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 うつせみ 03

 目を開けたらまだ遊園地にいた。目を閉じていただけなのに夢から覚めたときみたいに色々なものがぐちゃぐちゃに混ざってわからなくなる。
 ここは遊園地で、まだ遠足は終わっていない。隣には神くんがいる。本当にいる? いないかもしれない。いなかったらどうしよう。全部夢だったらどうしよう。
「そろそろお昼にする?」
 わたしが視界の端にあるものを確認する前に神くんの声がした。
「もうすぐ一時だし」
 びっくりして神くんのほうを見た。だって、ここに座ったときにはまだ十一時にもなっていなかった。
「神くん、ずっとここにいた?」
「ん。一回トイレには行ったけど」
 どうして笑顔なの。どうしてそんなにやさしい声なの。
「ごめんわたし、寝てたつもりはなくて」
 二時間も、目を閉じて黙ったままのわたしの隣に。神くんは多分わたしに声をかけてくれたはず。でもわたしはそれにも気づかなくてなんの反応もしなかった。
 もし逆の立場だったら、わたし凄く困る。神くんも嫌な気持ちになったかもしれない。うまく話せなくても、こんなことするよりずっとよかった。
「ごめん、本当に――」
「ちょっと寂しかった」
 もう一度見たら神くんは笑顔のまま。
「でも、この穴埋めはそのうちちゃんとしてもらうから気にしなくていいよ」
「わた、し、何、すれば」
「そうやって、俺のこと見て俺のことだけ考えて」
 冗談。なのかよくわからなかった。
 神くんが立ち上がる。
「向こうにレストランあるみたいだから行こう」
「うん」
 わたしも立ち上がった。

 レストランは思ったよりも人が少なくて、知っている人もいなかったからよかった。
 クリーム色の壁の明るい店内。案内されたのは奥のほうの席。すぐ横のガラス越しに外が見えて落ち着かない。
 神くんはカツカレーとチョコレートパフェ、わたしはチキンドリアにした。ずっと休んでいたからか気持ち悪いのもいつの間にかなくなっていた。レストラン、来たの凄く久しぶりだったから緊張したけど神くんが何がいいか訊いてくれて、わたしの分も一緒に注文してくれたから何も言わなくて大丈夫だった。
 おしぼりで手を拭く。向かいに座っている神くんに見られているかもしれないって思ったら顔は上げられなくて、手をずっと拭いていた。
「拭きすぎ」
「あっ」
 声と一緒に両手をばしっと包まれた。神くんの両手に。熱い。
 神くんの手はすぐに離れた。わたしもおしぼりを置いて自分の手を引っ込めてテーブルの下で握り締めた。離れても感触は残る。手を繋いだときの感触も思い出して、心臓が。神くんの手。触って、眺めるところを想像した。思う存分眺めて、それから。
「ごはん食べて、観覧車にでも乗っておみやげとか見たららちょうど待ち合わせの時間になるね」
「そうだ、ね」
 会話を続けられない。神くんにつまらないって思われているかもしれないって思ったけど、そんなの今さら。わたし相手に楽しくおしゃべりできないことくらい、神くんはもう知ってる。でも、たまには、少しくらいは。
「あ、の」
 顔を上げたら神くんの笑顔とぶつかった。いつもここで目を逸らしてしまう。
「何?」
 目を、逸らさないように。神くんの目もわたしを見たままで、顔がどんどん熱くなっていく。
「神くんが、ア、アルバイトしてるコンビニってどこ?」
 そこまで言ってもう限界だった。神くんから目を逸らしてテーブルを見た。
「うちの近所。駅とは方向が違うから坂口さんは知らないかも」
「そう、なんだ」
 また会話が止まる。いつもどうやって話してたっけ。
「あ、家庭教師のアルバイトは、えと」
 無理矢理続けようとしたけど言葉が出てこない。
「あの、あ、う」
 神くんに訊きたいことはたくさんあるのにちゃんと話そうって思うとそれすらも出てこなくてどんどん焦っていく。
「ごめん、あの」
「家庭教師は、父親の知り合いに頼まれてやってるんだけど時給はいいし結構楽しいよ」
 もう一度顔を上げた。神くんは笑顔のままでいてくれる。
「じゃ、じゃあ、神くんは将来、学校の先生とか、に」
「先生なら俺よりも宗太郎のほうが向いてる。俺は、将来のことはまだあんま考えてない」
 意外だった。先生に向いてる宗太郎さんと、将来のことをあまり考えていないという神くん、どっちも。なんでもできる神くんは夢いっぱいで、そういうこといっぱい考えてるって勝手に思っていた。
 宗太郎さんは、どんな先生になるんだろう。
「神くんはきっと、なんにでもなれるね」
「どうだろう。でも、目標はできたからどうでもいいとは思わなくなったよ」
 目標のことも気になるけどそれよりも。
「どうでもいいって、思ってたの?」
「ん、思ってた。宗太郎と違って、俺には何もなかったから」
 わたしから見ればなんでもできてわたしにはないものをたくさん持っているはずの神くん。神くんにも悩みがあることを知っていてもちゃんとわかっているわけじゃない。
「わたしが神くんだったら、人生薔薇色だって思いそう」
 言ってから無神経だったかもって思ったけど、神くんはなんでもないことみたいに笑った。
「坂口さんにはそう見えるんだ」
 今度は結構喋れたって思ったらまた会話が止まった。コップに手を伸ばして水を一口飲んだ。
 コップを置いて息を吐いて、トイレに行きたくなった。
「トイレならあっち」
 きょろきょろ辺りを見回していたら、神くんがわたしの左のほうを指差した。
「え、あ」
 顔、熱くて赤くなってないといいなって思ったけど赤くならないの、無理だった。
「あ、あの、じゃあ、ちょっと」
 神くんのほうは見られないまま立ち上がった。トイレを探してたこと、気づかれたくなかった。

 手を洗って、鏡で自分を見たら神くんのところに戻れなくなった。こんなに酷いわたしを、ずっと見られていた。朝ちゃんと梳かした髪はいつの間にかぼさぼさになっているし、顔だって変なふうに赤い。
 戻れないけど戻らないと。髪は手で直して、冷えた店内でも引ききっていなかった汗をハンドタオルで拭う。何度も深呼吸する。
 戻る。神くんのところに。今、わたしには戻る場所があるんだ。

「お帰り」
「あ、ただ、いま」
 戻ったら神くんが笑顔でくれた言葉に泣きそうになって、自分が今どんな顔をしているのか想像するのはやめた。
 テーブルの上には頼んだ料理がもう並んでいた。
「食べよ」
 神くんに頷きながら座って、二人で一緒に「いただきます」。
 チキンドリア、一口食べたら熱くて慌てて水を飲んだ。
 普通に喋るのだって難しくて、ごはんを食べながら喋るのはもっと難しい。
 会話がないまま最後の一口がなくなって、スプーンを置いて顔を上げたら神くんと目が合った。神くんはわたしよりも早く食べ終わっていたみたいだった。
 わたしはすぐに目を逸らして水を飲む。それから窓の外を見た。
 神くんがいなかったら、わたしは今どうしていたのかな。お昼は食べられなかったかもしれない。
 神くんがいなかったら。神くんと宗太郎さん。二人がいないわたしはどうなっちゃうのかな。
 涙が込み上げてきそうになったから唇を噛んで、一度深呼吸してから神くんのほうを向いた。神くんのワイシャツのボタンを見つめる。
 ウェイトレスさんがお皿を下げに来て、少ししてから神くんが注文していたチョコレートパフェが来た。
「坂口さんも食べる?」
 どんどん減っていくチョコレートパフェを見ていたら、神くんがアイスをすくったスプーンをわたしに差し出した。
 そんなつもりで見てたわけじゃなくて、焦って首を横に振った。
「い、いい。ありが――」
「はい、あーん」
 ちょっと意地悪な笑顔だったから、わたしが食べるまでは神くんはこのままだって思った。
 トイレの鏡で見た自分の顔を思い出す。今はきっとそれよりも酷い顔になってる。
「どうぞ」
 神くんの声に促されて口を開けた。
「おいしい?」
 冷たいアイスが熱い。
「うん」
 熱いアイスを飲み込んで頷いた。

 息がしにくい。体の震えもなかなか治まらない。
 少し並んで乗った観覧車。だんだん高くなって、向かいには神くんが座っていて、それはレストランでも同じだったけど今は間にテーブルも何もなくて狭い空間に二人きりだった。
「高いところ苦手?」
 ずっと下を向いていたからか、神くんに訊かれて顔を上げた。
「苦手、なのかな、わかんないけどちょっと怖い、かも」
 高さと神くん、どっちに心臓が反応しているのかわからなかった。両方?
「景色いいよ」
 神くんは顔を横に向けて外を見ていたから神くんの横顔をちゃんと見られた。神くんは横顔もきれい。近いのに遠い。透明な壁の向こう側にいるみたい。
 右手を神くんに伸ばした。見えない壁はやっぱりなくてわたしの手には何も触れなかった。何やってるんだろう。わたし。
 急に神くんがこっちを向いて慌てて手を引っ込めようとしたけど間に合わなかった。神くんの左手がわたしの右手を掴んだ。
 温かくて大きくて、わたしとは全然違う、他人の手。それも、本当なら凄く遠くにいるはずの人の。
 神くんの手はわたしには熱すぎて燃えてしまいそう。
 わたしの手を握る神くんの手を見つめる。顔を上げなくても神くんがわたしを見ているのがわかる。だから余計に顔も熱くなる。神くんは変だ。宗太郎さんも変。わたしの手を握っても楽しいことなんて何もない。一緒にいてもわたしは何もできない。嫌な思いばかりさせてしまう。
「坂口さん」
 今まで何度も考えたことをまたぐるぐる考えそうになるのを神くんの声に止められる。
 声がうまく出そうになかったから、返事の代わりに顔を上げて神くんの喉仏を見た。空いている左手でなんとなく自分の喉を触ってみた。
「今日はありがとう」
 わたしが言わないといけない言葉を口にしたのは神くんだった。
 ありがとう。この間も神くんはわたしにそう言ってくれた。
 右手を少しだけ自分のほうに引いた。するりと神くんの手から抜けて膝の上に置いて左手で握り締めた。
「遠足」
 声が出たからそのまま続けた。
「わたし、遠足とか好きじゃなくて、いつも凄く憂うつで」
 神くんと宗太郎さんならひとりでいることくらいなんでもないかもしれないけど、わたしは何もないところにひとりで自分の居場所を作れない。
 だからいつもわたしの居場所はどこにもなかった。でも今日は神くんがいてくれた。神くんがわたしの居場所を作ってくれた。
「今日、本当に嬉しかった。神くんに謝らないといけないこともあるけど、ありがとうもいっぱいあって」
 簡単に溢れそうになってしまう涙みたいに言葉が出てくればいいのに。
「今日一緒にいてくれて、本当にありがとう」
 いつも一緒にいてくれてありがとう。
「……ん」
 神くんが短く答えて、観覧車の中はまた静かになった。体はまだ少し震えていたけど息をするのは楽になった気がした。
 神くんのほうを見る勇気がなかったから顔を横に向けて外を見た。もう一番高いところは過ぎたみたいだった。
 遠くまで見える少し霞んだ街並みも雲に覆われた灰色の空も、全部苦しいくらい幸せな思い出になっていくのがわかった。

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