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 うつせみ 13

 坂口さん。
 神くんの声にそう呼ばれた気がした。
 何って聞き返したはずなのに声は出ていなかった。夢なのか現実なのかわからないくらい曖昧な感覚で、神くんと宗太郎さんが話す声を聞いた。
 囁くような、耳に心地よく響く声は心地いい音になって耳に落ちてくる。

「どうすんのこれ」
「俺に訊くな」
「お前が言い出したことだろ。あれが断らないのわかってたくせに」
「でもそのおかげで一緒にいられる時間が増えたんだから感謝しろ」
「生殺しの時間も増えた」
「お互い様。本当に三年待てたとして、そのときに坂口さんにやさしくできる気がしない」
「今だって無理なくせに」
「そうだけどさ。泣いて頼んだらせめて高校を卒業するまでに変えてくれないかな」
「泣いて頼んでみれば」
「俺より宗太郎がやったほうが効果あるよ」
「孝太郎で駄目だったらやってもいい」
「……やっぱ不公平だ。俺たちだけこんな必死なの」

 心地いい音がなくなる。もっと、聞いていたかった。もっと。
 神くん。宗太郎さん。



 夢を見た。
 夢だって、すぐにわかった。
 だって目の前にいるはずのない人がいた。
 家の中。見慣れた廊下。わたしの家。
 目の前には制服を着た、ポニーテールの女の子が立っていた。見慣れた顔。わたしの、わたしの――。 
 怒った顔で、何を言っているの。歪んで反響した音だけが聞こえた。
 わたしも何かを言った。わたしも怒っていた。
 喧嘩をしているんだって、遅れて気づいたけど他人事だった。
 女の子は怒ったまま家を出ていこうとした。わたしはそれを止めたかった。止めないといけなかった。
 名前を呼んだ。
 手を伸ばした。
 声は出なかった。手も届かなかった。
 女の子は家を出ていった。もう、帰ってこなかった。
 ぐわんと、嫌な音が大きく響いた。
 髪の長い女の人がわたしの首を絞めていた。顔は見えているのに見えなかった。でも泣いているのはわかった。
 この手が離れたら女の人も帰ってこなくなるって知っていたから苦しくてもよかった。
 視界が揺れた。

 目を開けた。

 瞬間、うまく息ができなくて噎せた。
「坂口さん」
 ぼやけた視界に神くんの顔が見えた。瞬きをする。
「坂口さん」
 ベッドの横に立っている神くんが心配そうな顔でわたしを覗き込んでいた。
「神、くん……?」
 ぐらぐらする頭で起き上がったら宗太郎さんと目が合った。宗太郎さんはベッドに腰かけてわたしを見ていた。
 神くんもベッドに腰かけた。
 ここは、わたしの家じゃない。神くんのうち。
「どう、したの?」
「坂口さん、凄くうなされてたから起こしたほうがいいと思って」
「あ、ありがとう」
 神くんと宗太郎さんに誕生日、祝ってもらって、夢みたいな時間を過ごして、神くんのうちに泊まることになって。
 現実離れした現実をぐらぐらする頭で確認する。それから消したはずの明かりがついていることに気づいた。
「なんの夢見てたの」
 夢。うなされていたのは、夢のせい?
 宗太郎さんに訊かれて思い出そうとする。
「夢、夢は」
 怖い夢。思い出したくない夢。右手が勝手に喉元を触った。
「ちひろって、誰」
「え?」
 宗太郎さんの声を、わたしは確かに聞いたのに聞こえなかった。
「何回も呼んでた。それに『ママ』って。もしかして――」
 神くんの声も途中で聞こえなくなった。違う。音は聞こえた。でも。

 お母さんと妹は死にました。

 頭の後ろが痺れる。心臓が、逃げようとするみたいに暴れ出す。
 嫌だ。嫌。この感覚。
 両手で布団を握り締める。
(お母さん)
「わたし」
 声が勝手に出た。
「お母さんのこと、人前以外で『お母さん』って呼んだこと、ない」
 お父さんも「お父さん」なんて呼んでいなかった。
「呼んだことないのにずっと、『お母さん』って、思ってて」
 お父さんって、思っていて。
 ――ちひろって、誰。
 宗太郎さんが口にした三つの音がやっと聞こえた。ちひろは千尋。名前。夢に出てきた女の子の。
「千尋は、妹」
 足元に穴がある。そこに落ちたくなくて、わたしはずっと、ずっと。
 体が震える。気づきたくないのに、怖いのに、頭は勝手に先を考える。止まってよ。その先には行っちゃいけないの。
「坂口さん」
 神くんの手が布団を握り締めたわたしの手に重なってそこが現実になる。
「伊織」
 宗太郎さんの声に名前を呼ばれて顔を上げた。宗太郎さんはわたしを見ていた。神くんもわたしを見ている。
 今。
 今ならいてくれる。神くんと宗太郎さんがわたしの傍にいてくれる。
「誕生日、もう、過ぎちゃったかもしれないけど」
「ん?」
「もう、たくさんプレゼント貰っちゃったけど、最後に、もう一つだけ」
「何」
 不機嫌そうな顔の宗太郎さんが、わたしから目を逸らさずに言った。
「今夜だけは、何があっても、ずっと、一緒にいて。傍にいて。わたしのこと、嫌いにならないで」
 宗太郎さんの眉間にぎゅっとしわが寄ったのを見た。
「いらない」
 神くんの否定の言葉に一瞬息が止まる。それから、嫌だって言われたわけじゃないって気づいた。
「『今夜だけは』はいらない。今夜だけじゃなくて、俺たちはいつだってそうする。坂口さんが望まなくても」
 神くんの顔は見られなかった。
 でも、言っても大丈夫だって思った。
 怖いけど、逃げたいけど、今はひとりじゃない。神くんと宗太郎さんがいてくれるから、ひとりじゃできないことも、できるかもしれない。ひとりになったらきっともう、できない。だから、今。
「ママはいつも、家族の誕生日にケーキを焼いてくれた」
 心臓は爆発しそうで、頭の中も沸騰したみたいにわけがわからなくなっていたけど、声はちゃんと出た。つまずきそうになったけど、転んでしまう前に次の言葉を吐き出したら大丈夫だった。一度坂を転がり出したら止まらなくなった。いきなりこんなこと言って、神くんと宗太郎さんに変なふうに思われるかもって思う余裕はとっくに吹き飛んでいた。
「パパはチーズケーキで千尋はチョコレートケーキ、わたしはイチゴのケーキで、神くんが焼いてくれたのみたいに凄くおいしくて」
 おめでとうの代わり。ママの気持ちがいっぱい詰まったおいしいケーキ。だから、神くんのケーキもそうなんだろうって当たり前のように思えた。
「千尋は太陽みたいに明るくて、千尋といるといつも元気を貰えた」
 家族の中心で、わたしとは全然違って羨ましくて疎ましくて、大好きだった。
「夏休みは毎年家族で旅行して、パパと一緒に出かけられるの、そのときくらいだったから千尋もわたしもいつも本当に楽しみにしてた」
 ママも子供みたいにはしゃいで楽しそうにしていた。
 わたしには、家族がいた。でも。でも。
「わた、し」
(お母さんと妹が死んだ)
 ずっと見ないふりをしていた。
「わたしの、せいで」
「本当に、坂口さんのせい?」
 わたしの声を遮るように神くんの声が響く。
「あんたはずっと、何から逃げてるの」
 宗太郎さんの声も、また逃げようとしたわたしを引き止める。
 いつも、そうやって逃げていた。
 わたしのせいだって思えば、それでいっぱいにできた。それ以外のことを考えなくてもよかった。
 わたしのせいだって、思うよりももっと怖いことを見ないで済んだ。
 手が震える。体の真ん中から冷たくなる。

「死んだのは、お母さんと妹じゃなくて、ママと千尋」

 全身、頭の奥まで氷の針で突き刺されたみたいに痛くて冷たくて、熱かった。
「ママの作ったもの、もう食べられない。千尋とお喋りできない。もう二度と、家族で旅行できない」
 死ぬって、そういうこと。
「どう、しよう」
 わかってたつもりだったけど全然わかってなかった。
「やだ。そんなの嫌だ」
「坂口さん」
 わたしが見たくなかったのは、罪悪感だけじゃなくて、わたしが本当に見たくなかったのは、逃げたかったのは。
「全部、全部なくなっちゃった。ママと千尋、死んじゃった」

(喪失感)

 穴に落ちた。

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