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うつせみ 08
夏休み二日目は六時に目が覚めた。クーラーをつけて、もう一度横になって次に目を開けたらお昼前だった。
今度こそちゃんと起きて洗濯機を回した。お昼はチャーハンを作った。多めに作って夜もチャーハン。焼豚の代わりにウインナーを使ったせいだけじゃなくて神くんが作ったチャーハンとは味が全然違って、神くんのチャーハンのほうがやっぱりおいしかった。ハンバーグ、神くんと宗太郎さんに食べてもらうなら作る練習をしておかないと。
お昼を食べたら洗濯物を干した。太陽は相変わらずぎらぎらしていてよく乾きそう。
午後は宿題をやろうとして机に向かったけどすぐに漫画に手が伸びた。
漫画を読むのにも飽きてベッドに横になって目を閉じて、気がついたら夜になっていた。洗濯物を取り込んだ。今度はかごに入れっぱなしにしないでちゃんとたたんでタンスや棚にしまった。それからお風呂に入って冷蔵庫に入れていたチャーハンを温めて食べた。
午後にはできなかったから机に向かって宿題。何枚もある数学のプリント、一枚目の二問目をずっと考えていたら電話が鳴った。
「もしもし」
今日初めて声を出した。
『孝太郎が明日行くって。夕方』
神くんが来る。夕方なら、早く起きなくてもちゃんと準備できる。
「うん」
『孝太郎のほうが俺よりやばいときがあるから気をつけろ』
「う、ん……?」
『胸触られるだけじゃ済まないって話』
「……う、ん」
わかりたくないことをわかるように言われた。生々しい感触を思い出して鳥肌が立った。気持ち悪い。とは違う。だってわたしは宗太郎さんのことが凄く好き。怖かったけど、多分嫌じゃなかった。
『おやすみ』
「おやすみなさい」
挨拶。毎日交わせる人がいる。奇跡みたい。
電話を切ったらまた宿題。二問目がやっと解けて時計を見たら、いつも寝る時間はとっくに過ぎていた。
いつもより遅い時間に横になったのに眠れないのは昼間寝すぎたせい。それだけ。
目は開けなかった。眠れなくてもずっと閉じていた。いつの間にかちゃんと眠れた。
夏休み三日目も六時に目が覚めた。
神くんは夕方に来るって言ってた。何時かはわからないから早めに準備を終わらせる。
ごはんを食べて、掃除機をかけて、少しだけ宿題をやって、ぼーっとして、ごはんを食べて、少し休んでから着替えた。今日は紺色のTシャツとジーンズに黒いカーディガン。ボタンは全部留めた。なんとなく。
宗太郎さんがいきなり来たの、びっくりしたけど予告されても来るまでずっとそわそわしないといけない。
階段を何度か上ったり下りたりして、ベッドに倒れ込んで枕に顔を埋めた。
神くんがうちに来る。楽しみで、怖くて変な気分。
うるさい。
さっきからずっと音が。音。電話が鳴ってるんだ。ずっと。
(電話)
目を開けた。寝てた。わたし。いつの間にか垂れていたよだれを拭きながら慌てて起き上ってベッドから降りた。電話、神くんからだ。視界に入った時計の針は四時を過ぎていた。
「もし、もしっ」
『坂口さん』
神くんだった。
「ごめ、ごめん、今」
『寝てた?』
電話の向こうで神くんが笑った気配がした。怒ってはいなかった。よかった。
「うん、ごめん、か、鍵、開けるね」
『ん』
電話を切った。手で髪を直す。せっかく準備する時間はたくさんあったのに何やってるんだろう。
「こんにち、は」
「こんにちは」
ドアを開けて真っ先に目に入ったのは紺色のTシャツだった。今日は、神くんとお揃いみたいになった。
「待ってるの、緊張して、落ち着かなくて、いつの間にか寝ちゃって」
神くんが靴を脱ぐのを見ながら、言い訳にならない言い訳を訊かれてもいないのにしてしまう。
「そんなに緊張しなくていいのに。はい、おみやげ」
笑顔の神くんに、白い箱を渡された。駅前の、ケーキ屋さんの箱。
「ありがとう。あ、えと、すぐに」
「ん、一緒に食べよ」
三人ですきやきを一緒に食べたテーブルに箱を置いた。リビングのソファで食べようと思ってたけど、ソファで待っててって言う前に神くんが椅子を引いて座ったからここで食べることになった。
クーラーがなくて暑いけど、一階は二階よりも涼しいし少しの間だから多分大丈夫。
お皿とフォークを用意する。飲み物も。麦茶でいいかな。
箱の中に保冷剤と一緒に入っていたのはフルーツタルトだった。カラフルできれい。
「前に友達がうまいって騒いでたから気になってて」
「そうなんだ」
神くんの友達。つんつん頭とちょんまげの人しか知らないけど、二人以外にも友達がいるのは当たり前で、わたしが神くんの友達を知らないのも当たり前で、それなのに、今こうしてわたしの家で、わたしの目の前にいる神くんが知らない人の話するの、なんか嫌だった。
神くんには知られたくないことを思いながら、震える手でタルトをお皿に移してグラスに麦茶を注いだ。
何もこぼさずに準備を終えられて、神くんの向かいに座って小さく息を吐いた。
「いただきます」
一口食べたら本当においしかった。
「おいしい」
「ん、期待以上」
会話はそれで途切れる。タルトはどんどんなくなっていく。麦茶を飲んで、またタルトを口に運んで。
「ごちそうさまでした」
フォークを置いて麦茶を飲んで、もう食べ終わっていた神くんと目が合った。それだけで、顔が一気に熱くなった。
学校じゃなくて、神くんのうちでもなくて、わたしのうちで二人きり。
「夏休みは毎日会えないから寂しい」
真っ直ぐ、目を逸らす前に言われた。
「う、ん」
「会いたかった」
凄く嬉しいことを言われているはずなのに、追い詰められている感じがした。
「坂口さんの部屋に行きたい」
一昨日のことを思い出して昨夜の宗太郎さんの言葉の意味を理解して、自意識過剰でも怖くて、神くんは宗太郎さんみたいに勝手に部屋に行ったりしないから駄目って言うチャンスがちゃんとある。
でも言えない。宗太郎さんはよくて神くんは駄目なのは変とか、そう思うわたしの気持ちとは全然関係なくて神くんの声が、そう言わせない。
神くんが立ち上がった。
「行こう」
いつもと同じ心地いい声。神くんはきっと笑顔でいてくれる。ちゃんとわかってるのに、神くんの顔を見られなかった。
神くんが待っているからわたしも立った。部屋、行きたくない。逃げ場がなくなる。違う。逃げ場は今もない。
「俺のこと、警戒してる?」
宗太郎さんと同じようにわたしのベッドに座った神くんが、ドアの前に立ったままのわたしに言った。
なんて答えればいいのかわからなくて、足元を見て黙っていた。
「宗太郎に、何かされた?」
空気が動いた。何かを考えるよりも先に神くんがわたしの目の前にいた。神くんは一昨日のこと知ってて訊いてる。意地悪。
「だから、気をつけてって言ってるのに」
抱き締められた瞬間、目を閉じて息を止めた。汗で首に張り付いた髪が気持ち悪いって思いながら、息を吐き出した。
吐き出したら吸い込む。宗太郎さんみたいにいいにおい。神くんのにおいも、好き。
神くんの腕の中。指一本でも動かしたら駄目な気がした。
わたしが神くんの存在をこんなにたくさん感じているということは、神くんもわたしを同じくらい感じているということ。それはやっぱり凄く怖いことで、でも、幸せだった。泣きたいくらい幸せだった。
「逃げないで」
神くんの腕は、嫌がればすぐに抜け出せそうなくらいやさしい。だからもっと動けなくなった。
神くんがいる。息をしてそこにいる。わたしを抱き締めて、何を考えているの。
言葉はないまま、わたしの腰に回された腕は動かなかったけど右肩に回されていた神くんの片手がわたしの肩から外れて背中へ移動する。指が背中を触ってくすぐったい。それでも動けなくて、くすぐったいのを我慢していたら気づいた。神くんが何をしているのか。
「じん……く、ん……っ」
下着の線をなぞられてる。なんで。やだ。気のせいじゃない。何度も、指が同じところを辿る。
どうしようって思っている間に神くんが離れた。
「な、なん――」
顔を上げたら両腕を掴まれてドアに体を押しつけられた。神くんの顔が目の前にあってとっさに目を閉じた。何かに口を塞がれた。唇にやわらかいものとかたいものが当たった。後ろに逃げようとしたけど頭がドアにぶつかっただけだった。口は何かに塞がれたままで、生温い感触が、口の中に。何。してるの。わたし。何してるの。神くん。
体に力が入ったのか抜けたのかもわからなくなる。息は多分、できていなかった。
「こういうこと、もっといっぱいしたいのいつも我慢してる」
神くんの声が聞こえる。聞こえるから、もう息をしても大丈夫。吐いて、吸って。閉じていた目を開けた。
神くんの目が近くにあった。腕を動かせるようになったけどその代わりに神くんの両手に挟まれて上を向いた顔を動かせない。神くんの目から逃げたくて目を閉じた。唇に、今度はやさしくわたしのじゃない唇が触れる。ずっと触れてるわけじゃなくて、少し離れるときがあるからその合間に息をする。そうやって、呼吸することで頭をいっぱいにする。
息を止める。唇が離れる。息をする。神くんの右手がわたしの顔から肩へ。息を止めた。唇が離れた。息を。
「宗太郎だけずるい」
耳元で神くんの声。
「俺は、駄目?」
神くんもずるい。そんな言い方。なんのことか、はっきり言わない。でも確実にわたしを追い詰める。駄目なんて、言えないのを神くんはわかっている。無言は肯定。息を吸って止めた。肩から外れた手は、すぐに胸に触れた。何度か撫でるように動いた手に一瞬強く掴まれて、それで終わりだった。
「怖がらせてごめん」
左耳と頬に、神くんの唇がやさしく触れて、ずっと閉じていた目を開けた。神くんの目はまだ近くにあった。神くんは笑っていた。いつものやさしい笑顔とは違った。意地悪なのでも、困ったような笑顔でもなかった。背中がぞくりとするようなきれいな笑顔なのに、何故か前に見た神くんの涙が重なって見えた。
触られるのも、キス、されるのも。
「怖い、けど、凄く幸せなことだって、思ってる」
声は震えてしまった。でも神くんにはちゃんと伝わるから気にしない。
「だから、大丈夫」
何がって訊かれたらうまく答えられないけど、そう言わないといけない気がした。
神くんの笑顔がゆっくり消えていく。目を、じっと見つめられた。
神くんの笑顔が好き。どんな笑顔も好き。笑顔じゃなくても好き。全部好き。一番伝えないといけない言葉は、ずっと奥に閉じ込めている。
わたしが目を逸らしてしまう前に、神くんの視線がわたしから外れて、手もいつの間にか離れていた。
「神くん」
口が勝手に動いて神くんの名前を呼んだ。呼んだから神くんの視線が戻ってきてしまう。それから逃げて自分の机のほうを見た。
何か、言わないと。神くんに。神くん。
暴れ疲れて少し落ち着いたはずの心臓が、また苦しくなってくる。
「何?」
やさしい声。
「ベ」
「ベ?」
「ベッドに、座って」
言えた。
神くん、変に思ったかもしれないけど何も言わずにベッドまで移動して座ってくれた。座った神くんの前に立った。
「目、閉じて」
「ん」
なんで、言われた通りにしちゃうの神くん。
「いいって、言うまで開けないでね」
宗太郎さんにも前に同じこと言ったの、神くんは知ってるのかなって思ってしまったから宗太郎さんにしたのと同じことはできなくなった。
そうだ。
ベッドの上に乗って膝で歩いて神くんの後ろに回った。
中間テストの点数勝負、神くんに負けたからしないといけなかった肩揉み、していなかったから今しよう。
緊張しないのは無理だけど、あのときよりも神くんが少し近くに感じた。
両手を握り締めたまま持ち上げてゆっくり開いた。最初に神くんがしてって言ったことだから大丈夫。嫌がられない。大丈夫。何度も自分に言い聞かせて、神くんの肩に手を置いた。神くんの体が少しだけ動いた。わたしの心臓はもっと大きく動いた。
震えそうになる手で神くんの肩を揉む。うまく揉めているのかわからない。手が熱くて、顔はそれ以上熱くて、自分が何をしているのか自分でもわからなくなって神くんに触れていられなくなったから手を離した。
神くんがいる。今目の前に。手を伸ばしたら触れる。触っていた。温かかった。夢じゃない。現実。今は。今だけ。
神くんの肩が動いた。止める間もなく神くんが体を捻ってわたしのほうを向いた。
「ごめん」
いきなり黙って肩揉みなんて、やっぱり嫌だったのかもしれない。中間テストが終わってから大分経っているから、なんでわたしがこんなことし出したのか神くんはわからなかったかもしれない。あのときできなかったから今するねって、一声かけるだけでもきっと違った。たった一声が出なかった自分に落ち込む前に神くんの笑顔が見えた。
「坂口さんがしたいこと、もっといっぱいして」
神くんの言葉にふわりと包まれる。ありがとうしか言えなくて神くんの隣に座ってベッドから足を下ろした。
「神くんは、凄くやさしいお父さんになりそう」
ふと思って想像した。神くんが作る家庭は、とても暖かそう。でもそう考えたわたしの中は冷えていく。
「お母さんは、坂口さん」
神くんに肩を抱き寄せられてとっさに右手をベッドに突いた。それでいっぱいになって何を言われたのかはわからなくなった。わかったら駄目。冷えたはずのところから燃えていく。
「ん、ごめん」
神くんの声が揺れたから思わず顔を上げた。
「今のはちょっと、恥ずかしすぎた」
至近距離にある神くんの顔、もしかしたら赤いのかもしれない。わたしは間違いなく赤い。だってこんなに熱い。
「宗太郎が」
神くんの左手が肩から離れてわたしの頭を引き寄せるようにして押さえたから神くんの顔が見えなくなった。ベッドに突いて体重を支えている右手に余計に力が入った。
「俺の嘘、坂口さんにばらしたって言って」
「嬉しかった」
宗太郎さんは、わたしが何を言ったかまでは教えてないんだって、震えた声でわかったから熱でぐちゃぐちゃになりそうな感情を無理やり押しのけてすぐにそう言った。
「そう思ってもらえて凄く嬉しかった」
「なんで、そんなに簡単に許しちゃうの」
許すとか許さないとか考えるような話じゃない。本当に、嬉しかったから。
「ごめん、全部押しつけて、坂口さんのせいにして」
神くんが動いて、あっと思ったときにはまた抱き締められていた。今度はやさしくなかった。怖さは苦しさで覆われて曖昧になったから思ったよりも平気でいられた。
心臓の音。わたしの。それとも神くんの?
「でも、本当のこと、だから」
今も酷いことをしている。一昨日宗太郎さんに抱き締められた場所で、今日は神くんに抱き締められている。
「ごめんわたし、本当に、一昨日も、だって」
意味にならない言葉が零れてしまう。
「知ってる。全部知ってる。宗太郎が何したか。俺が何をしたのかも宗太郎は知ってる。嘘も隠し事もない。それを受け入れて、納得してここにいる」
わたしのための言葉。何度も何度ものみ込んでやっと、ありがとうって言えた。
『次会うのは、八月一日』
その日の電話で宗太郎さんに言われた。
『毎日会いにいきたいけど、熱を冷まさないといけない。俺も孝太郎も、あんたが思ってる程できた人間じゃないから。会いにいかない理由はそれだけだから余計なことは考えるな』
「……うん」
『その後は、会えるときは会いにいく。孝太郎と。嫌だったらあんたが来い』
「わたし」
『何』
「凄く甘やかされてるね」
一瞬の沈黙の後。
『こっちもあんたに甘やかされてるから。おやすみ』
わたし何かしてるっけって考えようとしたらおやすみを言う前に電話が切れた。
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