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涙で濡れた瞳で自分を見つめる茜。
誰よりも愛しいと思う。
今まで散々抑えてきたものが、一気に溢れ出てしまわないように気をつけて、もう一度ゆっくりと唇を重ねた。
10.あかね
浩行には両親に愛された記憶がない。あるのは愛されなかったという記憶だけ。気がついたら施設にいて、気がついたら立花家の養子として新たな生活を送っていた。
それまでの空白を埋め合わせるには十分すぎるほどの愛情を、新しい両親は与えてくれた。そのおかげで道を大きく踏み外すこともなく成長できたのだと思う。
ただ、余計だったのが浩行が十歳のときに生まれた、妹。
茜と名づけられたその小さな命を浩行は愛してしまった。
目に入れても痛くないとはこういうことなのだと、知った。
ずっと、あのままだったらよかったのにと何度も思う。
何も知らず何もできない赤ん坊のままでいてほしかった。
――おにいちゃん、あのね、あかね、おにいちゃんのこと、だいすきなの。
あどけない笑顔で、体いっぱいで自分に気持ちをぶつけてくる茜が疎ましいと感じるようになったのはいつの頃だったか。
疎ましいというのは、嘘かもしれない。
怖かったのだ。
浩行は無償の愛を受けたことがなかった。新しい両親はあくまで浩行の両親という役目を負ったから愛してくれただけ。けれど茜は、何も知らずに当たり前のように浩行を愛した。自分に向けられる茜の剥き出しの愛情が怖かった。
そして何よりも、自分自身の想いが怖かった。
自分の中にある茜に対しての想いがいつか茜を傷つけてしまいそうで。
その執着心は、自分でも異常だと思ったから。
だから突き放したのに、茜は。
突き放しても突き放しても、金魚のフンのごとくついてくるから。
まだまだ子供だった浩行もかなりむきになって苛めていたら、あるときを境に茜の態度が変わった。やけに反抗的になった。それでも泣きながら、大嫌いだと言いながら、そのくせ時々浩行の布団に入り込んでくるところは変わらなくて。
愛しているから、離れたかったのに。
傷つけたくないから、遠ざけようとしているのに。
そう思いながらも、自分にしがみついてくる小さな体をいつも抱きしめずにはいられなかった。
「茜を預かってくれない?」
いきなりやって来た容子が浩行にそう告げたのは、十日ほど前のことだった。
「お断りします」
考える間もなく浩行は即答して、容子の前にコーヒーを差し出した。
「久しぶりに茜に会いたいとか思わないの?」
「思いません。大体俺は、今の茜に手を出さない自信がありませんよ」
半分冗談、半分本気で言った。
容子の向かいに腰を下ろし、自分もコーヒーに口をつける。
「出すならさっさと出しちゃいなさい」
あっけらかんと言い放つ容子に浩行は大きく息を吐き出した。
容子には浩行が茜に妹として以上の感情を抱いていることも、知られていた。
今までそのことで何かを言われたことはなかったけれど。
「俺が何のために出て行ったと思ってるんですか」
浩行が立花家を出ると決意したのは、まだ小学生の茜を妹として見られなくなってしまったとはっきり確信したとき。
茜のことは諦めるつもりだった。手放すつもりだった。そのつもりであの家を出た。すっぱり縁も切って。
「あの頃は、浩行のことを受け入れるにはまだ茜は小さすぎたから、私もあなたが出て行くことを止めなかったけど、茜はもう十七なのよ。いつまでも子供のままじゃない。それこそしようと思えば結婚だってできるの。我慢できるの? 茜が他の人のものになっても」
「それは」
「茜のこと、そんな簡単に諦められるほど浅い愛情じゃなかったでしょ」
まだ未練たらしく、茜の幼友達の少年に茜の様子を聞いている自分に苛立ちを覚えていた浩行は、容子の言葉を否定したくても何も言い返せなかった。
「茜のためを思ってしていることでも茜にとっては、あなたに突き放されることが一番辛いのよ」
一緒にいても、きっと傷つけてしまうから。
それは結局、茜から逃げるための言い訳だったのかもしれない。
一番恐ろしかったのは、自分の中にある深すぎる茜への愛情。
『あの、どちら様ですか?』
顔だけ覗かせ、そう尋ねてきた茜。容子に押し切られて茜を預かることにしてしまったことを後悔した。
そして、茜を手放したことをそのとき初めて、死ぬほど後悔した。
諦めていたはずの想いは昔よりも遥かに膨れ上がっていたことに気づき、同時に諦めていたのではなく、逃げていただけだということを悟った。
ただ、これまで耐えてきた時間を無駄だったと思いたくないという意味のないプライドで、無理やり自分の気持ちを押し込め、自分を見上げてくる茜を抱きしめたいという衝動も抑えた。
他の女で欲求を紛らわせ、茜が自分から出て行くようにまるで子供みたいな嫌がらせをしてみたり。
初めからそんなことは全て無駄だったのだと、茜に口付けを落としながら浩行は思う。
茜が本気で嫌がればどうしようもないが、少し捻くれただけで昔と何も変わっていなかったから。
いつか答えを出そうと自分を誤魔化すために持っていた薄っぺらい紙一枚でも、茜を自分のもとに縛り付けられるのならいくらでも使ってやる。
もう逃げない。
もう、放さない。
この世に生を受けて間もない茜を、初めてこの腕に抱いたあのときから、自分はずっと茜に捕らえられていたのだから。
「茜」
名前を呼んで、頭を撫でる。まだ茜が小さかった頃によくしたように。
「おにい、ちゃん」
もう、茜の兄ままでも何でもいいと思った。茜を抱きしめていられるのなら。
「茜は、俺のものだ」
もう一度、低く囁いた。
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