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 Call my name.02

 あれの性格をわかっていたのに夜遅くにいきなり訪ねた俺も、確かに悪かったかもしれない。でも、だからって来客中に部屋に閉じこもって出てこないのはどうかと思う。
 一時間、ソファに座って埃をかぶったテレビの画面を眺めてから立ち上がる。
 いつかの夜の記憶が甦って、まさか。いくら馬鹿だからって、まさか。
 階段を上ってドアの前。ノックはしないで開ける。案の定電気は消えていて、耳をすまして聞こえてくるのは規則正しい呼吸音。
 音をたてないようにドアを閉めて寄りかかって、見えない天井を見上げた。

 暗闇に目が慣れてきてぼんやり姿が見える。何も知らないで夢の中。
 起こさないように気をつけながらベッドに腰を下ろして、こっちを向いて寝ている馬鹿女に手を伸ばす。顔を隠していた髪をかき上げる。目を覚ます気配はない。
 初めてこの家に来たときも、こんなふうに無防備に寝ていた。
 あのときもこんなふうに、色気も何もあったもんじゃない寝姿に欲情した。見えない力に引っ張られるように唇に触れた。
 思い出して、体の中がざわめく。
「起きろ」
 のどに張り付いて掠れた声は夢の中まで届かない。揺するつもりで肩に置いた右手も動かない。動かない右手に体重をかけて肩を押して、顔を上に向ける。
(起きないほうが悪い)
 馬鹿げた言い訳をしながら、あの夜と同じように乾いた唇を親指でなぞる。
 あの夜と同じように、ベッドの端に腕をついて顔を近づける。

「ふが」

 唇が唇に触れる寸前。脱力して、奇妙な音を発した馬鹿女の首元に顔を埋めた。
「ん」
 くすぐったかったのか、一瞬小さな声が洩れてひやりとする。
 しばらくふごふご言っていた鼻はまた静かになった。目を覚ます気配はない。
(何してるんだ俺)
 一度冷静になった頭がまたおかしくなる前に体を起こした。
 鼻に、匂いが残る。甘いと感じる嗅覚はおかしいままなのかもしれない。
 眠っている間は触れても何をしても逃げないから、普段の不満を晴らしたくなる。けど。調子に乗って線を越えたらまずい。こんな状況で。孝太郎に偉そうなこと言ったって俺も同じ穴のムジナ。

 いつも会えるわけじゃないから一晩くらい。起こす気にもならないし、何かあるとは限らないけどないとも限らないから鍵もかかってない家に一人で置いていくわけにもいかないし。今はまだ、同じ空間にいるだけで我慢するから。
 いつかの夜と同じ言い訳を。しないでさっさと起こして帰るべきだった。後悔したのは数時間後。





 一晩飽きずに寝顔を眺めて、気づいたら外はもう明るくなっていた。
「ん、んー」
 変な声を上げながら、馬鹿女がゆっくり目を開ける。間抜け面。目が合って、俺に気づいたのか訝しげな表情を浮かべて起き上がった。半開きの目を何度か瞬いてから俺を見る。いつもは人の顔をなかなか見ようとしないのに、何故かじっと見つめてくる。
(時々、こういうこと、ある)
 目が。
 普段はまともに見ようとしないくせに。時々、心臓に悪い見方をする。
 真っ直ぐ突き抜けていくような。凶器。
 貫いて。
 心臓をぶち破って。
 それで壊れてしまってもいいと思えるほど。
 視線がふっと下がってベッドについていた右手に何かが触れた。
「何」
 俺の右手に触った別の手は、すぐに離れていく。離れていったら惜しくなった。何も言わなかったらずっとそのままだったのか。考えていたら衝撃。
 ありえない状況に混乱する。
「……何」
 いきなり抱きついてくるなんて、想像はできても予想はできない。
 これって手、出していいのか。
 一瞬よぎった思いを無理やり閉じ込めて、体を引き離す。
「寝ぼけんな」
 今手を出したら泣かれるのは目に見えているし、孝太郎に殺される。
 やっと離れた体が今度は寄りかかってきて、後悔。こんなことになるなら来なければよかった。
「昨日の夜、宗太郎さんがうちに来たよ」
 俺に寄りかかったまま。
「いつ帰ったのかなー」
「……帰ってない」
「んー……」
 帰ればよかった。
「次寝ぼけたら襲うぞ」
 冗談のつもりで言った言葉が、自分でも冗談に聞こえなかった。
 抱きたいと思うのは自然な欲求で元々隠すつもりはない。罪悪感を抱く必要もない。けど。相手が悪い。
(きれいな世界に生きているから)
 汚いものなんてそこらじゅうに転がっているのに、そんなものは見えてなくてきっと自分が一番汚いと思ってる。
 それに、少し声をかけただけで無意識のうちに体に力を入れられたら、こっちも下手なことはできない。
 邪魔な壁がいつもそこにある。どんなに無防備に見えても最後の一枚、ぎりぎりのところで硝子の鎧を着込んでそこには立ち入らせない。
 不意に重みが消えた。

「なんで、いる、の」

 やっと起きたと思ったら期待通りの一言。頬を思い切り引っ張りたくなった。やらないけど。
「あんたが、起きないから。つうか、来客中に寝るな」
「だって、いきなりで、どうしていいかわからなくて」
 絶対に目を合わせようとしないで、真っ赤な顔で。
「さっきの、違う。違うの、あの、夢だと思ってだから」
 さっきの。
「……夢だと人に抱きつくのあんた」
「え」
 つくづく馬鹿な女だと思う。いつもみたいに黙っていればわからなかったのに。
「ち、ちが、さっきのは、なかったことに」
「やだ」
「ごめん」
 来なければよかった。
 来なければ。
 会わなければ。
 欲しいと思わなければ。

 どこかで何かの糸が一本、切れた音がした。

 頭とは違うところに繋がってる感情に任せてベッドに押し付けた体。何が起こったのか明らかに理解していない顔。
「俺は言ったから、あんたも言ってよ」
 何を、とは訊かなかった代わりに赤かった顔がさらに赤くなって今にも泣き出しそうに歪んだ。
「やだ。どいて」
 肩を押さえていた俺の手をどかそうとしたのか、袖を引っ張ってきた。手に、直接触れてこようとしなかったことに無性に腹が立って、手首を掴んで押さえ付けた。
「や、放し、て」
 非力。大して力を使わなくてもあっさり押さえ込めてしまう。逃げようとしても無駄。
「太い腕のわりには力ないな」
 泣きそうなのを必死に堪えようとするから余計に酷い言葉を投げかけたくなる。
 どの言葉が一番傷つけられるか考えて、出てきたのは子供みたいな悪口だったけど効果はあったらしい。
 目に溜まった涙は今にも零れそう。そのまま、泣いてしまえ。

 唐突に溢れた。わけのわからない感情。
 俺の中の、きれいなものではないけれど心地いい、何か。

「伊織」

 溢れたそれが言葉になって落ちたのと同時に必死に堪えていたはずの涙が流れる。
「ごめん」
「なんで」
 名前を、呼んだだけだ。俺は。
「名前、わたしの名前。好きなのに、呼んでくれる人、みんないなくなって」
 いつもひとりだった背中を思い出した。この家にも他に誰もいない。母親と妹が死んで父親は帰ってこなくなった。俺が知っているのはそこまで。
(いつから)
 いつからひとりで。もしかしたら、初めて会ったときはもう。
「呼んでもらえたの、嬉しかったから」
 近いなと、今頃になって思う。
 夢みたいだと、馬鹿なことを思う。
 あの頃は姿を見かけるだけで満たされて、触れることは夢のまた夢だった。
 躊躇なんかしないで、もっと早く声をかければよかったのかもしれない。無理やりにでもいいからもっと早く踏み込めばよかったのかもしれない。ずっと、名前を呼んでくれる誰かを欲しがっていたのに。
「ありがとう」
 その目が、確かに俺を見て。
 体中、痺れて感覚がおかしい。
(のまれる)
「伊織」
 温い感情に押されて微かに笑んでいた口をふさいだ。
 一瞬沸騰してから緩い波が来る。触れ合っているところの熱さとは裏腹に、頭の奥は、冷たい感じがした。
(もっと)
 もっと。
 もっと。
 もっと。
 欲しい。感じたい。汚したい。全部。
「ん、む」
 微かに洩れた声も、逃げようとする舌も今は全部俺のもの。今だけは。





「そのへんでやめないと殺すよ」

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