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 空知らぬ雨02

「あの、今日は、本当にごめん。ありがとう」
 もっと一緒にいたいから、家まで送るよと言ってはみたものの、いつものように断られて玄関までお見送り。
「ん。それじゃあ、また明日」
「う、うん。バイバイ」
 まだ赤い目。ぎこちない笑顔を浮かべて小さく手を振った坂口さんを、このまま引き止めたらきっともう戻ることはできないんだろうと思った。坂口さんは泣いて、俺たちは満たされる。たとえその場限りのものであっても。



「つうか何あれ」
 向かいの宗太郎がテーブルに突っ伏して呻くように呟いた。
「もう二度とここに連れてくんなよ」
「それは、無理」
「だったら泣かすな。俺のいないときに呼ぶな」
「……気をつけます」
 確かに二人きりでさっきみたいな状況になったら、全部めちゃくちゃにしてしまいそうだ。坂口さんの泣き顔は、笑顔よりも凶悪。
「つうか、宗太郎も人の邪魔すんなよ」
 せっかく坂口さんが、あんな。
「でもまさか、坂口さんがあんなこと言うなんて思わなかった」

『ぎゅって、して』

 真っ赤な顔に、涙に濡れた目。震えた声で。いつか夢に見た状況と少しだけ重なって、坂口さんが本当にあんなことを言い出したらどうしようと、馬鹿みたいなことを考える。
 いざ求められたら、抱き締めてあげることもできないくらい余裕がないのに。
 ちらりとテーブルに伏せたままの宗太郎を見やる。何だかんだ言って、結局は宗太郎がいつも先を行く。俺ができないことを、いつも簡単にやってのける。
 でも、坂口さんは俺に手を伸ばした。宗太郎じゃない。
 違う。
 坂口さんが手を伸ばしたのは俺じゃなくて「やさしい神くん」。宗太郎はそのままの自分で坂口さんを掴まえたのに、俺は。

「「お前なんかいなければいいのに」」

 つい洩らした本気の言葉が、別の、でもよく似た声と重なって、笑った。
 思い知って、諦めて、覚悟を決めたはずなのに。お互い。
 宗太郎がいなければ余計なことも考えなくてすんだ。坂口さんを俺だけのものにできた。宗太郎がいなければ。
「やっぱ無理だろ。二人で一人は」
「でも、あれは一人しかいない」
「じゃあ宗太郎が諦めろ」
「それが無理なことは、お前が一番わかってるだろ」
 ああ、わかっているからどうしようもないんだ。
 何度目かの同じやりとりの後に辿りつくのは同じ結論で、出口は見えない。

「ちょっと外出てくる」
 嫌な気分を振り払おうと立ち上がったのと同時にコンコンと、ノックの音がして玄関に向かう。
「はい、どちら様ですか?」
『あ、あの、坂口、です』
 ドアの向こうから聞こえてきたのは、思わぬ人の声。慌ててドアを開けると息を切らせた坂口さんがそこに立っていた。
「あの、ごめん、定期、ポケットに入れてたはずなんだけど、なくて、あの、もしかしたら、神くんのとこに忘れたのかもしれなくて、だから、あの」
「いや、定期は見なかったけど」
 氷がとけるみたいに硬くなっていた気持ちが緩んだ気がした。
「え、うそ、どうしよう」
 坂口さんは慌てたように制服のポケットをしばらく探って、ぴたりと動きを止めた。
「あ、れ……?」
 坂口さんが取り出したのは茶色のパスケース。
「ご、ごめん。さっきは、見つからなかったんだけど。本当にごめん」
 見つからなかった定期に感謝しながら、そのまま帰りそうになった坂口さんを引き止める。

「俺のどこが好き?」

 言ってから、聞き方を間違えたことに気づいた。
 しばらくきょとんとした表情を浮かべていた顔が、だんだん赤くなっていく。
「え、え、どこ、って」
「あ、いや、ごめん、そうじゃなくて」
 そうじゃなくて、坂口さんは。
「やさしくない俺は、嫌?」
「……神くんは、やさしい、よ……?」
 坂口さんは困ったように俺を見上げて、すぐにまた俯いた。
「じゃあ、俺がやさしくなかったら、好きになってくれなかった?」
 好き、という言葉に反応したのか、坂口さんの体が一瞬小さく震える。
 やっぱり何でもない。
 そう言えば坂口さんは解放されて安堵するだろうけれど、今の俺にはそんなことを言う余裕はなかった。嘘でもいいから、坂口さんの口から違うという言葉が聞きたかった。
「あ、の、じ、神くんは、神くんで、だか、ら」
 さっきよりも小さな声が途切れ途切れに言った。それが坂口さんの精一杯の言葉だとわかっていたから、十分だった。
「あ……」
 不意に零れた俺の涙に気づいて、坂口さんが驚いたように声を上げた。俺は慌てて目元を右手で隠す。
「ん、ごめん、今は見ないで」
 人前で泣くなんて、いつぶりだろう。いきなり緩んだ涙腺に自分で驚く。
 でも、こんなに情けない姿を見せても坂口さんはそこにいてくれる。坂口さんは俺のことをやさしいと言うけれど、本当は坂口さんのほうがずっとやさしい。

 俺は、やっぱりこの人でなければ駄目なのだと思い知る。

 もう少し坂口さんのやさしさに寄りかかっていたかったけれど、いつまでも泣いているわけにはいかないから、袖で何度か拭って顔を上げる。律儀に下を向いていてくれた坂口さんも、はっと顔を上げた。
 坂口さんがいてくれれば他には何もいらないのにと、思ったのと同時に溢れそうになる別の感情。
(欲しい)
 どんどん大きくなるこの気持ちを、いつか抑えきれなくなりそうで怖い。
「坂口さ――」
 名前を呼びかけたところで、いつの間にか後ろにいた宗太郎の腕が首に絡んできて、引き戻される。

「バイバイ」

 俺が馬鹿なことを言い出す前に、宗太郎が一言。坂口さんも慌てて頭を下げて、バイバイ。口がそう動いたのを見てもう終わりなのだと自分に言い聞かせる。
 坂口さんが行ったのを見届けると宗太郎は俺から離れてドアを閉めてから、振り返って睨んだ。
「何、してんの」
「何って」
 坂口さんが欲しくてたまらなかったから。
「まだ早い」
「わかってる」
 でも離したくなかったんだ。

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