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嘘吐き01
「昨日は弟が迷惑かけたみたいで、ごめん。弟にはよく言って聞かせておいたから」
朝の二人きりの教室で、おはようの後に神くんが言った。
「め、迷惑じゃないよ別に。わたしも、色々貰っちゃったし。あ、宗太郎さんが何か、怒ってた、けど」
「ああ、それは気にしなくていいよ。宗太郎が勝手に怒っただけだから」
一昨日神啓太郎という人から突然電話があった。神くんと宗太郎さんの弟で一度会ったことのある人だった。
昨日その人がうちにやって来た。バナナケーキとアルバムを持ってきてくれた。怖い人だと思っていたけど、もしかしたらいい人なのかもしれない。でもやっぱりうまく話せなかった。
バナナケーキはお母さんが焼いたらしい。おいしくてあの人が帰った後に全部食べてしまった。アルバムは最初の一ページだけ。わたしの知らない二人の写真。小さくて可愛くて、その先はもったいなくてまだ見てない。宝物が一つ増えた。
「写真まで勝手に持って行ったみたいで」
「あ、うん、大切にするね」
「え」
思わず神くんの顔を見たら、びっくりしたみたいな顔で、わたし、何か変なことを言った。何を。
(大切に)
「あ、ごめ、ごめん。わたしが持ってたら、気持ち悪いよね。明日持ってく」
「いや、そうじゃなくて。大切にしてもらえると、嬉しい。です」
三人目の人が教室に入ってきて、わたしは慌てて前を向く。アルバムは、わたしが持っていてもいいみたい。嬉しい。
神くんと同じクラスになってから、夢みたいなことが起こりすぎて時々ついていけなくなる。
この間も、とても変なことがあった。でも神くんも宗太郎さんも何もなかったみたいにしているから、わたしもあれは夢だったのだと思う。あんなことが現実にあったなんて思ったら、二人と顔を合わせられない。
二人と。二人。あんな、ことを。
顔が熱くなって、胸の辺りが重くなって苦しくて、考えるのをやめた。今はまだ。夢を。
「勝負しよう」
と、神くんが突然言い出したのは、その日の昼休み、女子トイレの前だった。びっくりして手を拭いていたハンカチを落としそうになった。とっさに周りを見たけど近くに人はいなかった。
「中間試験、英語と数学と現代文の合計点が高いほうが勝ち。で、負けたほうは勝ったほうの言うことを何でもきく。どう?」
どうって、訊かれたから答えないといけない。言われたことをもう一度頭の中で繰り返して意味を理解する。
「えと……なんで……?」
「駄目?」
「駄目じゃ、ないけど」
心臓が痛いのはいつものこと。自分を誤魔化しながら何でもないふうに答える。
「じゃあ、決まり。あ、勉強、わからないところがあったら何でも訊いて」
「え」
「ほら、俺二回目だから。ハンデ」
神くんの顔は見られなかったけど、多分笑顔を浮かべていた。
中間テストまであと一週間しかない。勝負。することになってしまったみたいだから、多分点数も見せないといけない。悪い点を取ったら呆れられる。神くんに勝てるはずないけど、頑張らないといけない。
英語は、覚えれば多分大丈夫。現代文は実際にテストを受けないとわからない。問題は数学。授業、あまりついていけていない。元々数学は得意じゃない。四月にあった課題テストは五十九点だった。二年になってからもっと苦手になった気がする。
神くんに教えてもらうのは、凄くどきどきするけど、丁寧に説明してくれるからわたしでも理解できる。わからないところがあったら訊いてもいいって、神くんは言ってくれた。だから。
「数学、教えて、ください」
じゃあうちでやろうって言われて、また神くんの家に来てしまった。
「何か飲む?」
「や、いいです」
今日も重いリュックの中から数学の教科書とノートを出した。テーブルを挟んで向かいのベッドに、宗太郎さんが座ってこっちを見ていた。宗太郎さんがいるなんて、聞いてなかった。
神くんがテーブルの左側に座って勉強開始。どこがわからないかもわからないって言ったら、とりあえず問題を一つずつ解いていくことになった。宗太郎さんが何故かベッドからテーブルに移動してきた。
神くんはやっぱりやさしく教えてくれて、宗太郎さんには馬鹿ってたくさん言われた。宗太郎さんも数学得意なのかな。
どきどきを誤魔化すために頑張って勉強に集中して気がついたら五時を過ぎていた。
「ごめん、こんな時間まで」
「いや、俺も復習になるし。全然大丈夫」
教科書とノートをしまっていると、眺めていた雑誌を置いて宗太郎さんが立ち上がった。
「送ってく」
「え、あ、一人で帰れるから」
「宗太郎に送らせてやって。ね?」
断れなかった。
よく考えたら宗太郎さんと一緒に歩くのは初めてだ。歩く後ろ姿を見て気づいた。歩き方、神くんと少し違う気がする。どこが違うんだろう。じっと見ていたら宗太郎さんが急に立ち止まって振り返った。わたしも止まる。
「遅い」
数メートル先を歩いてた宗太郎さんが目の前に。右の手首を掴まれた。
「え、なん、で」
手首、掴まれたまま引っ張られて歩いた。宗太郎さんは前を向いたまま何も言わなかった。手も離してもらえなかった。
駅に着いてやっと宗太郎さんの手が離れていった。切符売り場の前。宗太郎さんは切符を買って改札を通った。送ってくれるのは駅までだと思っていたのにそうじゃないみたい。
わたしが改札を通った後、また宗太郎さんの左手が伸びてきてわたしの手首を掴んだ。
「離して」
「離さない」
それで終わりだった。電車に乗るときも離してもらえなかった。周りにたくさん人がいて、わたしは凄く恥ずかしいのに宗太郎さんはどうして平気なんだろう。
「明日も送る」
電車の音の間から聞こえた言葉にびっくりして宗太郎さんを見上げた。
「明日は、行かない」
流れていく景色を見ていた宗太郎さんの顔がわたしのほうを向いて、わたしは慌ててまた足元に視線を落とした。
「なんで」
「だって、迷惑、かかるし」
「迷惑だったら最初から呼ばない」
電車の中なのに、泣きそうになった。
幸せすぎて怖い。最近そう思うことが多い。
自分ではない人の熱を感じている手首。どくどく脈打っているのが宗太郎さんにも伝わってしまっているかもしれない。
宗太郎さんの左手は、改札を通るときだけ離れてそれ以外は家までずっと離れなかった。電車に乗っているときも歩いているときも、わたしはずっと足元を見ていた。顔は上げられなかった。
家の前まで来て、少しだけ顔を上げてお礼を言った。でも宗太郎さんの手は離れていかなかった。
「手、離して」
「言うまで離さない」
電話でのやりとり。宗太郎さんは絶対に言わないと思ったのに、あっさり言ってしまった。嬉しいよりも、びっくりして怖かった。耳に響いた声を思い出して、痛い。
「しつこい、よ」
「俺が言ったらって言ったのは、あんただ」
手、引っ張ってみたけど意味がなかった。少しも動かなかった。
「でも、なんで。わたしが、言ったって、気持ち悪いだけだし」
宗太郎さんの手に力が入ったのがわかった。痛い。
「いいから、言え」
宗太郎さんは言うまで本当に離してくれそうにない。でも。
「言え、ない」
「どうして」
自分の気持ちを人に伝えたことなんて、今までなかった。伝えても拒絶されることは目に見えていたし、そんな勇気もなかった。好きな人は、いつも遠くから見ているだけだった。でも、今なら。宗太郎さんはわたしが言うのを待っている。今ならもしかしたら。
(やっぱり駄目だ)
だって。
「だって」
どんな顔をして言えばいいのかわからない。
「わたし」
好き、なんて。
「宗太郎さんだけじゃない」
二人の人を好きなんて、どんな顔をして言えばいいの。
「だから、何」
宗太郎さんはいつもと同じで少し怒ったような顔をしていた。
「そんなことはとっくに知ってるし、覚悟もして今ここにいる」
真っ直ぐ、わたしを見て。宗太郎さんはいつも真っ直ぐ、わたしみたいに逃げたりしない。
覚悟ができてないのはわたし。
「ごめん、やっぱり、言えない」
左手が離れていった。宗太郎さんは何も言わないで行ってしまった。
掴まれていた手首は少し赤くなっていた。温もりはもうないのに、まだ掴まれているような気がした。
次の日もその次の日も、結局土日以外は中間テストが始まるまで毎日学校の帰りに神くんの家で数学を教えてもらった。宗太郎さんにも毎日家まで送ってもらった。会話はほとんどなかったけど、宗太郎さんの左手はずっとわたしの手首を掴んでいた。
「本当に、ありがとう」
「どういたしまして」
最後の日。神くんがチョコレートケーキを出してくれた。三人で一緒に食べる。
「神くん、教え方、うまいね」
チョコレートケーキがおいしかったから、少し浮かれていたのかもしれない。
「ああ、うん、バイトで家庭教師もやってるし」
「あ、そうなんだ。知らなかった」
家庭教師も、ってことは、他にも何かやっているかな。知らないことばかり。
「教えてるのは中二なんだけど、すっげえ可愛いよ」
わたしが、調子に乗って、浮かれていたから。
神くんに勉強を教えてもらっている可愛い中学生。想像したら苦しくなった。
「くりくり坊主で」
神くんに勉強を教えてもらっている可愛いくりくり坊主の中学生。あれ?
「女の子じゃなくて安心した?」
汚いわたしを見透かしたような綺麗な笑顔で。
「うん」
ほっとして、口が滑った。
顔が、一気に熱くなった。
「そいつも可愛いけど、坂口さんはもっと可愛い」
神くんの一言で、とどめをさされた。顔、もう上げられない。神くんは時々さらりととんでもないことを言う。
ケーキを全部食べて、明日から頑張ろうって神くんが言って、帰ることになった。頭の中はぐちゃぐちゃのままで、自分が何を言ったのかはよくわからなかった。変なことを言ったかもしれない。
最後の日も宗太郎さんに送ってもらった。右の手首、宗太郎さんに掴まれるところ。何となく触るのが癖になった。左手でそこを触って、宗太郎さんの温かさを思い出す。
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