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空知らぬ雨01
神くんは時々怖いけどとてもやさしくて、宗太郎さんはいつも怖いけど不意打ちでやさしくて、だからそれに甘えてしまった。寂しくなったから会いに行くなんて。
衝動に任せて駅から家に帰る途中の道を引き返した。早足になってしまうのを抑えられなくて、会いたいって思う以外は何も考えてなかった。考えられなかった。
前は迷っていた道も、もう迷わなくなった。息を切らせて石段を上って、一番奥の部屋の前。ドアをノックしようとしたところで手が止まる。
越えてはいけない線を、越えてしまいそうな気がした。
その線を越えたら、二人がいなくなることに耐えられなくなってしまいそうな気がした。今更。
「あの」
ノックはできなくて、でもそこから動くこともできないでいたら知らない声。いきなり、かけられてびっくりして振り返った。
中学生くらいの、眼鏡をかけた男の子。知らない人のはずなのに何故か見覚えがあって変な感じがした。
「あ……伊織」
思わず見つめて、どこかで見たことがある気がするけど知らない人がわたしの名前を言ってもっとびっくりした。
なんで。
びっくりしたり怖くなったりぐるぐる考えていたら急に空気が変わった気がした。
「兄に何か用ですか」
向けられた感情が、嫌なものだったから、頭の中、一瞬真っ白になって。
「あ、に……?」
あにって、兄。って誰。
「用がないならどいてもらえますか」
「あ、ご、ごめん、なさい」
慌てて謝って、どうしてこの人に見覚えがあるのかわかった。
神くんと宗太郎さんに、似てる。
(弟)
神くんたちに他に兄弟がいるなんて考えたことなかったけど。
「兄たちが」
冷たい声色に、背中の辺りがびくりと震えた。この先の言葉を聞いたらいけないって思った。のに、両手が耳をふさぐ前に。
「あなたみたいな人を本気で好きになるはず、ありません。いつかきっと、他の人を選びます」
わかってるよ。そんなこと、誰に言われなくても自分が一番わかってる。
心の中で言って、思ったよりも冷静だった。
ちゃんと自分の足で歩いてるのわかったし、頭もすーっと冷めてた。
でも家に帰って、着替えて、布団に潜り込んだら泣くんだろうなと思った。
直接言われたことはないけど、ああいう感情を向けられたのはこれが初めてじゃない。自分が周りから疎まれているという事実にあるとき気づいてしまって、わたしはそういう人間なんだと思い知った。
だからおかしい。神くんと宗太郎さんの存在は。
(好きって、言ってくれた)
全部丸ごと信じたわけじゃないけど、宝石箱に入った宝石を見るみたいに、時々思い出してちょっとだけ幸せな気持ちになってた。
全部信じたわけじゃない。
だから大丈夫。
大丈夫だから神くんに何でもないふうに聞いてみる。
「神くんって、弟、いる?」
朝の教室。わたしが一番乗りで、それからちょっとしてから神くんが来る。たまに改札口のところで一緒になる。今日は一緒にならなかった。
二人だけの時間はほんの数分だから、神くんが後ろの席に座って「はよ」って言ってくれたのに返して、ちょっとだけ体を神くんのほうに向けて。
「弟? ……いるけど、なんでいきなり?」
聞き返されるなんて思ってなかったから慌ててしまった。
「あ、あの、この間、神くんちに行ったら、中学生くらいの男の子がいて、それで、何となく神くんと宗太郎さんに似てる気がしたから、だから、あの」
言ってから、そのときのことをはっきりと思い出して、のどと胸の辺りが凄く苦しくなった。
「そっか、言ってなかったっけ。何か坂口さんは何でも知ってるってイメージだったから」
「わたし、何も知らないよ」
思わず声が大きくなって恥ずかしくなってスカートを握り締めた両手を見つめる。
わたしは何も知らない。例えば神くんは甘いものが好きらしいとか、宗太郎さんは左手で絵を描くとか、そういうことしか知らなくて、神くんと宗太郎さんが本当は何を思っているのかも知らない。
「……って、うちに来たの?」
遅れたタイミングで神くんが言った。余計なこと言わなければよかった。言い訳を考える。
「あ、宿題、ちょっと、聞きたいとこ、あったんだけど、やっぱいきなり、迷惑かなって。思って」
頭の中いっぱいになってうまく言葉が出てこない。
「迷惑なわけないよ。いつでも大歓迎だから」
神くんは相変わらずやさしくて、それに縋りたくなる自分が、凄く嫌だ。
神くんだって、ずっとわたしにやさしくしてくれるわけじゃない。いつかは、いなくなる人。
わかってるのに。
ぎゅって唇を噛み締める。
「坂口さん?」
神くんがわたしの名前を呼んだのと一緒に、教室に誰かが入ってくる。
わたしは前を向いて、夢みたいな二人の時間はもうおしまい。
どんなことでもいつかは終わりが来る。
それだけのこと。
* * * * *
「坂口さん、ちょっとお話が」
下駄箱の前。上履きから靴に履き替えていたら声と一緒に影ができて、顔を上げたら神くんがいた。
「え」
「訊きたいことがあるんだけど、えーと、今日大丈夫?」
「え、何……?」
「弟のことでちょっと。学校だとあれだし、うちで話したいんだけど」
弟。宗太郎さんの弟は神くんで、神くんの弟はいないと思っていたけど本当はいて。嫌悪の空気。向けてきたあの人。
心臓のあたりが痛くなった気がして、嫌だって言いたかったけど言えなくて。
「駄目?」
神くんに、顔を覗き込まれながら言われたら断れるわけなくて。
神くんと並んで歩けないからわたしは神くんの少し後ろからついていく。神くんは時々わたしのほうを振り返って、でも何も言わなかった。
「お邪魔します」
緊張して声が震えた。靴もうまく脱げなくて転びそうになった。神くんがちょっとだけ笑った気がして凄く恥ずかしかった。
「今日は来ないんじゃなかったっけ」
ふすまを開けて神くんが誰かに向かって言った。ちょっとだけ冷たい感じがした。こわい。
「啓太郎が何か言ってたから」
宗太郎さんの声が返ってきて、心臓が一瞬縮こまった気がして、やっぱり来なければよかったって思った。
神くんのあとに続いて部屋に入って、前に来たときと同じところに座る。正面にはベッド。右側には宗太郎さん、左側に神くんがいて、つばを飲み込んで黒いテーブルを見つめる。
「あ、何か飲む?」
ちょっと迷ってから、首を横に振る。一瞬音がなくなって、宗太郎さんがもぞって動いた気配がした。
「結局啓太郎は何言ったわけ」
啓太郎。さっきも宗太郎さんは同じ名前を言った。それが多分あの人の名前。
「別に、何、も」
「弟は、結構酷いこと言っちゃった、みたいなこと言ってて」
神くんが弟って言うの、何か変な感じがする。
「だから、坂口さんが言いたくないなら無理に訊こうとは思わないけど、元気ないから気になって」
急に、涙が込み上げてきて、慌てて下唇をきつく噛んだ。こうやって、やさしい言葉をかけてもらえるのもきっと今だけ。わかってるはずなのに、駄目だ。わかってるけど、それじゃ嫌だ。今だけじゃなくて、ずっと。ずっと。
「大した、ことじゃない。から」
瞬きをしたら、堪えきれなくなった涙が溢れてしまった。いつの間にか見つめていた両手をちょっとだけ開いてから、またぎゅって握り直した。
神くんも宗太郎さんも何も言わなくて、わたしの涙も止まらなかった。時々近くの道を車が通る音が響いて静かだった。
神くんと宗太郎さんがいつかわたしの前からいなくなってしまうこととか、それを嫌だと思う自分とか、いろんなことが悲しかった。
「ごめん」
それだけやっと何とか絞り出して、早く帰らないと駄目だと思った。いきなり泣いたりして二人ともわたしのこと気持ち悪いって思ってるかもしれない。そう考えたらもっと悲しくなった。
「あー、もうごめん」
神くんの声と一緒に、急に視界が明るくなった。神くんの手が。
「啓太郎が坂口さんに何言ったかなんて、一応弟だし大体想像はついてたんだけど」
神くんが立て膝をついて、左手で抑えながらわたしの顔をタオルみたいなのでゆっくり拭いていた。瞬きをするたびに零れていく涙を見て、神くんは困ったように笑った。
「俺たちのことで泣いてくれてるって、自惚れてもいい?」
「そろそろ、帰らないと」
とんちんかんなことを言ったって自分でも思った。
「駄目」
そう言ったのは宗太郎さんで、怒ってると思ったけど思ったより怖い顔じゃなかった。
「ごめん」
反射的に謝って、ぼろぼろ止まらなかった涙がぴたって止まった。神くんの手が離れてタオルを渡された。
「ありがとう」
ちょっと迷ってから、涙の感触が気持ち悪かったから思い切ってそれで拭った。
「顔、洗ってくる?」
「だいじょ、ぶ」
やさしい声にまた泣きそうになって慌てて堪えて、今度はちゃんと我慢できた。ごめんって、もう一度言った。
神くんはとてもやさしいけど、わたしがそれに本当に甘えたりしたらきっと嫌がる。
(あ)
嫌がられたら。現実を突きつけられたら。それはそれで今のわたしにはいいかもしれない。このままずっと夢を見て、あとで傷つくよりは今この場で。
息を大きく吸い込んで座ったまま横にずれてちゃんと正座する。足、ちょっと痺れてる。
「あ、の」
甘えるときって、どうしてたっけ。小さい頃は。
埋もれていた記憶を少しだけ掘り返して、また埋め直す。
両手を神くんのほうに伸ばした。怖くて恥ずかしくて神くんの顔は見られなかった。
「ぎゅって、して」
言った瞬間、本気で消えてしまいたいって思った。失敗した。死ぬほど恥ずかしいってきっとこんな感じ。
行き場のない両腕を下ろそうとしたら。
「いい、の……?」
両腕を伸ばしたまま、恐る恐る神くんを見たら、真剣な顔をしていてどくんって心臓が鳴った。
(わたし、本当に最低だ)
あの人の言ったことは半分違って半分正しい。神くんと宗太郎さんはいつか他の人を選ぶかもしれない。でも。
(好きって、言ってくれた)
わたしのこと。今はわからないけどあのときは本気でそう言ってくれた。冗談とかじゃなかった。わたしはそれをわかってた。ちゃんとわかってるのに信じられないのは、わたしが自分のことしか考えていないから。
全部信じたら。
全部受け入れて、縋ったら。
またひとりになったとき、わたしは。
何度目かの涙が込み上げてきたら、両脇の下から急に体を持ち上げられて。
「え」
びっくりした次の瞬間にはさっきまで座っていたはずのわたしは立っていた。
「重い」
不機嫌な声がすぐ後ろから。
「ごめ」
言ってからあれって思った。何か苦しくて、背中が温かくて、知らない腕が。
(ぎゅって)
神くんは驚いたような顔をしてわたしを見上げているから、神くんじゃなくて。
「そう、たろ、さ」
うまく出ない声でやめてって言う前に腕が解かれて、一緒に力も抜けてその場に座り込んだ。顔が熱くて燃えてるみたいだった。
「坂口さん」
名前を呼ばれて顔を上げると、神くんが笑ってわたしの頭を撫でた。
「いっぱいぎゅってしてあげたいけど、今したら多分坂口さんのこともっと泣かせちゃいそうだから」
「神くんと宗太郎さんは、いつか他の人のところに行っちゃうって、言われた」
頭の中ぐちゃぐちゃで、自分で何言ってるのかわからなくなった。
「そうなったら、泣いちゃう?」
神くんが言ったのに頷いて、また泣きそうになった。
「ごめ、ん」
「いちいち謝んなくていい」
いつのまにかまた元の場所に座っていた宗太郎さん。いつもと同じ感じの言い方だったけど、いつもよりやさしく聞こえた。
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