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 ただでさえ速かった鼓動がもっと速くなった。


   02. ナイフと視線 - 03 -


 わたし、何かした? 一年のとき、目立つことなんてしてないはず。した覚えはない。
 自分の知らないところで誰かが自分のことを知っている。それって凄く嫌だ。それって凄く怖い。
 何か変なところを見られたのかもしれない。
 どうしよう。
(神様)
 神くんもそれを知っていて。
「坂口さんが、と言うよりも、坂口さんの絵が有名だったんだけど」
 絵。
 わたしは確かに芸術で美術を選択しているけど、成績は十段階で七をもらえればいいほうで、とてもじゃないけど絵はうまいとは言えない。一年のときに描いた絵も、あまり思い出したくないような出来で。
 もしかして下手すぎて有名だとか?
 先生、わたしの描いた絵、勝手に人に見せちゃったんですか? そうだったら酷すぎる。恨むよ、先生。
「美術の時間に出た課題で」
 嘘、どんな絵?
 神くんの言葉に、思わず振り返ってしまった。頬杖をついた神くんの真っ黒な瞳とぶつかってしまった。
「あ、やっとこっち向いた」
 慌てて視線逸らしたけど遅くて、仕方なくそのまま体を廊下のほうに向けて横向きに座った。両手は握り拳を作って膝の上に置いた。わたしは握り拳を見たまま緊張しながら神くんの話を聞いた。
「三学期の終わりくらいに」
 三学期の終わりってなんの絵を描いたっけ?
 ちょっと前のことなのに覚えてない。思い出せない。
「自分の一番好きなもの描きましょうって」
 あれ? そんな課題、出されたっけ?
「あの、それ、どんな絵」
 訊くの怖かったけど、訊いた。
「水彩画で、海の中のイメージで、青を基調とした絵」
「それ、わたしじゃないです」
 よかった。神くんの勘違いだ。
「わたし、そんな絵描いてない」
「あ」
 神くんが声を漏らした途端、頬杖をついてた手を立てたまま、勢いよく俯いた。
 わけがわからないまま、神くんを見た。
 あれ。
 なんか肩が小刻みに震えてる気が。
 これってもしかして。
「……くっ」
 もう我慢できないって感じで、神くん。
「あはははははっ」
 いきなり弾けたように笑い出すから。
 神くんは寡黙な人だと勝手に思い込んでいたわたしは、傍から見たらきっともの凄く間抜けな顔でそれを見た。
 左手で髪をかき上げながら顔を上げた神くん、まだちょっと笑ってて、目を少し細めた感じが。
 やばいって思った。
 凶悪だ。
 ずるすぎる。
 芽が出るどころか、一気に花が咲きそうになった。
「ごめんごめん、違う。坂口さんが描いた絵じゃなくて、坂口さんを描いた絵」
 あ。
 勘違いはわたしのほうなのね。
 うあ、こういうのって、恥ずかしすぎる。
「な、なんだ、びっくりした。先生が下手の見本で勝手にわたしの絵、見せたのかと思っ」
 心臓が、止まりかけた。
 聞き違い、かな。
「わたしを描いた絵って、え、あれ、なんでわたし」
 だってさっき神くんは。
「自分の一番好きなものを描けって言われて、坂口伊織って題で坂口さんの絵、描いた奴がいて、もちろん男なんだけど、そいつがまた美大目指すほど絵がうまい奴でさ。さすがに名前は出せませんが」
 絶対嘘だと思った。嘘じゃなきゃおかしい。
「そういう冗談、嬉しくないから、わたしは。言うなら他の人に」
「先生に言えば見せてもらえるよ、その絵」
「あ、じゃあその絵描いた人、受け狙いで描いたんだ。嫌だな、ホントに。困るな」
 馬鹿みたいだった。
 両手、震えるくらいきつく握った。そうしないと泣いてしまいそうで怖かった。 神くんもわたしの絵を見て笑ったのかもしれない。今、こうやって話してくれている間も、心の中では何を考えているのわからない。それなのに嬉しいって思って、わたし凄く馬鹿みたいだ。
「坂口さん」
 神くんの声、凄く好きだけど今は聞きたくなかった。
「その絵、そいつは結局断ったけど、先生がコンクールに出せって熱心に勧めるくらいの絵で、冗談や受け狙いで描けるようなものじゃないし、俺も」
 神くんの言葉、遮るみたいに後ろの戸が開いて、眼鏡をかけた男の子が一人、入ってきた。多分同じクラスの、知らない人だった。わたしは慌てて前を向いた。
 神くんは立ち上がって、わたしの横を通って教室から出て行った。
 まだ自分の鼓動が聞こえてる。
 神くんが言ったことは本当? わたしのこと、一番好きだって言う人が本当にいるの?
 嘘。
 酸素。酸素が足りないのです。
 胸と背中を締め付けられているみたい。
 顔が熱くて。凄く熱くて自分の顔じゃないみたいだった。
 今の三年生の中でわたしが知っている人は多分一人もいない。でもわたしのことを知っていて、わたしを見ていた人が本当にいたの?
 考えてみたけどやっぱり信じられなかった。信じるにはあまりにも現実からかけ離れすぎていた。
 気がついたら話し声とかたくさん聞こえてきていた。
 夢みたいな時間はとっくに終わっていて、そう思ったら本当に夢を見ていたのかもしれないと思って怖くなった。凄く。
 リュックからベージュ色のペンケースを取り出した。シャーペンと、昨日新しく買った消しゴムと、もう一つの消しゴムをその中から出した。消しゴムの角、一箇所丸まって黒ずんだままだったから、昨日のことは夢じゃないとわかったから、嬉しかった。
 消しゴム、両手でそっと包んだ。
 わたしの宝物。

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