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 一番嫌いなものだと彼は言った。


   06.きらいなひと - 01 -


 帰りは駅まで神くんが送ってくれた。
 じゃあね。また明日って神くんが初めて言ってくれた。バイバイって言えなかったら頭を下げて改札を通った。神くんを振り返ることもできなかった。
 頭と体が離れてる感じ。
 電車に揺られて、扉の近くに立って流れていく景色を見ていた。
(宗太郎)
 さっき知ったばかりの名前。
 あの人はとても怖い人だと思った。まるで凶器。
 近くにいたら絶対に傷つけられる。遠慮なんて知らない。どこまでも容赦なく追い詰めてくる。そういう人だと思った。
 わたしの一番苦手な種類の人間。
 だからわたしの絵を描いてくれた人とどうしても結びつかない。
 神くんが嘘を言ったとは思わないけど。

 その夜電話が鳴った。

 一階の廊下の片隅にひっそりと存在する、この家と外を繋ぐ唯一の手段。
 電話は好きじゃない。
 突然鳴って人を驚かすところとか。
 顔もわからない人とも繋ぐところとか。
 たまに変な電話がかかってくる。しつこいセールスの電話とか無言電話とか、ねえねえ今何してんの名前なんて言うのってなれなれしい男の人からの電話とか。
 九回目のコール音が鳴ったところで受話器を取った。
「はい、もし」
『勘違いするなよ』
 わたしがもしもしって言うよりも先に、なんの前置きもなく、突然。
『あいつが何言ったか知らないけど俺は一番嫌いなものを描いたんだ』
 ここまで切り込んでくる必要はあるの。
(一番嫌いなもの)
 刃物のような言葉で切りつけられて血を流す一方で、ああやっぱりって納得している自分がいた。
(神様)
 結局わたしは必要とされることのない人間なのです。
 右耳に押し付けられた受話器は残酷な言葉を届ける。
『あんたみたいなのを好きになる奴なんているわけない』
 たった一人でもよかった。一瞬でもよかった。夢を見るだけでもよかった。
 なのにそれすらも許されなかった。
(神様)
 指一本さえも動かせない。
 神くんとは違う声だけど、でもやっぱりどうしようもなく似てるから、余計に、痛い。
 痛くて、苦しい。
『孝太郎があんたに構うのも』
 最後の拠り所も。
『ただ単に同情してやってるだけ。惨めでかわいそうなあんたに』
 砂の城みたいに脆く、あっさりと壊される。
(神様)
 涙を堪える必要はなかった。
「神くんのお兄さん」
 声が震えないように、お兄さんって言って怒られたからそう呼んだのに。
「神くんのお兄さんは」
『うざい』
 一言。どうしていいのかわからなくて。
『普通に名前で呼べ』
 名前。名字だと神くんと同じだから、下の名前。宗太郎。
「宗太郎……さんは」
 また何か言われるかと思ったけど今度は大丈夫だった。
「宗太郎さんはずるいです」
 わたしは昨日言ったのに。
「わたしは宗太郎さんを嫌いになれません」
 体は動かないのに声はちゃんと出るのが不思議だった。
「あの絵にわたしは、救われたから」
 そこまで言ったら急に力が抜けて、慌てて受話器を置いてその場に座り込んだ。
 体中が震えていた。
(神様)
 わたしにはあなたしかいないのです。
(だから早く)
 ドンって突然玄関のほうから音がして、心臓一瞬絶対に止まった。
 ドンドンって。チャイムが壊れて音が出ないのを思い出した。
 誰。
 だってもう八時過ぎてる。
 ドンドンドン。
(神様)
 ドアを見た。鍵もチェーンもちゃんとかかってる。大丈夫。
 ドンドンドンドン。
 足に力を入れてなんとか立ち上がった瞬間、また突然電話が鳴ってまた座り込みそうになった。
『さっさと出ろ』
 またもしもしを言う前に一方的に言われて一方的に切られた。
 受話器を持ったまま静かになったドアにもう一度視線を向けた。
 服の袖で涙を拭いた。
 さっさと出ろって、まさか。
 信じられなかったけど恐る恐るチェーンを外して鍵を開けた途端、乱暴にドアが開けられて。
 何故かびしょ濡れで黒ずくめの男・宗太郎さん。
「タオル」
 わけがわからないまま洗面所にタオルを取りに行かされた。
(雨)
 降ってるんだ。結構強く。
 棚から綺麗なタオルを出して微かに聞こえる雨の音に耳を澄ました。
 玄関に戻ろうと向きを変えたら目の前に宗太郎さんがいた。
 びっくりした。
 人の家に勝手に上がらないで。
 宗太郎さんはわたしの横を通って黒縁眼鏡を外して洗面台に置いた。鏡越しに睨まれた。
 着ていた黒のパーカーを脱いで置いてあった水色のかごに放り込んだ宗太郎さんは、さらにその下の白いTシャツも脱いでしまった。
 心臓ギュッて掴まれた。
 上半身裸で、水が滴る髪とか体の線とか、凄く、綺麗。
 家族でもない男の人の裸をこんなに近くで見たのは初めてだから、おかしなくらい顔が熱くなっていく。
 どうしていきなり脱いでしまうんだろうこの人は。
 慌てて視線を逸らしたけど、凄い勢いで速くなっていく鼓動は止められない。
「風呂は」
 頭の上から声が降ってきた。
「え、あ、さっき入ったばっか、です、けど」
「そんなのは見ればわかる」
 宗太郎さんと同じように濡れたわたしの髪。
「風呂は沸いてるのかって訊いてんの」
 いつもはシャワーだけのことが多いけど今日は久しぶりにお湯に浸かりたくて、ちゃんと掃除もした。だから頷いた。
 頷いてから。
 あれ?
 さっき宗太郎さんから電話があって、酷いことを言われた。
 どうしてわたしの目の前に宗太郎さんがいるんだろう。神くんのお兄さん。
 ぼんやり考えていたら。
「そんなに人の裸見たいのあんた」
 言われて顔を上げたらズボンのジッパーに手をかけた宗太郎さんがわたしを見ていて。
「ご、ごめ、なさっ」
 びっくりしてタオルを落として洗面所を飛び出した。バタンッて大きな音を立ててドアが閉まった。

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