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うつせみ 14
真っ黒な服。抹香のにおい。
読経に交じるすすり泣く声、囁く声、泣き叫ぶ声。
遺影の中の千尋だけが幸せそうに笑っていた。
動かなくなった体が不思議だった。
動かなくなった体は骨だけになった。火葬って残酷だって、遠くで思った。二度。
声を殺して泣いた。
神くんがわたしの背中をさすってくれた。
声を上げて泣いた。
宗太郎さんがわたしの手を握ってくれた。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃの感触が気持ち悪かった。
遠いのか近いのかわからない現実を皮膚で感じた。
重い瞼を持ち上げたら、神くんの顔が目の前にあった。
「はよ」
「お、はよ」
びっくりして一気に目が覚めた。
起き上がろうとしたら神くんが手を貸してくれた。体中重くてたまらないのに、心臓だけは勝手に跳ね上がる。
「顔、洗ってくれば」
洗面所にいたらしい宗太郎さんが、眼鏡を片手に濡れた顔をタオルで拭きながら戻ってきた。
眼鏡を外した宗太郎さんは神くんと本当に同じ顔で当たり前なのに変な感じがする。宗太郎さんの眼鏡がない顔を見慣れていないからかな。
それから眼鏡をかけた神くんを想像したせいで返事をするのが遅れた。
「う、ん。あの、お、お手洗いも、借りて」
「うちのものはなんでもご自由にどうぞ」
トイレに行きたいって言うの、恥ずかしいけど勝手に使うのもなんだかやりにくい。
ベッドから降りて、神くんから借りたタオルを持って洗面所へ向かう。
鏡に映った瞼を腫らしたわたしと目が合った。涙と鼻水の跡も残っていて、こんなに酷い顔を二人に見られた恥ずかしさも振り払いたくて何度も水で流した。
昨夜使った歯ブラシがそのままあったから歯を磨いた。宗太郎さんがわたしの髪をとかすときに使ったくしも置いてあって、勝手に使っていいのか迷ったけどさっきの神くんの言葉を思い出して、借りてぼさぼさで寝癖だらけの髪を直した。直りきらなかった。
頭も体も重いことに変わりはなかったけど少しすっきりした。
トイレを借りて、洗面所を出たらエプロンをした神くんが台所で何かを作っていた。
「朝ごはん、オムライス作るから待ってて」
言われて、昨日あんなに食べたのにすっかりおなかが空いている自分に気づいた。
部屋に戻ったら寝るときに片づけられたテーブルが出ていたからいつもの場所に座る。テーブルの右側には宗太郎さんが座っていて目が合った。すぐに逸らした視線をテーブルに向けた。
宗太郎さんの視線は逸れていない気がする。ちりちりと気のせいかもしれない視線を感じ続ける。
そういえば宗太郎さんにおはようってまだ言ってなかった。
「おは、よう」
返事はすぐには返ってこなかった。言うタイミング間違えた。
「……おはよう」
ごめんって言おうとして口を開いて、「ご」が声になるよりも少し早く、宗太郎さんの声。
神くんのふりをした宗太郎さん以外のおはようを聞くの、もしかしたら初めてかもしれない。
宗太郎さんのおはようの記憶がどこかにないか探している間に、台所からいいにおい。
オムライスはもうすぐできるのかな。もう、誕生日は終わったからお皿を運ぶくらいは手伝おうと思って顔を上げた。
「もういいの」
宗太郎さんの言葉を、どうやったら一度でわかるようになるんだろう。
「何、が?」
「泣くの」
ずくずく痛むところがあって、でもそれがどこかはわからなくて嫌な感じ。
せっかく顔を洗ってすっきりしたのに。涙、止まったのに。
泣き疲れて眠ってしまうまでずっと二人の体温を感じていた。だから、二人ともちゃんと寝られなかったはず。わたしのせいで。
たくさん迷惑をかけてしまったのに、傷を平気で抉ってくる宗太郎さんに腹が立つ。
「よく、ない」
無理矢理、気を逸らしていたのに。考えないようにしていたのに。
夜が明けても目が覚めても、神くんと宗太郎さんがいてくれても、わたしはまだ穴に落ちたままだった。
「お待たせ」
涙よりも先に神くんの声が落ちてきた。結局、何も手伝えなかった。
目の前に置かれたオムライスを見たら、ケチャップで笑顔のマークが描いてあった。
そのまま神くんに視線を向けたらやっぱりやさしい笑顔があって、目に溜まった涙はあっという間に許容量を超えてしまう。
「ごめ――」
「我慢しなくていい」
やさしい声に言われて、それでも我慢するのは無理だった。
「千尋」
「ん?」
「千尋、好きな人が、いたの」
パパとママには内緒ねって、わたしには特別に教えてくれた。
「卒業するまでに、絶対告白するんだって」
太陽みたいな千尋。
「千尋には、泣いてくれる人がたくさんいたのに」
必死に泣くのを堪えて、でも涙を溢れさせて声を上げて泣いた男の子の横顔。思い出して息が詰まった。
「他にも、したいことたくさんあったはずなのに、楽しいことたくさん待ってたはずなのに、千尋はもう何もできない。ママだって、旅行、凄く楽しみにしてたのに……っ」
酷い。酷い。当たり前に続いてくはずだったのに。こんなのおかしい。
帰ってきてよ千尋。そうしたらママも帰ってきて、パパも帰ってくる。今まで通り。何もおかしいことなんてない。
「こんなの、もうやだ……っ」
悲しい悔しい苦しい寂しい。
わたしには家族がいた。家に帰ったら無条件でわたしを受け入れてくれる人たちがいた。わたしには、家族しかいなかった。だから、誰よりも大切で、誰よりも幸せでいてほしかった。ずっと。
神くんに肩を抱き寄せられた。右手は宗太郎さんの左手と繋がった。
昨夜も今も、言葉はなかった。二人はただ、体温を伝えてくれた。
神くんに寄りかかって、宗太郎さんの手を強く握りしめた。
穴に落ちたままなのにわたしは幸せで、苦しい。
神くんが作ってくれたオムライスがあったから、ずっと泣かないで済んだ。
もう一度顔を洗った。
すっかり冷めてしまったオムライスはそれでもおいしかった。
洗面所をまた借りて、パジャマから制服に着替えた。起きたときにすぐに着替えればよかったって思った。
部屋に戻ったら神くんと宗太郎さんも着替え終わっていた。二人とも、シンプルなTシャツとジーンズなのに眩しくて直視できなかった。
「あの、ありがとう。色々と、本当に」
誕生日を祝ってくれて、家に泊めてくれて、傍にいてくれて、いくらお礼を言っても言い足りない。神くんが立ち上がって、入り口のところに立ったままのわたし前に来る。
「もう、帰る?」
頷こうとしたら、神くんの右手の親指が、わたしの左の瞼に触れて思わず両目を閉じた。神くんが触れるところに熱が集まる。
「腫れてる、かな」
「ん、ちょっと」
指が瞼を何度かなぞって離れた。目を開ける。
やさしく微笑む神くんがそこにいて、いつの間にか宗太郎さんも神くんの横に立っていた。
「送ってく」
宗太郎さんの言葉に首を横に振る。
「ありがとう。でも、大丈夫」
(帰りたくない)
出てきそうになる言葉を必死にのみ込む。
この部屋を出たら終わる。夢みたいな時間。
この部屋を出たらわたしはまたひとりで、神くんと宗太郎さんの体温を感じながら泣くことももうできなくて、でも、それがわたしの現実。
「それじゃあ」
入り口の横に置いていたリュックを持ち上げる。
夢みたいな時間が終わっても残るものをたくさんもらった。だから大丈夫。
玄関で靴を履いている間、心臓が嫌なふうに速く動くのを感じた。
いつもより時間をかけて靴を履いて、もう一度二人のほうを向く。
「本当に、お世話になりました」
頭を下げたら涙も落ちそうになったけど我慢できた。
「迷惑、いっぱいかけちゃったけど本当にありがとう。今年の誕生日は一生忘れない。もらったものもずっと大事にする」
頭を下げたまま一気に吐き出した言葉は途中で震えた。
「バイバイ」
顔は上げられないまま二人に背を向ける。これで終わり。全部終わり。
ドアノブに手をかけて、息を吸って、吐いて。
ドアを開けて熱気を感じて足が竦んだ。遠かった蝉の声が鼓膜に刺さる。
一歩、進んで振り返ってもう一度お礼を言わないといけないのに、後ろで乱暴にドアを閉めて熱い空気を吸い込んでそこから離れる。
アパートの通路を早足で通って石段を三つ下りて青すぎる空の下。強烈な日差しとアスファルトの間で、暑い。熱い。
暑さで空気と体の境がわからなくなる。
眩しすぎる視界がつらくて目を細めた。
帰らないと。誰もいないあの家に。わたしの居場所。
右足を前へ。人通りのない道を数歩進む間に視界が滲んで、もう駄目だった。
それ以上進めなくて下を向いて足元の濃い影に涙を落とした。吐き出す息に声が混じりそうになって空を仰いだ。
大丈夫だって言ったのに全然、大丈夫じゃない。神くんと宗太郎さんがいないと駄目なんだ。
どうしよう。もう二人はいないのに。これから家に帰らないといけないのに。
(でも、戻ったら会える)
選んだらいけない選択肢が目の前にある。選んじゃ駄目なのに、それしか見えなくなる。
大丈夫って言ったのに泣きながら戻ったら呆れられるかもしれない。でも会える。手を伸ばしたら、掴んでもらえる。
前に進もうとしても地面から離れなかった足が動いて後ろへ一歩。その勢いでぐるりと向きを変えてもう一歩。今度は前へ、神くんと宗太郎さんがいるほうへ。
来たばかりの道を戻ってあっという間に神くんの部屋の前。
ほんの少し迷った右手がノックしたドアはすぐに開いた。次の瞬間には腕を掴まれて中に引っ張り込まれた。
わたしの目の前に、神くんと宗太郎さんが立っていた。さっき別れたときと同じように。
二人とも、まるでわたしがすぐに戻ってくるってわかってたみたいに、そこにいた。
わたしの腕を掴んでいた神くんの手が離れる。
「戻ってきてくれて、嬉しい」
汗と涙でぐちゃぐちゃのわたしとは正反対に、きれいな笑みを浮かべた神くんが言った。
宗太郎さんは怒ったような顔をしているけど、多分そんなに怒っているわけじゃない。
期待した通り、当たり前のように神くんと宗太郎さんはわたしを受け入れてくれた。
「ごめん。大丈夫じゃ、なかった」
「見ればわかる」
宗太郎さんの声はやっぱりどこかやさしく聞こえて、今両手を伸ばしたら抱き締めてもらえるんだろうなって、思って、思った自分が怖くなった。
「俺たち、今日も一日空いてるからまだ一緒にいられる。だから、もっと一緒にいたい」
なんで、さっきわたしが帰るって言ったときには言わなかったこと、このタイミングで言うの。
さっきそう言われたら、わたしは帰らなかった。帰れなかった。こんなふうに、泣きながら戻ってこなくてすんだのに。
嬉しい気持ちが大きすぎて破裂しそうになったから、神くんに八つ当たりした。八つ当たりしたけど燃えていないか心配になるくらい熱い顔はもうどうにもならなかった。
わたしも。
(もっと一緒にいたい)
「ごめん」
あれ。
口から出てきた言葉が、思っていたことと全然違ったからびっくりした。
ごめんって、口癖みたいにいつも言ってしまうけど今はそういうタイミングじゃ全然なくて、今ごめんなんて言ったらまるで。
「わたし」
宗太郎さんの眉間の皺が深くなって、神くんの顔から笑みが消えて、二人はわたしが言おうとしていることがわたしよりも先にわかったみたいだった。
「神くんと宗太郎さんと、もう、一緒にいられない」
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