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空知らぬ雨03
笑ってほしいと思う気持ちと、もっと泣かせたいと思う気持ちは紙一重。ただ、あれの泣き顔は何故かきれいで、スケッチブックにも泣き顔が増えていく。
声も上げずにひとしきり涙を落とした後の、思いがけない一言と一緒に手を伸ばした相手は孝太郎。「やさしい神くん」を続けてきた孝太郎の努力も少しは報われてよかったとは思う。けど。それとこれとは別で。体は正直だから考えるよりも先に動いてた。
俺じゃなくて孝太郎に手を伸ばした馬鹿女の体を持ち上げて、とりあえず勢いに任せて抱き締めてみた。
別に華奢とかいうわけでもないのに、抱き締めた瞬間壊してしまわないか不安になって、心臓がおかしくなったから放した。
持ち上げたときの重みと、やわらかい感触が腕に残って微かに感じた髪の匂いに頭の芯が痺れる。
どうしてこんなふうになってしまうのか、自分でも不思議で仕方がない。
あれには変な力があるんじゃないかとか馬鹿みたいなことを考える自分を、どうしようもないとは思うけれどこれはこれでいいのだとも思う。
少しだけ、満たされた分余計に渇きを感じた。
だから孝太郎に八つ当たり。したら本気で存在が疎ましくなっていつものやりとり。
いつか破裂しそうな孝太郎は、何もわかっていないあれに救われてさらにはとどめをさされて暴走気味。
止めるのは俺しかいないから仕方なく止めて、その原因になったあれに苛立ってさっさと帰して、いなくなったら恋しくなって触れたくなった。
ずっと残しておくことのできない感覚を必死にかき寄せて留めようとはしても、どこからか漏れて薄れていく。
電話が鳴った午後九時前。
バイトに行った孝太郎の携帯は電池が切れたまま机の上に放置されていた。こういうこともあるだろうからと部屋にも電話を引かせた母親の顔を思い出して、そろそろ帰らないとまた困ったような顔をされそうだったから立ち上がった。
ついでに台所の隅で鳴っていた電話を取る。何となく予感。
『あ、もしもし、二年三組の連絡網、なんですけど』
上ずった声に顔が緩む。周りがどれだけ変わっても、この女だけはいつまでもずっと変わらずにそこにいるんだろうと思った。だから、安心するのかもしれない。
「孝太郎はバイト」
『え、あ』
しばらくの沈黙の後、再び受話器の向こうから声。
『明日の六時間目、カットって言ってたのは来週の間違いで、だから教科書とか忘れないようにとのこと、です。えと、神くんに、伝えておいてもらえますか』
「携帯には、かけなかったの」
訊いてから、孝太郎の携帯は電源が落ちたまま隣の部屋に置きっ放しになっていることを思い出した。
『え、あ、れ、連絡網だから、電話で、携帯にはかけちゃ駄目で』
何となく言いたいことを理解して、やっぱり馬鹿な女だと思った。
思ったついでに十一桁の数字を告げる。
『あ、の……?』
「携帯の番号。俺の」
『え、ちょ、ちょっと待っ』
そこで声が途切れて、紙が擦れる音と受話器を落としたらしい音がした。慌てすぎ。
『ごめ、あの、もう一度』
言われるまま、もう一度告げて、耳に響く声の心地好さに目を閉じる。
「孝太郎のほうに繋がらなかったら、こっちにかけてもいい。から」
『う、ん』
抱き締めたいと、唐突に思った。手の届く距離にいないことに苛立って、行き場のない思いはぐるぐる回って腹の奥。
あんなののどこがいいんだと、渉が飽きずに訊いてくるけど、どこがいいかなんて答えられるわけがない。自分でもなんでこんなのがいいのかわからない。わからないけど何よりも欲しているのは確かで、不可解。
『神くん、は、元気、ですか』
また、長い沈黙があって、切れるのを待っていたら震えそうな声が言った。
「そんなこと、本人に聞け」
『ご、ごめん。あの、今日、何か変で、だから気になって』
孝太郎が変だった原因が、自分にあるなんて思ってもいないだろう馬鹿女は、もちろん電話越しの相手の気持ちもわかるはずがないから苛々すること自体無駄。だと自分に言い聞かせる。けどそんなことで治まるわけもない。
「あんたにとって、孝太郎って何」
訊いたのは馬鹿女を困らせるため。昼間も孝太郎に絡まれて泣きそうになっていたから、今もそうなっているかもしれない。泣かせたら、それはそれでいい。
『……同じクラスの、人』
大分考えて出したらしい答えが、期待通りすぎて一人で苛々している自分が馬鹿みたいで、冷たい床に座り込んで大きく息を吐き出した。
「じゃあ俺は」
『その、お兄さん』
言葉に出すことが苦手なのはわかっている。だから余計に言葉が欲しくなる。
飢えすぎて、おかしくなりそうだ。
「好きって言って」
一瞬間があって。
『え』
電気もつけないで、こんな暗闇の中馬鹿女相手に何を言っているんだろうと、冷静なほうの自分は思って、冷静じゃないほうの自分はもう少しこのままでいたいと、どうしようもないことを思う。
「言え」
『な、なんで』
震える声に気持ちが昂ったのと同時に抱き締めたときの感触と匂いがリアルに甦る。それを逃がさないように、全身に刻み付けるつもりで息を止めて目を閉じた。
『じゃあ、宗太郎さんが、言ったら』
かろうじて聞き取れる程度の小さな声に酔って。
「好き」
まさか俺が本当に言うと思っていなかったのか、次の瞬間電話が切れて聞こえてくるのは無機質な音。
目の前にいたら、言うまで放さなかったのに。言っても放さないけど。
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