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嘘吐き02
中間テストは、あっという間に終わった。いつもよりたくさん勉強できた。神くんのおかげ。
「よく頑張ったわね」
数学の答案が返されるとき、穂高先生が小声で言った。言われたことの意味がよくわからなくて、答案を見てびっくりした。九十一点。神くんに教えてもらって、だから悪い点なんか絶対に取れなくて、一番頑張った。夢かと思ったけど夢じゃなかった。よかった。
英語は九十四点で、現代文は八十五点だった。これなら神くんに見せられる。他の教科もいつもよりよかった。
結果は神くんの家で見せ合うことになっていたから、数日ぶりに神くんの家へ。神くんの後ろ姿を見るのは好き。わたしも神くんみたいに綺麗に歩けたらいいのに。
宗太郎さんは今日もいた。テーブルの右側。頭を下げたら、また来たのかみたいな顔をされた。
宗太郎さんのことは気にしないようにして、いつもの場所に座って答案用紙三枚を、いっせーのーせで出した。
百点が二つ、目に飛び込んできた。現代文だけ九十八点。
わたしが邪魔したせいで神くんがちゃんと勉強できなかったらどうしようって、心配したのは余計なことだった。神くんにはそんなの関係なかった。
字、凄く綺麗。わたしのはノートも答案もぐちゃぐちゃで汚い。今頃になって恥ずかしくなった。
神くんに勝てるなんて思ってなかったけど、神くんはわたしが思っているよりずっと、遠い人なのかもしれない。
「凄い、ね」
「俺、二回目だし、今回は頑張ったから。それに坂口さんのほうが凄いよ。数学苦手だって言ってたのに」
「や、それは、神くんのおかげで、本当に、ありがとう」
「いえいえ。でも、とりあえず今回は俺の勝ちってことで」
勝負。負けたほうが勝ったほうの言うことを何でもきく。そういうことになっていた。
「あ、わたし、何すれば」
「何したい?」
「え」
ここで訊き返されるなんて思わなかったから、凄く変な顔をしてしまった。
「宗太郎は坂口さんに絵のモデルをやってもらいたいって馬鹿なこと言ってるけど、それは無理だし」
「別に、無理じゃ」
「ヌードモデルでも?」
「……無理、です」
よく考えたら、宗太郎さんがわたしの裸なんか描きたいと思うはずがなかった。もっと綺麗な人で、宗太郎さんが頼めばOKする人はきっとたくさんいる。もしかして、からかわれた?
「何でも、って言っても限度があるしね」
うーん、と神くんが伸びをして空気が動く。
「じゃあ、肩揉んで」
勝負しようって、いきなり言われてびっくりしたけど、本当は凄く嬉しかった。テストの点、見せ合ったりとか、友達、みたいで。
それに神くんはやさしいから、わたしにもできることで考えてくれたんだと思う。だから、これは無理だって言えない。
足が少し痺れていたから、膝をついたまま神くんの後ろに回る。近い。神くんはブレザーを脱いでいてワイシャツ一枚。もうすぐ衣替えの季節なのを思い出した。
神くんの後ろ姿は見るときは、いつも離れている。こんなに近くない。後ろ姿。わたしは神くんの前の席。見たくなくても、神くんの視界にどうしたって入ってしまう。いつも、こんなふうに神くんに、見られて。
近すぎる距離に余計なことを考えていたらつむじが目に入って、思わず人差し指で押しそうになったけど、宗太郎さんが睨んでいることに気づいたから慌てて引っ込めた。
「わ、わたし、マッサージとか、下手で」
「ん、大丈夫」
気づかれないように何度か深呼吸をしてから、両手を持ち上げる。肩を揉むには触らないといけない。神くんの肩に、手を、置かないと。知らない肩。背中も広い。
肩を揉む前からこんなにどきどきするのはおかしい。
別に、神くんに触るのは初めてじゃない。手だって繋いだことがある。
キスだってしたこと、が。キス。って。
(だめ)
思い出さなかったことにしようとしたけどできなかった。
「……孝太郎」
「ん?」
宗太郎さんが顎をしゃくったのが見えた。こっちを向いた神くんと、目が合った。神くんの肩を揉むつもりで持ち上げていた両手は慌てて下ろした。
「坂口さん」
声は出なくて代わりにつばを飲み込んだ。
「顔、真っ赤。何か思い出した?」
どうして、神くんはいつも何でもわかっているような顔で訊くの。後ろにずれようとしたら、足が硬いものにぶつかった。ラジカセがあったのを忘れていた。
「あんまり可愛いと食べちゃうよ」
可愛いという言葉は聞こえなかったことにして、神くんに頭からぼりぼり食べられているところを想像した。少し気持ち悪くなった。でも恥ずかしさは消えてくれない。
「そろそろ、帰らないと」
「肩揉みは?」
「ごめ、ん」
神くんを見ているのも恥ずかしくて下を向いて目を閉じた。
「じゃあその代わりに」
神くんが動いたのがわかったけど、その後何が起こったのかすぐにはわからなかった。
首の後ろを何かに押された。バランスを崩してとっさに掴んだのはさっきまで見ていた白いワイシャツ。わたしではない人の体を感じた。
一瞬開けた目をまた閉じたのは、口に当たったものがあったから。ごめんも言えなかった。
唇に触れていたものが離れていくときに、首の後ろを押さえていたのが神くんの手だということに気づいた。
「肩揉みは、また今度ね?」
とても近いところで声がしてから目を開けた。とても近いところに神くんの目があった。
「駄目だよ。こんなの、やっぱりおかしい」
神くんの目を見たまま。言葉が勝手に出てきた。
それから神くんに体重をかけるみたいになっていたから、慌てて離れた。ワイシャツの右肩と左腕のところが少ししわになっていた。多分わたしが掴んでしまったところ。
「ごめん」
それだけ言って、さっきと同じように膝で歩いて元の場所に戻って正座した。出しっぱなしになっていた答案もしまって、息を吐き出した瞬間、後悔した。
ずっと、心のどこかにひっかかっていたこと。
想うだけならまだよかったのかもしれない。
汚いわたしは想われている幸せを知って、見ないふりをしてしまった。これからも、するつもりだった。のに。
「何が、おかしいの」
笑顔ではない神くんが真っ直ぐわたしを見ていた。わたしはすぐに目を逸らす。
「二人の人と、こんなこと、したりするの」
夢のようで確かに現実だったあのとき。二人の熱を、わたしは知ってしまった。こんなこと、あっていいはずない。
「こんなことってどんなこと」
絶対にわかっているはずの神くんに問われて、わたしは答えないといけない。
「だから、あの……キ、ス、とか」
自分で言って、消えたくなった。
「だから、こっちはとっくに覚悟を決めてるって言っただろうが」
怒った声で言ったのは宗太郎さんだった。それに、と神くんが続ける。
「俺は坂口さんが宗太郎を選んだら諦めるつもりだったし、宗太郎も同じつもりでいた。選べなかったのは坂口さんだよ」
だから二人とも諦めないといけないと思った。でもできなかった。神くんも今まで通り二人を見ていていいと言ってくれた。わたしはそれに甘えてしまった。
「だったら、俺か宗太郎か、今選ぶ? それもできなくて俺たちといるのが嫌なら」
とても怖いことを、神くんが言おうとしているのがわかって、もう何も考えられなかった。
「もうやめる? 俺たちから離れる? 坂口さんがそうしたいなら止めな」
「やだ!」
自分でもびっくりするくらい大きな声が出た。
「そんなの、やだ。できない」
泣くのだけは必死に堪えた。
二人はいつかわたしの前からいなくなるかもしれないけど、今はまだそこにいる。
「だったら今まで通りでいいだろ」
「でも、わたしだったら、耐えられないよ。好きな人が他の人と、キ、キス、したりするなんて、嫌だよ」
宗太郎さんが大きな溜め息をついたのが聞こえた。
もしかしなくても、凄く自惚れたことを言った。わたしにとっての二人と、二人にとってのわたしはきっと同じじゃない。
どうしようもない事実。悲しいけど、そのほうが楽でいいのかもしれない。
「あのね、俺たちだって平気なわけじゃないよ。でも」
神くんの右手が、わたしの頭に置かれる。重みで、余計に泣きそうになった。
「坂口さんが一人を選べなくてどっちもって言うんなら、俺たちには諦める理由はないし諦められない。俺が諦められるのは、坂口さんが宗太郎を選ぶか、本当にどっちも嫌だって言うときだけだよ」
全部、わたしのわがままだ。一人にすることも、二人とも諦めることもできないで、望み通りになってもそれが嫌だなんて。
二人の傍にいたいという一番のわがまま。このまま。通してしまえば。
罪悪感。そんなもの、今までみたいに見ないふりをすればいいだけ。簡単なこと。
どんなにおかしくてもいい。今は。
どうせいつかは離れていく人たちだから。きっとわたしに好きなんて言ってくれる人はもう二度と現れないから。
今のうちに一生分の夢を見てしまおう。
だから、終わりがくるまでは。
「ごめん」
「謝んなくていい」
そう言って、宗太郎さんが立ち上がった。
「早くしろ」
わたしの前に左手。何も考えずに右手を上げるとそのまま手首を掴まれて、引っ張られるようにしてわたしも立ち上がる。慌ててリュックも持った。神くんと目が合う。
「ごめん」
目を逸らす前に。言ったのはわたしじゃなくて神くん。
「何、が?」
思わず訊いたら神くんは小さく首を横に振った。
「何でもない。それじゃあ、また明日、学校で」
「う、ん。それじゃあ」
何でもない顔じゃなかった。泣きそうな、顔。
一度、神くんが泣いたのを見たことがある。あのときは、本当にびっくりした。どうして泣いたかなんて、訊けるわけがないから謎のまま。見たのはほんの一瞬だったけど、流れた涙は今も目に焼き付いている。
「もう少し何とかしろ。その、馬鹿みたいなの」
家の前、今日も途中で会話はなくてあとはバイバイだけ。わたしの手首を掴んでいる宗太郎さんの手を見ていたらいきなり言われて、宗太郎さんの眼鏡の縁を見た。
「あんたも一応女だし、こっちだっていつまでも我慢できるとは限らないし、あとで痛い目見るのはあんただから」
痛い目ってどういう目。実際に口には出さなかったのに何故か宗太郎さんには伝わってしまったみたいだった。掴まれたところが痛い。痛い目ってこういう目?
「そういうつもりがあるなら別にいいけど、ないならもっと考えて行動しろ」
よくわからないけど、宗太郎さんに怒られているのかもしれない。もう一度手首を見る。
「伊織」
名前を呼ばれたから顔を上げて宗太郎さんののど元を見た。目を閉じろと言われた。名前を呼ばれて嬉しかったから言われた通りにした。すぐ近くに気配を感じて思わず息を止めた。
「……馬鹿女」
目を開けたときには宗太郎さんはもういなかった。右手の甲で口を押さえた。やさしく触れていったのは、宗太郎さんの。
(ずるい)
あんなふうに、名前を呼ぶなんて。名前。もっと、呼んでほしいと思ってしまった。
しばらくそのままでいたら、前をバイクが通ってそこが外だということを思い出した。人通りの多い道じゃないから、さっきのは多分誰にも見られなかった。大丈夫。
いつもなら家に帰るとほっとする。でも今日は寂しい。この家はわたしの唯一の居場所だけど誰もいない。神くんも宗太郎さんもいない。
鍵を閉めてチェーンをかけた。薄暗い廊下。埃の匂い。目を閉じる。
これがわたしの世界。わたしの現実。忘れないように、何度も自分に言い聞かせた。
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