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うつせみ 15
言った瞬間、宗太郎さんの腕が伸びてきて、思わず肩を竦めたわたしの横を通り過ぎてがちゃり。
ドアの鍵を閉める音がやけに重く響いた。
うん、わかったって、そのまま帰されなかったことにどこかほっとしてしまった自分が嫌で、唇を噛んだ。
「それで」
神くんの静かな声。
「ひとりで大丈夫じゃなかった坂口さんは、それを言いに戻ってきたの?」
恐る恐る見上げた顔には、いつも通りの笑みがまた浮かんでいた。
「そんな、つもりじゃ、なくて」
「じゃあどのつもりで言ったわけ」
宗太郎さんの眉間の皺は深いままだった。
(もう一緒にいられない)
自分で口にした言葉を、もう一度繰り返す。
「なんで、わたし」
二人と一緒にいたいから戻ってきたのに。今、言うつもりなんて全然なかったのに。
「だから、それを訊いてる」
神くんも怒ってるんだってその声でやっと気づいた。
二人とも、たくさんのものをわたしにくれた。わたしはそれを受け取って、何一つ返さないままいきなりもう一緒にいられないって言って、これで怒らないほうがおかしいって思ったから、ごめんって、反射的に謝りそうになったのを飲み込んで二人に伝える言葉を探す。
答えなきゃ。答えないと。
焦れば焦るほど見つからなくなる言葉を必死に探して、いつの間にかスカートをきつく握り締めていた両手を一度開いて握り拳をつくった。
「い、いつか、二人が離れていく日が来るから、だから、そうなる前に、わたしから、離れようって、思って」
「なんで俺たちが離れていくの」
情けなく震えたわたしの声とは違って神くんの声はいつもと変わらずわたしの耳に気持ちよく響いた。でも今はそれが少し、怖かった。
「神くんも宗太郎さんも、いつか、わ、わたしのことが嫌になる。わたしじゃない人、を、好きになる」
二人の気持ち、たくさんもらったから今は違うの、わかる。でも、それは今だけ。明日にはなくなるかもしれない。
「あんたのそのくだらない思い込みに付き合う気はない」
くだらなくないって、言い返せなかった。その通りだから。
「そもそもなんでこのタイミングでそうなるの」
神くんはもしかしたら呆れているのかもしれない。昨日からずっと一緒にいて、神くんも宗太郎さんも逃げ場がないくらい、気持ちを伝えてくれたばかりのタイミングでこんなこと。
わたしだってこんなタイミングで言うつもりなんてなかった。いつかはいつかで、できない覚悟で言えるはずがなかった。
でも、このタイミングだから言ってしまった。
「これ以上、一緒にいたらもう駄目だって、思ったから」
そうだ。このままだと駄目だって思ったんだ。
「神くんと宗太郎さんと一緒にいると、幸せすぎて」
一生分の幸せを使い切ってしまったのかと不安になるくらい幸せで。
「このままだと、わたし、二人がいなくなったら生きていけなくなっちゃう」
返ってきたのは沈黙。
顔に、熱が集まる。わたし、凄く恥ずかしいことを言った。二人の足元に落ちたままだった視線を自分のほうに引き寄せてから、目をぎゅっと閉じた。
「もう、遅い」
「あんたはもう、俺たちがいないと生きていけないだろ」
神くんが、ぼそりと呟いて、宗太郎さんが続ける。
違うなんて、言えない。
「でも、だから、本当に、戻れなくなる前に」
「坂口さんはその程度なの」
左耳に何かが触れて目を開けた。
「宗太郎も俺ももう坂口さんがいないときには戻れないのに、坂口さんは戻れるんだ」
凄いこと、言われた。多分。聞き間違いじゃなかったら。
視界の左側、わたしに触れる手から腕を辿って、神くんの笑顔。そんなわけないって、わかってる笑顔。
「戻れ、ない。でも、戻らないと」
神くんの指に拭われて、また涙が勝手に出ていたことに気づいた。
右足が後ろに下がったけどすぐにリュックがドアにぶつかって、中に大切なものがたくさん入っているから慌ててドアから離した。神くんの手も離れた。離れていく。二人ともいつか絶対に。そうじゃないといけない。
ずっと一緒にいたら、いつか。
(駄目)
そっちは駄目。そっちはもうやだ。
頭は考えるのをやめようとしたのに涙が一気に溢れて、止まらなくて、止められない。
「わたしにとって、神くんと宗太郎さんは神様みたいな人で」
嫌だ。やめて。これ以上何も言いたくないのに、何も考えたくないのに。
「でも、二人とも神様じゃなかった」
落ちた穴、そこで終わりじゃなかった。
終わりじゃないんだ。
「神様じゃないから、ずっと一緒にいたら二人もいつか、死んじゃう」
言葉と一緒に吐き出した息をうまく吸えなかった。
見上げた二人の顔は涙が邪魔でよく見えなかった。
「わたし、神くんと宗太郎さんが死んじゃったら、どうすればいいの」
ママと千尋のこと、二人がいなかったら今も逃げ続けていた。
二人がいてくれても、こんなに苦しくて、だったら、神くんと宗太郎さんのときは。
「俺たちにはどうにもできない。今もそうだから」
やさしい言葉、どこかで期待していたけど、夢を見すぎているわたしに現実を突きつけるように宗太郎さんの声は容赦がなかった。
でもその通りだった。どれだけ神くんと宗太郎さんに甘えても寄りかかっても、この気持ちは結局、わたしが自分でどうにかするしかない。
「だから、もう、一緒にいられない」
だって、どうにかなんてできない。
「だからなんでそうなるわけ」
苛立ちを隠さない宗太郎さんに肩がびくりと震える。
「坂口さんは、俺たちと一緒にいることを選んだんじゃなかったの?」
そう。罪悪感を見ないふりをして、二人の手をとってしまった。どうせいつか離れていく人たちだから、それまでは自分から手を離したくなかった。離せないと思っていた。
「だって、一緒にいたら」
「わかった」
わたしのぐずぐずの声を、神くんの、いつもより鋭い声が遮った。
「俺たちは坂口さんの知らないところで坂口さんの知らない人と幸せになって坂口さんの知らないところで死ぬ」
神くんが凄く怖いことを言ったのはすぐにわかった。
「それで満足?」
涙がはらはら落ちていく。もう二人と一緒にいられないということは、つまりそういうこと。
わたしの人生から神くんと宗太郎さんがいなくなる。神くんと宗太郎さんの人生から、わたしがいなくなる。
そのほうが、ずっと、二人はどこかで生きてるって思えるのに、二人が死んじゃったらって考えるのと同じくらい、怖い。
「や、だ、いや、そんなの」
「だったらあんたはどうしたいの」
一緒にいるのも離れるの怖い。自分でも滅茶苦茶なこと言ってるって思う。
本当はわかってる。わかってるよ。一緒にいるか、離れるか。そんなの、考えなくてもわかる。
罪悪感なんて見ないふりをするくらい、離れたくなかった。
死んでしまう日のことを考えて耐えられなくなるくらい、ずっと一緒にいたかった。
「坂口さん、今度こそ、ちゃんと選んで」
耳の奥でじんじん響いた神くんの声は、穏やかなのに怖かった。
選ぶ。嫌なこと、見ないようにして、怖いことから逃げて、そうやって選ぶんじゃなくて、今度こそ。
(ちゃんと、選ぶ)
もう、誰にも、自分にも言い訳できないように。
覚悟、できないじゃなくて、しなくちゃいけないんだ。離れる覚悟じゃなくて、二人と一緒にいる覚悟。
わたしだけが、覚悟できてない。
涙を拭ってすぐに足元に落ちてしまう視線を無理やり上に向けたけど、神くんを見て、宗太郎さんを見て、それからどこを見ればいいのかわからなくなって結局また二人の足元に戻る。
「わたし、は」
二人と一緒にいたい。離れたくない。
だから、言う。今。
言ったら駄目だってずっと思っていた。とっくに知られているからとか、恥ずかしいとか怖いとか、いろんな言い訳を重ねて、言えるわけないって思い込んでいた。
言ったら本当に逃げられなくなる。でも、それでいいんだ。
「好き」
ずっと二人に伝えられなかった、伝えないといけなかったたった二つの音は、思ったよりも簡単に出た。
ずっと、伝えたかった。
「神くんと宗太郎さんのことが、好き。好きです。だから、怖くても苦しくても、ずっと一緒にいたい。神くんと宗太郎さんの人生から、わたしがいなくなるの嫌だ。好きだけじゃ、全然足りなくて、神くんと宗太郎さんのこと、全部欲しい」
言葉が、気持ちが、溢れて、一生音にならないはずだった言葉が空気を震わせて、二人に伝わる。伝わって、しまった。
血の流れが滅茶苦茶になってしまったみたいに、頭がらぐらした。
足元、玄関の三和土が急にふにゃふにゃになった。でもそんなことあるわけなくて、ふにゃふにゃになったのはわたしの足で、力、うまく入らない。
どうやって息してたっけ。どうやって立ってたっけ。
全部、わからなくなって、体の中、熱いのと冷たいのでぐちゃぐちゃになって、気づいたら見上げていた。二人の顔。
神くんの顔に笑顔はなかった。宗太郎さんの眉間に皺は寄ってなかった。
ただ、じっとわたしを見ていた。
声、ちゃんと出てなかったのかな。伝わらなかったのかな。
今の、なかったことなるの、嫌だ。
爪が食い込んで痛いくらい握り締めていた両手を開いて、二人に伸ばした。震えるのはどうにもならなかったけど、それでもの伸ばした。
右手は神くんに、左手は宗太郎さんに。
二人の手首に、指先だけ触れる。
息、ちゃんとできてる。ちゃんと、立ってる。
ぐらぐらする頭をどうにかしたくて目をきつく閉じた。指先が燃える。息を吸って、もう一度。わたしはもうちゃんと、伝えられる。
「好き、です。大好きです。ずっと、傍にいて、ください」
両手の指先から熱が離れて目を開けた。伸ばしたままの両手は、下ろす前に熱いものに包まれた。
わたしの右手は神くん、左手は宗太郎さんの両手に包み込まれていた。
ぎゅうっと右手を握り締められる。
左手も痛いくらいに熱を感じる。
「坂、口さん」
神くんの声が微かに震えて、それにつられて何も考えずに顔を上げた。いつもの、きれいに笑う神くんはいなかった。
泣きたいのか笑いたいのかわからなくなったみたいに一瞬顔を歪めた神くんは、でもすぐに、笑った。いつもとは違う、くしゃくしゃの笑顔を、わたしに。
「ずっと、聞きたかった」
神くんと宗太郎さんはわたしに何度も伝えてくれた。わたしの言葉を、ずっと待っていてくれた。それなのに、逃げるために酷い言葉をわたしは。
「ごめ――」
「もっと、言って」
宗太郎さんに左手を軽く引っ張られた。目元も口元も緩んだ宗太郎さんに、心臓がびっくりしたのがわかった。
「全然足りない。俺たちが、どれだけ待ったと思ってんの」
わたしが今言うべきなのは、謝罪の言葉じゃなかった。
今なら、返せる。
「す、す……き、で、だから、神くんと宗太郎さんが、もう離れたいって、思ったときにわかったって言えない。泣いて、みっともなく縋りつく」
「うん、そうして。俺たちもそうするから」
口にするつもりのなかったことまで言ってしまったわたしをなんでもないことみたいに、神くんは受け入れてくれる。
「というか今してる」
宗太郎さんも凄いことを平気な顔で言う。
熱いままの両手から、熱が全身に回る。
「もっと」
宗太郎さんに持ち上げられた左手の行方を目で追う。
「いつもあんたが足りない」
わたしの左手に、宗太郎さんの唇が触れるのを他人事のように見ていたけど、指先に感じた熱は全然他人事じゃなかった。
「坂口さんが、もし本当に俺たちから離れることを選んだら、それでも一緒にいられないって言ったら、一緒にいるって言うまでここから出さないで、坂口さんに酷いことをするつもりだった」
神くんの穏やかな笑みと出てきた言葉の内容が合わない。
「でも、今のほうがもっとここから出せそうにない」
なんとなく、両手を自分のほうに引っ張ってみた。びくともしなかった。
「どうしよう」
全然困ってるようには見えない笑顔に何も答えられなくて彷徨わせた視線を、宗太郎さんに向ける。
一瞬合った目をすぐに逸らしてしまった。
「か、帰れないと、困る」
「……ん、そうだね」
なんとか絞り出した声に神くんが小さく笑った。
「約束」
宗太郎さんの口元にあったままの左手に、息が。
「約束して」
「夏休み、毎日、は無理でも、会えるときは会うって」
神くんまで、宗太郎さんの真似をするみたいにわたしの右手を持ち上げて口づける。
反射的に引っ込めようとした右手はやっぱり動かなかった。
「する、約束、する、から」
もう一度二人の唇が触れた両手はそれでやっとわたしのところへ戻ってきた。
勝手に震える両手をおなかのところで組んでぎゅっと握り締める。
悲しくて苦しくて嬉しくて幸せで、気持ちがどこにいけばいいのかわからなくて落ち着かない。
悲しくても嬉しくても涙は出てくるから、少しでも気を緩めたら本当に止まらなくなりそうで唾を飲み込んで息を止めた。
「顔、洗ってく?」
神くんに言われて、咄嗟に両手で顔を隠した。今更意味ないけど。
「うん、あ、あり、がと」
神くんの言葉に甘えて洗面所を借りる。リュックを下ろしてハンドタオルを出そうとしたら、神くんがふかふかのタオルを貸してくれた。自分がどんな顔をしているのか怖くて鏡は見ないようにしてばしゃばしゃ顔を洗った。
いい匂いのするタオルに顔を埋める。温い水で洗った顔から熱は全然ひかない。
そのままずっとタオルを顔に押し付けていたら宗太郎さんにタオルを取られた。
「いつまでやってんの」
「ご、ごめん」
神くんと宗太郎さんをできるだけ視界に入れないようにすぐに玄関に戻る。
急いで靴を履いて、二人に向き直って、今日、二回目の別れの挨拶。
「あの、それじゃあ――」
しようとしたら、神くんの手が伸びてきて思わず後ずさった。ドアに頭をぶつけて大きな音がしてそれにもびっくりした。
「な、に?」
「ん、前髪が」
神くんは濡れて額にはりついていた前髪を直そうとしてくれただけだった。
慌てて前髪を押さえた。顔に血が一気に上るのが自分でもわかった。
「凄い音したけど、頭大丈夫? 危ないから気をつけて」
「あ、う、ごめ、大丈夫」
「俺に何かされると思った?」
神くんはなぜか楽しそうに笑って、わたしは恥ずかしさでどうにかなりそうだった。
違うって言えない。
「それくらい警戒されたほうがこっちはいい。されてもするけど」
宗太郎さんが神くんを押しのけるようにしてわたしの前に来て、ドアに右手をついた。わたしの顔のすぐ横。
見上げた顔が近すぎて、これ以上後ろには行けなくて前髪を押さえたまま目を閉じた。
息を止める前に、唇に押し付けられたものは離れていった。
「これだけで我慢するから、褒めて」
神くんも、触れたのは一瞬で、でも触れられた感触は唇にしっかり残って、それでいっぱいになってもう何も考えられなかった。
「ごめん、あの、じゃあ、また今度。バイバイ」
早口でそれだけ言ってドアを開けて外へ。
さっきよりも暑い気がする空気の中へよろめくように飛び出て、もう一度二人に頭を下げてドアを閉めた。
悲しいのも嬉しいのも全部吹き飛んで行き場のない熱だけが体中を駆け巡る。
深呼吸しようと息を吸い込んだ瞬間、目の前のドアが開いた。
「坂口さん、忘れ物」
笑顔の神くんが手にしていたのは、わたしのリュック。顔を洗うときに下ろして、そのままにしてしまった。
「あ、わ、ごめん!」
リュックを受け取ろうと手を伸ばしたら、何故か遠ざけられた。
「やっぱり心配だからせめて駅まで送らせて」
神くんがわたしのリュックを右肩に引っかけてしまう。
「だ、大丈夫だから」
「このままだと不安すぎて一人で帰せない」
神くんの後から宗太郎さんも靴を履いて出てくる。
「でも」
「送らせてもらえないなら坂口さんは俺たちと手を繋いだまま家に帰ることになるけど、どうする?」
神くんに笑顔で脅された。
「駅まで、よろしく、お願いします」
「ん、それじゃあ行こう」
鍵を閉めて神くんが歩き出して、それに宗太郎さんが続いて、わたしも少し離れて二人についていく。
ぎらぎら照りつける太陽はさっきよりも眩しいのに、怖くなかった。
時々、わたしを振り返りながら、前を歩く神くんと宗太郎さん。
神様みたいな人たちは、神様じゃなかったからいつかいなくなってしまうかもしれないけど、その代わりに、手を伸ばしたら届く。触れられる。触れてもらえる。
足が勝手に駆け出して、神くんと宗太郎さんに追いつく。二人が振り返って、太陽よりも眩しい笑顔で、また泣きそうになったけど無理やり追い払って、わたしも笑った。
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