きまとわれるんだよ」
「わ、わたしは、別に」
 誰にも知られてはいけないのに。
 黒い瞳が、全てを知っていると言っているようで。
 早く逃げなければ壊れてしまうと思った。
「いいこと教えてやるよ」
 神くんと同じことを言った。
 宗太郎さんが一瞬唇の端を持ち上げて、それが初めて見た宗太郎さんの笑った顔だけど凄く嫌な笑いだと思った。意地悪で、何かを企んでるような顔で、絶対にいいことのわけがなかった。神くんはこんな顔はしないと思った。
「いらない」
 ちゃんとそう言ったのに宗太郎さんはわたしの言葉を無視して続けた。
「孝太郎は」
(やめて)
 耳をふさぎたくても握り締めた両手は動かなくて。
「ちゃんと好きな女がいる」
 音。
 遠くでガラスが割れるような、そんな微かな音が、どこかでした。
「だから、何」
 心が、麻痺してるから。
 まだ大丈夫。

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