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 うつせみ 07

 目が覚めた瞬間暑かった。暑い。寝る前にタイマーをセットしたクーラーは大分前に消えていた。今日は鳴らない目覚まし時計。見たらもう十時前だった。ベッドから降りて、少しだけ開いていたカーテンを閉め直した。机の上のリモコンを取ってクーラーをつけた。
 夏休み一日目。
 三年前の夏休みは太陽みたいに眩しかった。宿題、ぎりぎりまで終わってなくて大変だったけど、家族で旅行して、家でも好きなテレビをたくさん見て、本も読んで、夜更かしして、いつも通りの、当たり前の幸せを当たり前とも思わなくて幸せだった。
 一昨年の夏休みのことはよく覚えていない。ただ怖かったことと途中から、受験勉強しないとって思って勉強していた記憶はあるけどそれだけ。
 去年の夏休みは、夜みたいに真っ暗だった。
 暑いのに寒かった。
 体中を、血と一緒に冷たい何かが流れている気がした。
 蝉の声がうるさかった。
 誰もいない家。ソファの上で布団にくるまって汗と涙を垂れ流しながらつけっぱなしのテレビの画面を一日中眺めていた。
 思い出したらあの感覚がすぐそこにあった。
 息をするみたいに泣いていた。
 何が怖いのかも考えられないくらい怖い現実から逃げたかったから薄暗い台所で握り締めた包丁を自分に向けた。手はそれ以上動かなかった。
 死にたかった。
 死にたくなかった。
 死にたかった。
 死ねなかった。
 生きているのが怖いのに死ぬのも怖くてどこにも行き場がなくなった。
 どこにも逃げられないことにもっと絶望した。
 でも終わりの見えない長い真っ暗な夏休みはもう終わった。終わったから大丈夫。
 違う。終わってない。夏休みは、始まったばかりであの嫌な感覚も消えてない。すぐそこに、あって。
 暑いのに、肌がぞわりと粟立った。
 電話が鳴った。
 考えていたこと、一気に飛び散って息を大きく吸い込んで、吐き出した。
 机の上の電話の子機を取った。誰からか考える前にそうだったらいいなって思ったから迷わずに通話ボタンを押していた。
「もしもし」
『開けろ』
 夏休み、苦しくなって楽になりたいはずなのに、宗太郎さんの声がどうしようもなく嬉しかった。
 切れた電話を机の上に置いた。いつも突然で、なんの準備もできなくて困る。でも嬉しい。わたしに会いにきてくれる人。
 髪、急いでくしで梳かして階段を下りて玄関に行く前に洗面所に寄る。
 汗でべたべたしていたからタオルで拭いて、下着も替えたいのは我慢してパジャマの上だけ黒いTシャツに着替えた。カーディガンを羽織ろうと思ったけど、洗濯して取り込んでかごに入ったままになっているはずのがすぐに見つからなかったから諦めた。
 顔を手でこすって鏡に映った自分を確認する。多分大丈夫。ちょっと待ってって言う前に電話が切れてしまったから、顔を洗ったり歯を磨いたりするのは後で。
「おはよ、う」
 ドアを開けたら宗太郎さんがいた。黒いポロシャツにジーンズ姿の。黒。お揃いみたいって一瞬思ったのは内緒。
 顔を少し上げた。外、普通に暑いはずで宗太郎さんも汗を全然かいてないわけじゃないのになんだか涼しげで、羨ましい。
「寝すぎ」
 顔、隠すだけじゃ足りなくて穴があったら入りたい。寝起きってわかるくらい酷い格好で酷い顔をしているということ。全然大丈夫じゃなかった。
 寝起きを見られるの別に初めてじゃないから今さらって無理やり自分に言い聞かせていたところで宗太郎さんに右の手首を掴まれた。
 宗太郎さんが入ってきてドアが閉まる。鍵をかける音もする。
 宗太郎さんに引っ張られて階段を上ってわたしの部屋。見られて困るものは出ていない。はず。宗太郎さんがベッドに座る。手首をぐいっと引き寄せられてわたしも左隣に座った。
「なんか話せ」
 腕が。Tシャツ、半袖で宗太郎さんに見えてしまう。
「その前に、手、離して。起きたばっかりで、顔とかも洗ってなくて、だから」
 話すまで離さないとか言われると思ったけど手はあっさり離れた。すぐに立ち上がった。宗太郎さんに掴まれていた手首を反対の手で押さえた。
「すぐに、戻るから」
 洗面所で急いで歯を磨いて顔も洗う。髪も手でもう一度直した。あとはカーディガンを着るだけ。早く、着ないと。かごの中身をかき出してバスタオルの下から紺色のカーディガンを見つけて引っ張り出す。散らかしたのは急いでまたかごに戻した。ぐちゃぐちゃなのを気にする余裕なんてない。
「なんで着るの」
 袖、右手を通したところで声がした。振り返ったら入口のところに宗太郎さんが立っていた。
「なんでいつも長袖着てんの」
 部屋で待っているはずの宗太郎さん。踏み込まれたくないところに容赦なく踏み込んできて、どうしよう。
「ひ、日焼け、しないように」
「今は家の中」
「クーラーで、冷えすぎないように」
 どっちも、嘘じゃない。一番の理由を言ってないだけ。
 見つめていた宗太郎さんの足が動いた。こっちに来る。宗太郎さんが。着る途中だったカーディガン、左の袖に手を通す途中でわたしの前に来た宗太郎さんに腕を掴まれた。
 後ろは洗面台。逃げられない。近い。
「他には」
「他って」
「長袖の理由」
 ないって言っても宗太郎さんにはすぐに嘘がわかってしまう。つばを飲み込んだ。
「見られたく、ないから。神くんと宗太郎さん、に」
 宗太郎さんの顔、いつもちゃんと見られないけど今はもっと見られない。
「あんたの体がどんなでも気にしない。俺も孝太郎も」
 きっとそうなんだろうって思う。神くんも宗太郎さんもわたしみたいにくだらないことを気にしたりしない。そんなことで人を見たりしない。今ならちゃんとそう思える。
「でも、やだ」
 頭でわかっても別のところがわかってくれない。たとえ神くんと宗太郎さんが何も思わなくてもわたしはそうじゃない。
 拒絶の言葉を口にする度に、駄目なわたしがもっと駄目になっていく。そんなわたしをますます見られたくなくなる。悪循環。
 宗太郎さんの手が離れたから、すぐにカーディガンをちゃんと着てボタンも留めた。
「そのうち無理やり脱がせるぞ」
「ごめん」
 暑苦しく見えるのかと思って謝ったら髪をぐちゃぐちゃにされた。
 わたしの髪をぐちゃぐちゃにした宗太郎さんの両手は、わたしの頭から離れない。頭を宗太郎さんに掴まれて、動かせない。だから目だけ逃げる。
「孝太郎は今日一日中バイトで来ない。俺も昼からバイトがある」
「う、ん」
「だからそれまで話、する」
「は、話って、なんの」
「いつも電話で話してるみたいなことでいい」
 頭から離れた手はまたわたしの右の手首を掴んで引っ張った。ぐちゃぐちゃになった髪は階段を上りながら片手で直した。
 宗太郎さんはわたしの部屋に戻ってさっきみたいにベッドに腰を下ろした。引っ張られてわたしもさっきみたいに左隣に座り込んだ。
 さっきと違うのは、宗太郎さんの両手がわたしの両手を握ったことと、膝が少しぶつかっていること。
「手、やだ」
 声が震えた。
 手首を掴まれているんじゃなくて、てのひらが合わさっていて、これだと手が震えても手にたくさん汗をいても全部宗太郎さんに伝わってしまう。
「手を離すなら帰る」
 脅し文句はそれで十分だった。
 見られたくないのに一緒にいたい。近いのは怖いのに傍にいてほしい。矛盾だらけなのは今さら。
「汗、手に、かいちゃうから気持ち悪く」
「ならない。わかりきってることを一々確認すんな」
 わかりきってることじゃない。宗太郎さんが何を思うかなんて、想像するくらいしかできない。
「昨日の夕飯、何食べた」
 答えられることを訊かれた。手はそのまま。膝もぶつかったまま。
「昨日は、お好み焼き」
 宗太郎さんの顔は見られなくて、でも下を向くと宗太郎さんに握られた自分の手が見えて恥ずかしくなるから目を閉じた。
 視界が閉ざされた代わりに宗太郎さんの体温や感触をもっと近くに感じた。
「そ、宗太郎さんは」
「天ぷら」
 電話でも、会話はいつもすぐに途切れる。
 沈黙。音はある。窓に留まっているのか蝉の声が近くで聞こえる。クーラーもずっと音を立てている。
 わたしの手を握り締めている宗太郎さんの手、左手だけ緩んだ。離れるわけじゃなくて指先がわたしの手首の内側をなぞる。カーディガンの裾にもぐって撫でる。くすぐったい。
「顔、上げろ」
 左手の動きが止まった。首を横に振った。無言の圧力をかけられた。目を閉じたまま顔を上げたら変な顔を見せることになってしまうから目を開けた。顔も、一気に上げた。
 宗太郎さんの顔が目の前にあってとっさに上半身だけ後ろに逃げた。
「な、何?」
 宗太郎さんが急に手を離した。
「わ」
 後ろに思い切り体重をかけていたからベッドに倒れ込んでしまった。起き上ろうとしたら宗太郎さんに肩を押さえつけられて起き上がれなかった。
 宗太郎さんの後ろに天井が見える。前にもあった。この体勢。思い出してやっと宗太郎さんが何をしようとしたのか気づいた。多分、勘違いじゃない。だって。
「本気で嫌だったら本気で抵抗しろ」
 宗太郎さんの顔が近づいてくる。目を閉じて顔を背けた。頬に何か触れた。耳にも触れた。首筋に触れて声が出た。
「や……っ」
 宗太郎さんの手に顎を掴まれた。宗太郎さんの手はもうわたしを押さえつけていないのに体を動かせない。顔を正面に、宗太郎さんのほうに戻された。
 熱が来る。
 唇が熱くなった瞬間頭は真っ白になった。
 熱は触れるだけ。だけどなかなか離れない。離れてもすぐに戻ってくる。
 こんな現実はおかしい。
 手が動いた。宗太郎さんを押しのけようと思った両手は、宗太郎さんのポロシャツを掴むことしかできなかった。
「体、見たい」
 掠れた声が耳元で言った。宗太郎さんの声。耳に息がかかって熱くてくすぐったくて首を少しだけ横に振って答えた。
「見せて」
「だ、駄目、って、言ったらやめてくれる?」
「だから嫌だったら本気で抵抗しろって言ってる」
「でも、でき、できない……っ」
 怖い。
 わたしにキス、したり体見たいなんて変なこと言ったりする宗太郎さんが怖い。
 宗太郎さんの顔が離れる。わたしに覆いかぶさるようにしてベッドに片手と片膝を突いている体勢は変わらない。わたしの手が宗太郎さんのポロシャツを掴んでいられる距離にいる。
 宗太郎さんの左手が、わたしの腕の下でカーディガンのボタンにかかったのがわかった。一つだけ留めていたボタンが外される。本気で抵抗しないと宗太郎さんはやめてくれない。でもポロシャツを握り締めた手を開くこともできない。
「見るのが駄目なら触るのは」
「何、何を?」
「胸」
 思わず目を開けても涙で視界がぼやけて宗太郎さんの顔がちゃんと見えない。
「なんで、触りたいの?」
「触りたいから。あんたが、俺とか孝太郎の手に触りたいと思うのと一緒」
 それでなんとなくわかって、考えようとしたけど言葉が頭の中を通り過ぎていくだけでできなかった。ただ、見られるよりは触られるほうが恥ずかしくないかなって思った。
「ちょっとだけ、なら」
 言った瞬間宗太郎さんの唇が降ってきた。わたしの唇に強く押しつけられて、離れるのと一緒に腕を引っ張られて起き上がった。握り締めていた手がやっと開いた。頭がぐらぐらしてベッドに左手を突いた。顔、熱すぎてじんじんする。
 宗太郎さんの左手はわたしの右腕を掴んで離さないから逃げられない。右手がTシャツの裾のほうに伸びてきたから、びっくりして両手で裾を押さえた。
「う、上から!」
 凄く変なことを言った気がした。滲んだ視界に一瞬入った宗太郎さんの口元が笑ったふうに見えた。
 目をぎゅっと閉じた。Tシャツの裾を握り締める。
「やっぱり、やめ――」
 全部言う前に触られた。宗太郎さんの手がわたしの胸に。
(うそ)
 どうしよう、どうしよう。怖い。思ってたのと違う。なんか変。怖い。わたしが神くんや宗太郎さんの手に触りたいと思って触るのと、違う。絶対違う。
 触られるだけじゃなくて、何度か宗太郎さんの手に力が込められるのを左胸で感じる。夢じゃなくて現実なんだって、感じる。
 声が出ない。吸い込んだ息を吐き出せない。
「泣くほど嫌なの」
 手の力が緩んだ。でも、触れたまま。
 やっと息を吐き出して吸い込んだら空気が引っかかってのどが鳴った。目を開けた。ぼやけた視界に怖い現実があったからすぐに閉じた。閉じても変わらなかった。人に触られるはずのないところを触られている。
「違う、怖くて」
「こういうことされるのが?」
「それも、あるけど」
 行為自体も、している宗太郎さんもされているわたしも、全部おかしくて怖い。でもそれ以上に、近すぎるこの距離が怖い。
「宗太郎さんに、見られたり、知られたりするの、怖い」
 怖いのは、嫌われたくないから。
「触りたいのは好きだから」
 宗太郎さんの声が。
「毎日あんたの絵を描いてる。描いてるときはあんたのことだけ考えてる。描いてないときも考えてる。それくらい好き。言葉で伝えるだけじゃ足りないくらい好き。今すぐ無理やりにでも抱きたいくらい好き。けど好きだから我慢してる。何もかも全部知ってるわけじゃないけど、何も知らないわけじゃない。ちゃんとあんたを見てそうなった」
 燃える。
 火のついた言葉がぐるぐる体に巻きつく。
「なんでわかってくんないの」
 胸から手が離れて右肩が重くなった。宗太郎さんが額をわたしの肩に押しつけていた。こんなに近くにいる。人が。わたしじゃない人。わたしを好きだと言って。
 そのままのわたしを全部、丸ごと受け入れてもらえるなんて思うのは夢見すぎだけど、神くんと宗太郎さんは少なくとも、今ここにいるどうしようもないわたしを受け入れてくれる。
 わたしはもうそれをわかっているはずで、それに甘えてもいるのに近すぎる距離が怖い。
 肩の重みが余計に涙を押し出した。
「わかって、る、よ」
 神くんと宗太郎さんが、わたしに何度も伝えてくれたから。
「わかってるけど、怖い」
「……あんた、本当に面倒くさい」
「ごめん」
 呆れた声は、わたしが傷つかないくらいにはやさしかった。
「重い?」
 話、変わってわたしの肩に乗せている宗太郎さんの頭のことを訊かれたのかと思ったけど違った。
「面倒くさいのが二人だから」
「だってそれは、わたしが」
「あんたが望まなくてもこうなった」
 宗太郎さんが頭を起して肩が軽くなる。一緒にわたしの中から大切な何かも抜けてしまったみたいな感じがした。
「俺も孝太郎も、あんたと一緒にいたかったから」
「でも、神くんは」
 わたしが選べなかったからこうなったって言って、その通りで。
「あんたに重いと思われたくないからあんたに全部押しつけた」
 宗太郎さんが何を言っているのかよくわからない。
「普通じゃない関係になったとしてもあんたを諦めるよりはマシだと思うくらい、俺も孝太郎もあんたのことが好き。重い? ひいた?」
 前の電話のときと同じで、今日は宗太郎さんの言葉が多い。いつもよりもずっと。わたしに伝えるために。だから、ちゃんと理解する。
「嬉しい」
 浮かんだ感情をそのまま口にした。
「馬鹿女」
 息を一つ吐いた後の宗太郎さんの声はやっぱりやさしく聞こえた。
「それ、孝太郎にも言ってやれ。ずっと気にしてるから」
 うん。
 頷いて、顔を上げて宗太郎さんを見た。目はほんの一瞬。うっかり唇に向けてしまった視線はポロシャツの襟のところに落ち着いた。
「ありがとう」
「何が」
「たくさん。わたしのほうが神くんと宗太郎さんよりももっと面倒くさくて重いのに、今こうして一緒に、いてくれるから」
 宗太郎さんの腕が伸びてきてわたしの肩や背中に絡まる。抱き締められている。苦しくならないくらいの力。近い。怖い。でも嫌じゃない。息をひそめた。いいにおいがして、また涙が溢れた。
 すぐ近くで宗太郎さんが息をするのを聞いて、頭の中がぐらぐら揺れる。
(宗太郎さん)
 長いような短いような時間の後、宗太郎さんの腕が解かれた。
 宗太郎さんはもう何も言わなかった。手もわたしには触らなかった。顔は正面を向いてわたしのほうは見なかった。でも隣にいた。
 ベッドに並んで座って、カーテンを閉め切った部屋、クーラーで冷やされた空気を感じながら蝉の声がうるさいくらいに鳴くのを聞いた。
「もう行く」
 机の上に置いてあった時計の針が十一時を指す前に宗太郎さんが立ち上がった。
「電話、するから夜」
 玄関まで見送りたかったけど、お尻がベッドにくっついてしまったみたいになって立ち上がれなかった。宗太郎さんを見上げる。
「うん」
 バイバイ。手を振った。


「もしもし」
『何してた』
「宿題、やってた。夏休みの。いつもぎりぎりまで残しちゃうから、今年は頑張ろうと思って」
『啓太郎も同じこと毎年言ってる』
「……わたしも、小学生の頃から同じこと言ってる。へへ、へ」
『手伝ってやってもいいけど』
「うん、ありがとう」
『…………』
「…………」
『おやすみ』
「おやすみなさい」


 なくしたはずの幸せな夏休み。
 一日目の夜は、宗太郎さんから貰ったたくさんの言葉に埋もれながら目を閉じた。

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