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 うつせみ 09

 七月最後の日は朝からぎらぎらしていた。太陽。全部剥き出しで晒される。部屋のカーテンを少しだけ開けてすぐに閉めた。
 息をすることを考える。それから。それから。
 とりあえず、毎日していることをしよう。ごはんも、食べないと。
 電話は、出ない。今日は出られない。宗太郎さんにも昨日ちゃんと言った。二年前、酷い言葉を吐き出した日。少しでも楽になるために苦しくなる日。矛盾だらけ。
 部屋を出ようと思ってドアのノブに手をかけた。見慣れたドアが知らないドアになった。汗がこめかみや首筋を流れるのを感じるのに寒い。わたしは、こうなって嬉しい。多分。苦しくなっている証拠だから。でも本当はこんなふうに考えちゃいけない。
 去年みたいに真っ暗じゃない。明日会える人たちがいる。だからやっぱりわたしは苦しくなるふりをしているだけなんだ。
 ノブを回して部屋を出た。見慣れた廊下と階段と、もう一つの部屋のドアがあった。
 わたしは見慣れた家にひとりでいた。
 一人。四人で住んでいた家に一人。三人足りない。
 全部、自業自得。
 涙が垂れて見たくない世界がぼやけた。
「神くん。宗太郎さん」
 声が出た。ドアの前に座り込んだ。抱えた膝にまた涙が落ちた。
 寒い。

 電話が鳴っている。受話器、外しておけばよかったって遠くで思った。
 今日だけ我慢して、明日はまた今まで通り。夏休み、神くんと宗太郎さんに会わないでいても見ないふりをしてたら何もしてないのと同じ。
 本当に意味のないことしてる。おかしくて笑おうとしたけど顔が強張って笑えなかった。ベッドの上、布団の中で丸まって、夏休みの夜で、きらきらしているはずで。
 電話、鳴り始めてどれくらい? さっき鳴ったばかりのような気もするし、ずっと鳴っているような気もする。
 出ないって何回も言ったのにどうしてかけてくるの。かかってこなかったらもっと悲しくなるのに理不尽なことを思った。
 電話が鳴り止んだ。
 息を止めた。
 ずっとは止められない。苦しくなって、涙が溢れて息を吐き出した。
 このまま眠ってしまえば、起きたときには幸せで夢みたいな日が待っている。

 ごめんなさい。

 声にはならなかった音が口の中で消えた。
 心臓を何かに押さえつけられているような気がした。
 暗闇の中で必死に開けていた目を、閉じた。





 八月最初の日。
 目を開けて、すぐに神くんと宗太郎さんのことを考えた。まぶたがいつもより重い。でもそれだけ。
 今日は二人と約束した日。十一時に神くんの家に行く。わたしの誕生日を二人が祝ってくれる。
 着ていく服、決まらなかったから制服で行くことにした。
 制服。いつも通り。

 外に出た。眩しくて目を細めた。息をするのが苦しいのは、熱気とは多分関係ない。
 一瞬で神くんと宗太郎さんのところへ行けたらいいのにって思いながら足を動かした。右足を出して左足を出して、歩く。
 暑いという言葉で頭を埋め尽くす。それ以外考えないようにする。
 電車の涼しさにほっとするのは少しの間だけ。
 神くんのアパートまであと数メートルのところでスカートのポケットからハンドタオルを取り出して噴き出す汗を拭った。
 石段を三つ上って一番奥。
 ノックをする前にもう一度顔と首筋の汗をハンドタオルで押さえた。それから髪の毛を手で直して深呼吸する。汗は止まらない。
 考えると動けなくなりそうだったから考える前に右手を持ち上げた。
 コンコン。
 力がうまく入らなかった。ノック、弱すぎたかもしれない。聞こえなかったかもしれない。
 もう一度叩くか迷っている間にドアが開いた。
「坂口さん」
 ピンクのTシャツを着た神くんが、笑顔でわたしを出迎えてくれた。
「おはよう」
 こんにちはと迷って朝の挨拶。
「はよ」
 熱かった顔がもっと熱くなる。嬉しいのに、逃げ出したい。
「上がって」
 わたしの心を読んだみたいに、笑顔の神くんがわたしの手首を掴んだ。
 逃げられない。

 クーラーのきいた部屋。灰色のカーテンは閉まっている。わたしは入口のふすまを背にして、テーブルの右側に宗太郎さん、左側には神くん。いつもの位置。
 テーブルの真ん中に生クリームとイチゴのホールケーキがあった。多分、神くんの手作り。
 ケーキには「Happy Birthday Iori」って書いてあった。
 誕生日に、イチゴのケーキ。
「一日遅れだけど、誕生日、おめでとう」
「おめでと」
 二人の声がとどめだった。我慢なんてできるわけなかった。
 ありがとうって、ちゃんと言う前に涙が出てきた。誤魔化せる量じゃなくて、ごめんも言えなくて、ハンドタオルを慌てて出して目元を隠すように押さえた。
「ごめん、ありがとう、凄く、嬉しくて、ごめん」
 声は震えたけどやっと言えて、それでもタオルを顔から離せないでいたらありがとうって。神くんの声。
「そんなに喜んでもらえて嬉しい」
 丸くなった背中に神くんの手が触れる。ぽんぽんってやさしく何度か叩かれた。神くんに触られたらいつも緊張するのに、今はそれで安心した。
 大丈夫。今日は大丈夫。二人とも、傍にいてくれる。
 少し落ち着いてきて、神くんの手も離れたから顔を上げた。
 顔にはりついてしまった髪の毛を、宗太郎さんの手が払ってくれた。
「あり、がと」
「腹減った」
 宗太郎さんが言って、神くんが立ち上がった。さっきからカレーのいいにおいがしてるから、お昼はきっとカレーライス。
「どうぞ」
 ケーキは一旦冷蔵庫へ。代わりに神くんが三人分のサラダとカレーライス、それから麦茶をテーブルに並べた。
 野菜とお肉がごろごろ入ったカレーライス。おいしそうで思わずつばを飲み込んだ。
 神くんが腰を下ろして、みんなでいただきます。
 うちで作るカレーとはどこか違って、でも凄くおいしかった。
「おいしい。神くんのカレー、好き」
「ありがとう。おかわりいっぱいあるよ」
「うん」
 わたしが二杯目のカレーを食べている間に、神くんと宗太郎さんは三杯目を食べ終えていた。
「ごちそうさまでした」
 麦茶を飲んで一息。
 クーラーの音と、蝉の声が大きく響いてさっきから会話がなかったことに気づいた。わたしはともかく、神くんと宗太郎さんも全然喋ってない。
 ちらっと神くんを見たら目が合った。すぐに逸らして、今度は宗太郎さんを見たら同じように目が合って、わたしの前のきれいになったお皿を見つめた。
 二人に見られている。のは、気のせいじゃない。なんで見ているの。いつから見ているの。
「坂口さん」
「な、何?」
「ケーキ、すぐ食べる?」
 右手でおなかを押さえた。結構、おなかいっぱい。でも何もしない時間が少し怖かったから頷いた。
 神くんがテーブルの上を片づけ始める。手伝ったほうがいいのかなって思ったけど声は出なかったし体も動かなかった。
 テーブルの真ん中にイチゴのケーキ。
 大きく切り分けられたケーキがわたしの前に。
「本当は、ろうそく立てたかったんだけど宗太郎がやめろって」
「ろう垂れるの嫌だし必要ない」
 二人の前でろうそくをうまく吹き消せないところを想像しながら曖昧に頷いた。
 二度目のいただきますの後、ケーキをフォークで口に運ぶ。甘すぎない生クリームにふわふわのスポンジ、甘酸っぱいいちごの味が口いっぱいに広がる。おいしいものを食べると、顔が勝手に緩んでしまう。
 ケーキを作ってくれた神くんのほうを見たらまた目が合った。ケーキを頬張ったままだったから、おいしいって言う代わりに小さく頭を下げた。神くんは、笑ってくれた。
 口をもごもごさせながら宗太郎さんのほうを見た。やっぱり目が合った。ケーキを食べるときに少しだけ外れた視線はすぐにわたしに戻ってくる。それだけなんとか確認してわたしはまたケーキを見つめた。
 顔の熱さを自覚したらもっと熱くなった気がした。二人がわたしのことを見ている。
 手が震えた。
 食べ方、きれいじゃない。顔は赤くなっている。伸ばしっぱなしで結んでもいない髪はきっと余計に暑苦しく見える。
 おいしいケーキの味が途中からよくわからなくなって、ゆっくり食べようと思ったのにあっという間に食べ終わってしまった。
「もう一個食べる?」
 神くんに頷きかけて首を横に振った。食べたい、けど。
「もう、いっぱい食べたから、ありがとう」
 いっぱい食べても太らない神くんと宗太郎さんと違って、わたしはいっぱい食べたらそれだけ太ってしまう。
「ん、わかった」
 神くんが手早く後片づけをして、テーブルの上には麦茶の入ったコップが三つ残った。
 何、すればいいんだろう。手の中でコップをいじりながら半分くらい残っている麦茶だけを視界に入れる。
 お礼を言って、もう帰ったほうがいいのかな。
「坂口さん」
 名前を呼ばれたから少しだけ顔を上げた。
「プレゼント、貰って」
 視界に、赤いリボンが巻かれた白い箱が。
 プレゼント。誕生日だから。
「あ、ありが、とう」
 プレゼントを用意してくれていたなんて思ってなかった。わたしは二人の誕生日に渡せなかった。
「開けて」
 神くんに促されて、震えそうになる手でリボンを解いた。きれいな模様の入った白い包装紙を開いていく。
「あ」
 箱の中にあったのは、リボンと同じ赤い革の定期入れだった。
「坂口さん、今使ってるのがボロボロだって言ってたから」
 赤い定期入れは、わたしが今使っている安物の定期入れとは見た目も手触りも何もかも違った。落ち着いた赤。手に持ったらすぐに馴染んで、わたしはもう一度神くんにお礼を言った。多分、安いものじゃない。わたしでもわかるくらいには。
「俺も」
 宗太郎さんががさがさ音を立てながら茶色の紙袋をくれた。ずっと宗太郎さんの横にあった袋。まさかプレゼントだなんて思わなかった。
「ありがとう」
 何の飾り気もない紙袋はなんだか宗太郎さんらしかった。
 透明なテープをできるだけ丁寧に剥がして中に入っているものを取り出した。
 レースやフリルのついた布だった。凄く可愛いけど淡いピンクのそれが何かわからなくて広げて、それでもすぐにわからなくて、わかったらどうすればいいのかわからなくなった。
 下着。だった。上下セットの。紙袋の中にたくさん詰まっている他の色合いの布も、多分そう。
 二人の前で、広げるものじゃないってやっと気づいて慌てて紙袋に押し込んだ。
「こ、これは」
 何かの間違いだと思ったのに。
「あんたが持ってるの、多分サイズ合ってない。ちゃんと測ってないけどそっちのほうがいい」
 間違いじゃなかった。宗太郎さんがわたしのために用意してくれたものだった。
 ブラジャーの話をされてるって、わからないほうがよかった。なんで宗太郎さんが、そんなこと言うの。なんでそんなことわかるの。
 許容量を超えた羞恥心は熱になって全身を巡る。
 下着を、見られたことはないはずなのに。かけ違えたワイシャツのボタンを直してもらったときだって、タンクトップを着ていたから見えなかったはず。必死に記憶を辿って、すぐ近くにその記憶があったのに気づいた、触られた。胸を、宗太郎さんに。神くんにも。でも、服の上からだったしそれだけで?
 頭に回った熱でもう考えられなくなって、神くんならこの状況から助けてくれるかもしれないって無意識のうちに思って顔を神くんのほうに向けた。
 きれいな笑顔があった。
「俺は一応止めたよ。でも、どれも坂口さんによく似合うと思う」
 笑顔で、そんなこと。つまり、神くんも紙袋の中身を知っていたということで。
「嫌なら、突き返しちゃっていいよ」
 できるわけないことを、神くんが言ったから首を横に振った。
 定期入れも下着、も、きっと二人がわたしのことを考えながら選んでくれたもの。渡せなかったけど、わたしもそうだったからいいほうに想像できた。
「左手出して」
 プレゼントをリュックにしまっていたら宗太郎さんに言われたから何も考えずに左手を出した。
 てのひらを上にしていた左手をひっくり返された。宗太郎さんに触れられた左手は、わたしのじゃないみたいになる。
 左手の薬指に何かを通された。銀色の、輪。
(指輪)
 宗太郎さんに、もう一つの指輪を渡された。今度は宗太郎さんの左手がわたしの前に。
 宗太郎さんの指にはめろってこと?
 わけがわからないまま同じように薬指にはめた。手が震えた。
「坂口さん」
 そのまますぐに左手を神くんに取られた。
 銀色の指輪がまたわたしの薬指に。
「俺にもはめて」
 神くんにも指輪を渡された。四つ目の指輪。見た目はみんな同じ。シンプルな細い輪。
 神くんに言われた通りに神くんの左手の薬指にも指輪を通した。
 それからやっと神くんと宗太郎さんの顔を見た。
「あ、の」
「ずっと渡したかった。高いのはまだ買えないけど、俺たちで作ったやつだから気持ちだけは入ってる。それは、嫌でも受け取ってもらう」
 わたしの左手を見る。銀色の細い指輪が二つ重なって薬指にはまっている。夢みたいで右手の人差指でつついてみた。指輪は幻でもなんでもなくて、ちゃんとそこにあった。わたしの指にぴったりはまって。ぴったり。
「あれ、なんで、サイズ」
 指輪のサイズなんて、自分でも知らない。指輪をはめたの自体だってほとんど初めて。もしかして、見ただけでわかっちゃうの?
「宗太郎が、坂口さんの左手を粘土で作って、それを参考に」
 左手。見られた記憶じゃなくて触られた記憶を思い出した。わたしが宗太郎さんを描いて、宗太郎さんがわたしとクマのぬいぐるみを描いてくれたとき。わたしが宗太郎さんの手を触ったから宗太郎さんもわたしの手を触った。左手の、指の間から爪の先までたくさん触られた。あのとき。
「ちゃんと形になったものがあるほうがあんたもいいだろ」
 この指輪は、何が形になったものなの。欲しかった答えの一つを宗太郎さんから曖昧に伝えられて、わたしは自惚れていく。
 神くんと宗太郎さんの気持ちが形になったものって、思ってもいい?
 わたしのために二人が作ってくれた。それだけじゃない。神くんと宗太郎さんの指にも同じ指輪。わたしがはめた。まるでいつかテレビで見た結婚式の指輪交換みたいに。
 二人には絶対に言えないことを考えて、握り締めた左手を右手で包んだ。てのひらに指輪が触れる。
 それから、まだお礼を言っていなかったって気づいた。
「あ、あの、ありがとう。わたしは、何もあげられなかったのに、あ、何か、お返しを」
 しどろもどろになりながら思いついたことをどうにか口にした。
「欲しいって言ったらくれる?」
「うん、わたしに用意できるものなら」
 神くんが少しだけ困ったような顔をしたのが見えた。でもどうしようってわたしが思う前に笑顔になった。
「欲しいものって言うか、お願い」
「うん」
「今日、ここに泊まっていって」
 泊まる。帰るのは明日。それまで一緒にいられる。
「いいの?」
「え」
 驚かれて、冗談を真に受けてしまったって気づいた。
「ご、ごめ――」
「本当に泊まってくれるの?」
「え、あ、神くんと、宗太郎さんがいいなら、あ、でも、用意とか何もしてないからやっぱり」
「着替えならある」
 宗太郎さんが横に置いていたわたしのリュックを指差した。宗太郎さんからのプレゼントが中に。
「で、でも」
「パジャマもあるよ。こんなときのために坂口さん用に色々買っておいた」
 わたしの目には嬉しそうに見える神くんが言った。
 よくわからないけど、神くんにわたしのことを考えてもらえたのはわかったから嬉しかった。
 左手を見た。貰った指輪、しまっておこうと思って外そうとしたら神くんの手に止められた。
「まだつけてて。時間、たくさんあるからトランプでもする?」
「う、ん」
 三人でトランプ。わくわくした。

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