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うつせみ 04
三時にコーヒーカップの前に集合。観覧車の後、結局何も買わなかったけどおみやげを見て十分前には集合場所に着いて、最初に休んだベンチが空いていたからそこに座って待った。神くんと二人。
空を見上げた。雨、降らなくてよかった。膝に乗せたリュックの上から折りたたみ傘を触る。
「来たよ」
神くんが立ち上がって、わたしも慌てて立ってリュックを背負った。
「ごめんっ、遅れちゃったかな」
走ってきたのか辻さんが息を切らせながら言った。
「いや、時間ぴったり。楽しかった?」
「うん、楽しかったよー」
「乗り物も結構たくさん乗れたしね。神くんたちは?」
「楽しかった。凄く」
門倉さんに答えた神くんの言葉が嬉しいのと恥ずかしいのとでくすぐったかった。
最後は遊園地を出る前に先生たちがいる広場に行って、溝口先生のところで班ごとに点呼を取って解散。辻さんたちともそこでお別れ。手を振られて、振り返して、そんなことを当たり前のことみたいにできた。神くんが隣にいてくれたから。
「俺たちも帰ろっか」
「うん」
神くんとはまだバイバイしなくていい。本当に、当たり前のような流れで一緒に帰れる。友達、みたいに。
解散は班ごとだったから、帰る時間もばらけて同じクラスの人は周りに何人かいるだけだった。神くんの数歩後ろを歩いた。
慣れない電車を乗り換えていつもの電車に乗って、ほっとして気が抜けていくのを感じた。
席は埋まっているから立っているけど朝ほど混んでない。扉の脇の手すりを握り締めて外を眺めた。神くんも同じ扉の反対側の手すりに寄りかかるように立って外を見ている。
そんな立ち姿も一枚の絵みたいで、神くんに気づかれないのなら窓の外じゃなくて神くんをずっと見ていたかった。
神くんが降りる駅が近づいてくる。わたしも一緒に降りて神くんに困った顔、されるところを想像してしまった。
神くんの家に行きたいって言ったら、神くんはいいよって言ってくれた。でもそのことは朝話したきり。神くんは多分、忘れていない。でも。
朝の会話を思い出す。そのまま受け取っていいなら、きっと大丈夫。でも。
目の前の扉が開く。神くんが降りた。足が竦んだ。早く降りないと扉が閉まってしまう。
「坂口さん」
神くんに呼ばれたと思ったら右の手首に神くんの手が。引っ張られて足が動いて電車を降りた。
「なんで降りないの」
「ごめん」
責めるような口調じゃなかったから余計に自分がどうしようもなく感じた。神くんは困った顔なんてしないって頭ではわかっていたのに、わたしは神くんの言葉よりも自分のどうしようもない想像を信じた。
「約束忘れられたのかと思った」
「忘れてないよ!」
神くんは笑いながら言ったのに、思わずむきになってしまった。
「あの、ごめん、忘れてたわけじゃなくて、本当に神くんのうちに行っていいのか、不安になって」
「坂口さんが来てくれるの、嬉しいって言ったのに?」
「……ごめん」
大丈夫だって思う自分と不安になる自分がシーソーみたいに揺れていて、今は前みたいに不安のほうにばかり傾いているわけじゃないから厄介で、面倒くさい。
「坂口さんは、もっと強引でも足りないくらいだよ」
わたしの駄目なところを見ても嫌な顔一つしないでくれる神くん。宗太郎さんだって、嫌な顔はしても受け入れてくれる。
わたしの欠陥は神くんと宗太郎さんの前では透明になる。
「ありがとう」
「ん、何が?」
「全部」
言葉にはできない。
わたしがどれだけ神くんと宗太郎さんでいっぱいになっているか、知ったら二人とも困ってしまうかもしれない。二人がいなくなったらわたしは空っぽになる。
「神くん、行こ」
込み上げてきた涙を無理やり押し込めて、顔を上げないまま言った。神くんもそうだねって言って歩き出した。
お邪魔します。神くんの部屋に上がる。少しだけ広がったわたしの世界。
「そのまま来たのかお前」
ふすまを開けた途端、神くんが部屋の中に向かって言った。神くんの後に続いて入ったらスーツ姿の宗太郎さんがいた。宗太郎さんも来たばかりなのか、ベッドの前で上着のボタンを外しているところだった。
「うちよりこっちのほうが近かったから」
スーツ姿の宗太郎さん。前にも見たことがある。でもそれとは違う。
形がどこか違って、前も黒っぽいスーツだったけど今日のはもっと真っ黒で、ネクタイも真っ黒で、においが。
「宗太郎、さん、なんで、その格好」
声が震えた。
「知り合いの知り合いで、俺も前にちょっと世話になった人が亡くなったから葬式に。これは、父親のお下がり」
真っ黒な服は喪服だ。喪服。嫌だ。このにおいも、嫌だ。
右手の甲で口を押さえた。胃からのどの奥に異物感。出てきそうになって息を詰めた。
「坂口さん、外出よう」
神くんがわたしの肩を掴んだ。向きを変えられて押される。
「ごめん」
外に出たら神くんに謝られた。温い空気を吸い込んで、わたしは首を横に振った。
神くんも宗太郎さんもお母さんと妹のこと、わたしが話したから知ってる。わたしが変な反応をしたのはそのせいだって、二人ともきっと思った。
「違う、ごめん、なんでもない」
「なんでもなくは、ないよ。それ」
「でも、違うの」
そのせいだなんて思われたくない。わたしはもう大丈夫。思い出したくらいで、こんなふうになるわけない。
「あ、朝気持ち悪くなったのが、また――」
神くんに抱き締められた。息をする度に神くんのにおいでいっぱいになった。
「本当に、違うよ」
声が震えて体も震える。近すぎるのは怖い。
「ん、わかった。ごめん」
神くんが離れる。離れても鼻ににおいが残る。神くんのにおい。
「中、入る? それとも帰る?」
中には、宗太郎さんがいる。いつもと違う格好でいつもはしないにおいがするけど宗太郎さんは宗太郎さんで、今日は本当は会えないはずだったのに会えたから嬉しい。
「入る」
宗太郎さんは、上着を脱いでネクタイも外していた。さっきはクーラーがついていて開いていなかった窓も、開いてカーテンが揺れて冷たい空気と温い空気が混ざっていた。あのにおいも、薄まって心の準備もできていたから今度は大丈夫だった。大丈夫。
宗太郎さんはテーブルの右側に座っていて、神くんは左側に腰を下ろして、わたしもふすまを背にしていつもの場所に座る。
「今日どうだった」
「うん、楽しかった、よ」
駄目だ。言ってから気づいた。宗太郎さんは今日は。
「ごめん」
「百近い人で周りも大往生だったって言ってる。今日のも、多分あんたが想像してるようなのとは違う」
やっぱりわたし、駄目だ。さっきからずっと二人に余計な気を遣わせている。
「今日、三時前には戻ってきてるって言ってなかった?」
「焼香だけのつもりだったけど、杉浦さんと一緒に色々挨拶してたら遅くなった」
神くんが尋ねたのに宗太郎さんが答える。
杉浦さん、が宗太郎さんの知り合い?
百歳近くの人と知り合いで、宗太郎さんがさん付けで呼んでいるから多分年上。男の人、女の人。どっちだろう。どんな知り合いなんだろう。訊いてみたかったけど、なんて言えばいいのかわからなくて何も訊けなかった。
神くんと宗太郎さんの会話もすぐになくなって静かだった。
音が何もないわけじゃないのに静かすぎて怖くなって顔を上げた。左側には神くん。右側には宗太郎さん。
宗太郎さんがわたしを見ている。神くんもわたしを見ている。
顔が、一気に熱くなった。
普通にしようと、思った瞬間普通は遠くなる。わたし、いつもどうしてたっけ。
神くんと宗太郎さんに見られている。二人の目に映っているはずのわたしを想像するだけで息もしにくくなる。
二人はわたしを見て、わたしはどこを見ればいいの。真っ直ぐ前を向いても視界に神くんと宗太郎さんが。
「夏休み、どうする?」
何も見なければいいんだって気づいてまた下を向こうとした瞬間神くんが言った。わたしに向かって。
「どう、って」
「せっかくの長い休みだし、三人でどっか行くとか、どこにも行かなくても一緒にいたいと思って」
神くんは夏休みの予定、わたしのことも入れて考えてくれている。
どうしよう。
嬉しい。
凄い。
わたしが誰かの、それも神くんの予定に、ちゃんと入れてもらえるなんて。
嬉しい。
でも駄目。夏休みは。
「夏休みは、わたし、駄目で。ごめん」
「……どっか行くの?」
神くんの視線から逃げるようにわたしは黒いテーブルを見つめた。
「夏休みはずっと、親戚の家に」
「ずっとって、いつからいつまで。親戚の家ってどこ」
「ずっとはずっとで、親戚の家は、遠いところ」
宗太郎さんにいっぺんに訊かれて考える前に答えたけどちゃんと考えなかったから二人とも嘘だってきっと気づいた。
「一日だけでも、空けられない?」
神くんはやさしいから触れないでいてくれた。宗太郎さんは、もしかしたら呆れたのかもしれない。ため息を一つついただけで何も言わなかった。
「一日、って」
「三十一日。七月の」
神くんの声が途中で一瞬遠くなった。
なんで、その日。
「ごめん」
「どうしても?」
「うん」
でも。
「他の日なら、一日だけなら」
ずるい。わたしに一番甘いのはわたし。本当は、一日だけでも駄目なのに。今度こそ、ちゃんとしないといけないのに。
「三十一日じゃないと意味がない」
顔を上げて宗太郎さんのほうを見た。目が合った。怒ってる顔だった。
「なん、で」
「誕生日。坂口さんの」
宗太郎さんに訊いたら神くんが答えてくれた。
わたしの、誕生日。
二人には言ったことない。言ったことがあるのは、つんつん頭。つんつん頭が二人に言ったんだ。
「お祝いしたいから」
神くんの声はやさしい。体中に沁み込む感じ。わたしの次にわたしに甘い神くんと宗太郎さん。
誕生日を二人に祝ってもらえる。夢みたい。でも三十一日は、その日だけは。
「ありがとう。でも、ごめん」
「なんで」
宗太郎さんに訊かれてぐらりと揺れる。
二人に言わないでいたのは、わたしが苦しくなりたかったから。言ったらわたしはまた神くんと宗太郎さんに寄りかかる。それにこんなこと、言われたって困る。
「俺たちには言えないこと?」
甘くてやさしい神くんの声もわたしを揺らして、ぐらぐら揺らして、揺れたらわたしは簡単に崩れてしまう。
神くんと宗太郎さんにはあの日話した。だからそれがいつだったのかを言ったって何も変わらない。変に隠せば二人は気にするってどこかでわかってた。苦しくなりたいって言いながら、わたしは二人にこうやって心配してもらいたかったのかもしれない。
うまくできない隠し事ならしないほうがまし。
これは、わたしの本心? それとも自分を甘やかす理由を作ろうとしているだけ?
考えてもわからなくてどっちでもよくなった。
どっちでもいい。
だから、言ってしまえ。
「その日は……さん、が」
声を、出して。
「その日は」
スカートを握り締めて、目もきつく閉じる。
息を深く、吸い込んで。
「お母さんが、死んだ日だから」
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