「坂口さん」
動けないままその場に立ち尽くしていたら、さっきまで離れたところにいた神くんがわたしの前まで来てそう言った。
そのうち心臓がもたなくなると思った。
04.すきなひと - 03 -
「ちょっといい? 見せたいものがあるんだけど」
見せたいもの。神くんがわたしに。
「え、何」
「来ればわかるから」
え? え?
神くんが歩き出すからわたしはよくわからないまま神くんの後をついていった。
血が、全身をもの凄い速さで駆け巡っている。
廊下を歩いて、さっき通った渡り廊下の反対側にある渡り廊下を通って、また北校舎。
階段を上って三階、美術室に神くんが入っていくからわたしもそれについていく。
誰もいなかった。
「ちょっと待ってて」
そう言って神くんは準備室に入っていってしまった。先生もいないみたいだった。
準備室のほうから引き出しか何かを開けるような音と、紙が擦れ合うような音がした。
心臓のドキドキ、ずっと止まらない。
神くんが右手に画用紙を持って出てきた。神くんに手招きされて窓側の一番前の机のほうへ、なかなか動こうとしてくれない足を動かす。
「これ、前に話したやつ」
神くんが横長の画用紙を机の上に置いた。
あ。
心臓を掴まれた。
青が、目に飛び込んできて、淡い青。
(わたし)
画用紙の真ん中、不思議な青い背景の絵の中にあったのは、見慣れたわたしの顔。
絵の中のわたしは自分の裸の肩を抱き締めていた。
(海の中のイメージ)
前に神くんが言ってたのを思い出した。本当だったんだ。
長い髪が水の中を漂っているみたいに広がっていて、本当に海の中にいるみたいで、でもその中に完全に溶け合ってしまってもいなかった。
きつく結ばれた唇に、何よりも惹きつけられたのは真っ直ぐ前を見据えた瞳。
真っ黒な瞳は、よく見ると深い青をしていた。
吸い込まれるかと思った。あまりにも深すぎる海の色をしたその瞳に。
だから。
ここに描かれているのはわたしではないと思った。
(これはだれ)
きっとどんなことからも逃げないで、真正面から向かって受け入れられるような、そんな強さを持った目がじっとわたしを見ていた。
(違う)
ある瞬間に、海の色の瞳が持っているのは強さだけではないのだと知った。海の色は哀しみの色でもあるから。
この絵のわたしも泣いている。
その瞳は救いも求めていた。強さと同時に弱さも秘めていた。
(神様)
この絵の中の女の子はわたしではないけれど、わたしでもあったのです。
描かれた唇に触れる。
触れた指先から、何かが流れ込んできた気がした。
温かくて冷たくて、痛いけれど心地いい。
胸を、体の真ん中、一番奥にあるものを揺さぶられた。
心を。全身を。
溢れそうになってくるこの涙は流してもいい涙なのですか。
「この絵を見ると」
神くんの声が空気を伝わりわたしの鼓膜を振動させた。
「変かもしれないけど、泣きたくなる」
「うん」
神くんも一緒だった。
わたしも泣いてしまいそうです。
「神くん」
「ん?」
「本当に、嬉しい」
嬉しいが溢れてくる。
「だって、こんな凄い、誰かの心を動かせるような絵を描ける人が、本心はわからないけど、一番好きなものにわたしを描いてくれた。凄く嬉しくて、凄く幸せ」
神くんが今まで見ていたその絵を手に取った。クルクルと器用に丸めて筒状にして、いつの間にか持っていた輪ゴムで留めた。
「はい」
差し出されたその意味がわからなくて、少し間があいてしまってから。
「あの」
「坂口さんが持ってて。先生にはもう言ってあるから」
「え、でも」
「頼まれたから。これ描いた奴に、坂口さんに渡してくれって」
「……なんで?」
「いや、俺に訊かれても」
「あ、ご、ごめん」
差し出された画用紙を見つめて、やっぱり嬉しかったから。
「ありがとう」
神くんに言うのはちょっと違ったかなって思ったけど。
「ん、あいつにちゃんと伝えとく」
宝物が一つ増えた。
わたしの家は、築数十年の小さな一戸建て。
リュックのポケットから勾玉のキーホルダーのついた鍵を取り出す。
ドアを開けて家に入った瞬間の埃っぽい感じが好き。安心する。
ここはわたしの居場所なのです。
誰にも邪魔されない、わたしだけの、唯一の。
家に帰ったらすぐに鍵を閉めてチェーンもかける。そうしないと怖い。
途中で曲がった階段を上ってつきあたりがわたしの部屋。
リュックはベッドの上に放り投げて、わたしもベッドの上に寝転がる。嬉しすぎて顔が緩んでしまうからしばらく布団に顔を埋めて、それから横になったまま肘を突いて、左手に持っていた丸めた画用紙の輪ゴムを外した。
丸まっていたから広げようとしてもすぐに元に戻りそうになって、ちょっと大変。やっぱり起き上がる。
(幸せ)
幸せってきっとこんな感じ。
温かい。
なんとなく画用紙を裏返してみたら右下のほうに、宗って一文字、小さく書いてあった。鉛筆で。
これって名前? なんて読むんだろう。しゅう、そう、たかしとか。
そう思ったら急に。突然。今までわかっていたつもりでわかっていなかった現実が。
本当に、いたんだ。
わたしを描いた人。
心臓が暴れ出す。
嘘でも冗談でも、一番好きなものを描くときにわたしのことを考えてくれた人が、いる。それでこんなに凄い絵を描いてくれた人が。本当に。
この家にはわたししかいないから、泣いてもいい。
悔しかったり悲しかったりして一人で泣くのは本当は少し辛いけど。
今日は嬉しくて泣く。
(神様)
わたしはまだ救われないのですか。