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うつせみ 06
終業式の日はいつもより早い時間に家を出た。
誰もいない教室。自分の席に座って黒板を見つめた。
音のない教室は怖いけど好き。
目を閉じた。
明日から、夏休み。心臓が嫌なふうにどきどきする。
家にひとり。一日中。朝も昼も夜も。あの家に。
「はよ」
突然響いた声に息をのんだ。神くんが来ていたの、気づかなかった。
「おは、よ」
「今日はいつもの電車じゃなかったんだ」
「なんとなく、そんな気分で」
前を向いたまま。神くんが鞄を下ろして席に着く音を聞いていたら神くんの声がまた響いた。
「帰り、うちで昼飯一緒に食べない? 簡単なものだけど作るから。宗太郎も来るよ」
神くんは、知っているのかな。神くんにこんなふうに誘ってもらえるのが、泣きたくなるくらい嬉しいって。
「うん、ありがとう」
学校から駅までの帰り道は普段よりもざわざわしていた。明るい声があちこちから聞こえてくる。神くんは数メートル先。同じ制服姿の人が間に何人かいて、一緒に帰っているふうにはどうやったって見えない。
電車は同じ車両に乗って離れたところから神くんの後ろ姿を見ていた。
わたしよりも高いところにある頭。白いワイシャツの背中。少し日に焼けた腕。緩やかに大きくなっていく鼓動は、苦しすぎないぎりぎりの速さと強さで拍を刻んで心地いい。
一方通行の視線は楽。そう思うのはきっと、ずっと一方通行じゃないって知っているから。
神くんが降りる駅、今日はわたしもすぐに降りた。駅から神くんのうちまでの道もやっぱり後ろを歩いた。距離はさっきよりも縮まった。
神くんは改札を出たときに一度目が合ったけど何も言わないでいてくれた。
アパートの前、深呼吸をして、神くんに少し遅れて石段を上ったら神くんが一番奥の部屋の前で待っていた。
小走りで通路を通って部屋の前へ。ごめん。一言謝って、神くんの後に続いて中に入る。
わたしのうちとは違うにおいのする神くんのうち。
宗太郎さんがいて、お帰りって神くんに言って、神くんはただいまって言って、わたしはお邪魔しますって言った。
「すぐ作るから冷たいもの飲んで待ってて」
神くんは冷えた麦茶の入った水差しとコップを三つテーブルに置いてから台所でお昼を作り始めた。宗太郎さんはベッドに座って漫画雑誌を読んでいてわたしはここに来るまでにかいた汗を拭うのに必死だった。
わたしの後ろのふすまは開いていたから神くんが料理している音がそのまま聞こえてくる。
いいにおいがしてきたら、おなかが小さく鳴った。
神くんが作ってくれたのはチャーハンだった。スープとサラダも一緒に出てきた。
「おいしそう」
「初めて作ったチャーハンは見た目も味も最悪だったけど」
ベッドからテーブルの右側に移動してきた宗太郎さんが言った。
「そう、なんだ」
神くんが失敗するところっであんまり想像できない。だからちょっと安心した。
「あー腹減った」
神くんが自分の分のお皿を持ってきてテーブルの左側に座った。
三人でいただきますをした。
誰かと一緒にとる食事は緊張する。食べ方汚くないかとか気になる。誰かが神くんと宗太郎さんなら余計に。でも誰かが神くんと宗太郎さんだから、一緒に食べられることが嬉しい。
チャーハンは卵にねぎ、焼豚がごろごろ入っていて、ワカメスープも神くんの手作りドレッシングがかかったサラダも全部おいしかった。
外は暑いけど、クーラーのきいた涼しい部屋で、大好きな人たちとおいしいごはんを食べられる。幸せって、どこまで大きくなるんだろう。限界までふくらんだら、風船みたいに割れて消えちゃいそうで怖い。
神くんと宗太郎さんはチャーハンとスープをおかわりした。たくさん食べても太らないの羨ましい。
「成績どうだった」
わたしがチャーハンを半分食べて、神くんと宗太郎さんがおかわりしたのを食べ始めてすぐ宗太郎さんに訊かれた。
誰にも見られることのない通知票は、リュックの中。
「一年のときよりよかった、かな。あの……神くん、は?」
訊いてもいいか迷って、結局気になったから訊いてしまった。
「ん、見る?」
スプーンを置いて神くんは横にあった鞄から通知票を取り出した。
差し出された通知票と、神くんの顔を一瞬だけ見て、受け取った。
先生の言葉は見ないほうがいいかな。どきどきしながら開いたら、一と〇が飛び込んできた。十。その数字しかなかった。十段階評価の十。って。
「凄い」
オール十。こんな成績、本当にあるんだ。
中間テスト、見せてもらったのは百点二つと九十八点で、期末テストの答案返却のときも、ちらっと見えてしまった答案は百点だった。
実技も、体育は球技大会の神くんを思い出せば運動神経がいいのはわかる。美術は、後ろの席で神くんが描いたものや作ったものはちゃんと見たことないけど、神くんがわたしみたいに下手なのを作るところは想像できない。
そこまで考えて、神くんなら全部十でもおかしくないなって思った。
「褒めて。坂口さんに褒めてもらいたくて頑張ったから」
神くんの通知票をぐしゃっと握り締めそうになった。神くんの言葉に顔が一気に熱くなって、それからどうしようって思った。
褒める。わたしが神くんを。どうやって?
通知票を返して、考える。よくできました。は、違う気がする。
「あ、の」
チャーハンを見つめる。
「凄い、ね」
さっきも言ったのと同じ言葉しか出てこなかった。
ごめんって言いそうになったのはのみ込んだ。今はそんな言葉出しちゃいけない。
気のきいたことを何一つ言えないわたしを見て、神くんと宗太郎さんはどう思うのか想像する。
顔が、熱い。
「坂口さん」
やさしい声と一緒に髪を撫でられた。思わず顔を上げたら、神くんの右手。腕を辿って神くんの笑顔。
「ありがとう」
「う、ん」
首を横に振りたいのか縦に振りたいのかわからなくて変な動きになった。
「馬鹿女」
宗太郎さんがぼそっと一言。
時々、神くんと宗太郎さんに心の中読まれてるんじゃないかって思うことがある。今ももしかしたら、わたしが考えたこと全部二人はわかってしまったのかもしれない。そうだったら、恥ずかしすぎる。
チャーハンと一緒に恥ずかしさを噛み締めて会話はなくなって、すぐにお皿の中身もなくなった。
おいしかった。
「ごちそうさまでした」
頭を下げた。
先に食べ終わっていた神くんが三人分のお皿を台所に持っていこうとした。いつもそれを見送ってしまうけど今日は。
「あ、あの、待って」
声はちゃんと出た。
「ん?」
「わたし、片づける。お皿洗うのやる。ごちそうになってばかりだから」
言いながら顔に血が上るのがわかった。大したことじゃないのに、自分から言い出すのってどうしてこんなに難しいんだろう。
「ん、じゃあ、頼もうかな」
断られたらどうしようって思ったけど神くんのやさしい声はすぐにそう言ってくれた。
いつも横を通り過ぎるだけの神くんのうちの台所に初めて立った。狭いけどぴかぴかで使いやすそうに片づいた台所だった。
うちのごちゃごちゃした台所、一緒にすき焼きを食べた日に神くんと宗太郎さんに見られたんだって思い出したら居た堪れなくなった。
「今度、坂口さんが作った料理食べたい」
食器を洗うわたしの横には何故か神くんが立っていた。見られて、緊張する。
「わたし、料理、下手で」
神くんは神くんが作ったおいしい料理を毎日食べているから余計にわたしの料理がまずく感じるかもしれない。でも。
「食べたいな」
神くんに言われて断れるわけなかった。
「あ、あの、いつ、作れば」
「いつでもいいよ。材料は用意するから、またうちに来て、作って」
うん。頷いて、いつの間にか止まっていた手を動かした。
「お疲れさま」
神くんに差し出されたタオルを受け取って手を拭いた。神くんは結局お皿を全部洗い終えるまで一緒に台所にいた。
「神くん、もしかして、台所人に立たれたりするの嫌だった?」
不安になって尋ねたら神くんは笑った。
「嫌だったらうちで料理作ってなんて頼まないよ。坂口さんの傍にいたかったからいただけ。坂口さんは、俺が傍にいるの嫌だった?」
心臓に負担のかかることをさらっと口にした神くんは意地悪な質問を返した。
「嫌、じゃなくて手元見られるの、緊張したから」
お皿を洗うだけなのに、神くんに見られてるって思うだけで手が震えそうになった。
「いつも見てるよ。坂口さんを」
きつく握り締めたタオルは、次の瞬間力の入れ方がわからなくなった手から落ちていった。コップとか持ってなくてよかった。
「ごめ、ごめん」
拾おうとしたタオルは神くんが先に拾った。
「馬鹿女」
部屋に戻ったら宗太郎さんが言った。ふすまは開いていたから宗太郎さんのところからは丸見えで丸聞こえだった。
「見られるくらいで一々緊張すんな」
「ごめん。そ、宗太郎さんは、見られても緊張――」
「あんたに見られたら興奮する」
しないのって、続ける前に宗太郎さんは変なことを言ってわたしはなんて返せばいいのかわからなくて黒いテーブルを見つめた。
もしかして冗談? 笑うところ? こういうときはなんて返すのが正解なの。
握り締めすぎてスカートにしわがついてしまいそうだった。宗太郎さんが見られるくらいで緊張するわけないってわかりきったことなのになんでそんなこと訊こうとしたのわたし。訊かなければ宗太郎さんも何も言わなかったはずで、こんな状況にもならなかったはず。
こんな状況。
お昼は、食べ終わった。片づけも終わったからもうここにいる理由がない。
そう思ったら右手が勝手にリュックに伸びた。
「もう帰る?」
神くんがそれに気づいて、多分困っているわたしを見兼ねて言ってくれたから頷いた。
神くんと宗太郎さんに玄関まで見送られて、最後まで顔を上げられなかった。
十時の宗太郎さんからの電話は『ハンバーグでいい』って宗太郎さんが前置きもなく言って、わたしが料理を作る話だってわかるのに時間がかかった。
「宗太郎さんは、ハンバーグが好き?」
そういえば神くんと宗太郎さんの好きな食べもの、知らない。嫌いなものも。
『別に。あんたの作るものならなんでもいい』
神くんも宗太郎さんも、なんでもないことみたいにさらりと言ってしまうから本当に心臓に悪い。
何も返せなくて二人の好き嫌いも訊けないうちにおやすみになって電話は切れた。
寝るときまで神くんと宗太郎さんとハンバーグのことを考えていたから、余計なことは何も考えなくて済んだ。
神くんと宗太郎さんでいっぱいになったまま眠れた。
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