いつもと変わらない朝だった。
いつもと同じ時間の電車に乗って、いつもの通り八時五分に校門の前についた。
05.黒縁眼鏡 - 01 -
いつものように校門をくぐったら。
「坂口さん」
後ろから声が。体中に響く低い声。神くんの。
「はよ」
神くんが右横に並んで。
「あ、おはよ、う」
神くんが挨拶してくれたのが泣きたくなるほど嬉しくて、おかしいくらいに暴れ出した心臓に気をとられて、おはようって言って少ししてから変な感じがした。なんだろう。かゆいところがあるのに、どこがかゆいのかわからない感じ。でも神くんが声をかけてくれた。少しは近づけた?
「いつもこんな早いの」
それがわたしに向けられたものだとすぐに気がつかなくて。
「あ、うん。神くんも今日は早いね」
「なんとなく、そういう気分だったから」
びっくりした。神くんと話すのはいつまで経っても慣れないけど。本当は心臓とか凄いことになってるけど。多分普通に話してるように見える。はず。
靴箱、わたしは上から二番目で神くんはその下。
あ。
上履きを出そうと靴箱のふたを持ち上げた神くんの右手が。
(どうして)
違った。
神くんの手のはずなのに違って見えた。
「誰」
一瞬自分で何を言ったのかわからなかった。
その言葉を自分が発したということにもすぐに気がつかなかった。
「え?」
神くんがわたしのほうに顔を向けたのがわかった。
どうしよう。
(神様)
神くんに向かって誰、なんて。
変に思った。絶対。
「あ、ご、ごめん。今日の神くん、いつもと違う感じがして」
「……そう、かな」
「え、いや、わたしが変なんだね。あの、ごめん、なさい」
「ん、別に」
上履きに履き替えて、神くんと一緒に教室に行く。挨拶されて、それで神くんは先に行ってしまうものだと思っていたからこの状況は予定外。神くんにおはようって言われたこと自体予定外なんだけど。
ギュッて握った両手、汗かいてる。
「昨日の絵、どうした?」
階段を上ってる途中、神くんがまた話しかけてきた。
「えと、中学のときの卒業証書の筒がちょうどよくて、それに入れることにして。あの絵を見てるとね、嫌なこととかスッて消えていって、綺麗な気持ちになれるんだ。凄く幸せになれて、実物はこんなだけど、あんな風に描いてもらえて本当に嬉しかった」
また神くんに話しかけてもらえたのが嬉しくて、勢いで一気に言った。すぐに恥ずかしくなった。恥ずかしいついでに気になってたことも訊いてしまった。
「あの絵描いた人ってどんな人なのかなって思って。絵の裏に名前みたいなのが描いてあって、なんて読むのかわからないんだけど、宗教の宗って」
「そう」
廊下、二年二組の教室の前で神くんが立ち止まったからわたしも立ち止まる。
「そうって読むんだよ、それ」
神くんの視線を凄く感じた。自意識過剰だ。わたし。
「坂口さんはどんな奴だったらいい?」
「え?」
「例えば、そいつが坂口さんの嫌いなタイプの人間だったらどうする?」
どうするって。
「嫌いではいられない、かな。あんな絵描いてもらっちゃったら」
神くんがまた歩き出す。教室は今日も一番乗り。
自分の席に座って、ピカピカのこげ茶色の机を見て、少し落ち着いてきたら。
真後ろで机に伏せている神くんの存在を凄く意識してしまった。
さっき教室に入るときにちらっと見上げた神くんが、いつもと同じなのにやっぱり何かが違うような気がした。神くんの顔、横顔を少し見ただけだけど。
わたしはいつも神くんの顔よりも手を見ていて、もう一度神くんの手を見たら何かわかるかもしれないと思って、神くんに気づかれないように後ろを見ようとしたけど、図ったようなタイミングで人が入ってきたからわからないままで。手を見るだけなのに意識するとどうもうまくいかない。
結局そのまま放課後になってしまった。おまけに今度こそチャンスだと思った掃除の時間、今日に限って神くんは掃除をさぼった。
「はよ」
上履きに履き替えて靴をしまおうとしたら神くん登場。
「お、おはよ」
今日も早いんだ。今日も挨拶してくれた。今日も朝からドキドキ。
それから。
あ。
「元に戻った」
よかった。やっぱり昨日のわたしは変だったんだ。
「何が?」
「え?」
「元に戻ったって」
また声に出してしまったみたいだった。
「や、あの、神くんが。昨日はいつもと違う感じだったから」
「……昨日の俺、そんなに変だった?」
「あ、神くんじゃなくてわたしが変だったんだね。実は神くんのふりをした宇宙人かもしれないとか、ちょっと本気で考えちゃったりして」
「あははっ、宇宙人」
思わず見てしまった。笑ってる神くんを。不意打ち。
だから、その笑顔は凶悪すぎる。
神くんは普段はあまり笑わない人みたいだから余計、心臓にくる。
最近一番怖いのは幸せすぎること。
嬉しいことがいっぱいあって。でも、いいことがあったらその次には悪いことがありそうで。そんなことを考えていたら。
「ん、でも宇宙人も間違いじゃないかも」
なんて神くんが急に真面目な口調で言うから。
「え」
本気で驚いて。
「く、あははははっ」
とても怖かった。
神くんが。神くんが。わたしの中が神くんでいっぱいになる。
(神様)
どうしよう。
(どうしよう)
もう戻れないところまで来てしまったことを知った。
「坂口さん」
神くんがわたしを見ている。わたしはこれからどうしたらいいのですか。
「今日放課後、暇?」
「放課後は、掃除が」
「掃除の後は?」
「別に何もない、けど」
「ちょっとつきあってほしいところがあるんだけど、いい?」
「え、あ、どこに」
「それは秘密」
心臓が、うるさい。
同じクラスの男の子と一緒に電車に乗るなんて、まるで夢みたいな状況。
降りたのは学校から三つ目の駅、わたしがいつも降りる駅の二つ手前だった。
歩いている間ずっと神くんの背中を見ていた。神くんはいつもわたしの背中を見ているんだと思ったら、顔が熱くなった。
わたしが住んでるところと似たような住宅地の中の二階建てのアパートの前で、神くんが立ち止まった。古いけど結構しっかりした感じのアパート。
石段を上って、一階の一番奥の部屋。神くんが言った。
「ここで一応、一人暮らしみたいなもんしてる」
「あ、そうなんだ。あ、一緒だ。わたしもほとんど一人暮らしで」
「え?」
「あの、お父さんとか、仕事でほとんどいないから」
「へえ」
緊張していて、本当にどうでもいい余計なことを言ってしまってから。
あれ。
一人暮らしって誰が。神くんが。つまり神くんの住んでるところ。
「神くん」
ドアのノブに手をかけた神くんを慌てて止めた。
「あの、なんでわたし、神くんのうちに」
神くんが少し考えるみたいにして頭をかいた。
「ん、とにかくすっげえわがままなバカがいて、一旦言い出したら人の言うことをなかなか聞かない奴で。俺も甘やかしすぎなんだけど」
答えになってない説明をして、神くんがドアを開けた瞬間。
「遅い」
中から声が。男の人の声で。
(知ってる)
体の中がずっとザワザワしてる。
「坂口さん、とりあえず上がって」
神くんがわたしを振り返って、ドアを開けたまま横にずれた。
言われるままに中に入って顔を上げたら、目の前、一段高いところに灰色のシャツに、黒いズボンの男の人が立っていて。
あれ。
黒縁眼鏡をかけた神くんが、そこにいた。
あれ?
神くんは、わたしの後ろにいる。
わたしの目の前にも、神くんが。
「そいつ、俺の双子の兄貴、です」
後ろにいる神くんが言った。
目の前にいる神くん、のお兄さんが、なんだかとても不機嫌そうな顔でわたしを見て、くるりと背中を向けて奥のふすまのほうに歩き出した。
お兄さん。神くんの双子のお兄さんって。
「……あ、びっくり、した」
ふすまを開けようとしていた神くんのお兄さんが、ギロッて感じでわたしのほうを見て、ふすまを乱暴に開けて、乱暴に閉めた。
頭が、現実に追いついてない。