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 左手にクソ兄貴の唇が触れる。
 あたしはクソ兄貴の言葉を頭の中で繰り返し、その意味を考えて一つの結論に至った。


  09.X X X


「手、放してよ」
 左手の小指、クソ兄貴の唇が当たっているところが、体中の血液が全部そこに集まってしまったみたいに熱い。
「お兄ちゃん」
「名前、書いたら放してやるよ」
 うあ、だから唇当たってるんだってば。
「だから出て行くって言ってるでしょ」
「どこにも行かせないって言っただろうが」
「ふ、ふざけないでよ!」
 こいつは、一生あたしをこき使う気だ。
「冗談じゃないからね。あたしはお兄ちゃんのものじゃないんだからっ」
 力に任せて左手を引っ張る。正確に言うと引っ張ろうとした。びくとも動かないあたしの左手。クソ兄貴の息がかかってくすぐったい。
 あたしがバカだった。クソ兄貴が結婚なんて重大なことだと思っているわけがなかった。
 都合のいい道具を縛り付けるためだけの、ただの契約。
 こいつはあたしを一生縛り続けて、こき使って、自分は好き勝手やる気なんだ。
「てめえが最初に言ったんだろうが」
 やっと唇がちょっと離れて、クソ兄貴が言った。
「『茜、絶対お兄ちゃんのお嫁さんになるの』って」
「なっ、そんな大昔の話を今持ち出さないでよ!」
 まだ純真無垢で何も知らなかった幼いあたしが口走った、消せるものなら消したい過去の失言。今ならはっきりと思い出せる。そのあとクソ兄貴に蹴りを入れられ転んだ挙句、生まれて初めて鼻血を出したことも。
「あたしはお兄ちゃんとは違って優しくて、もっと節操のある人と結婚するの! 大体一生こき使われるなんて絶対に嫌!」
「誰もこき使うなんて言ってねえだろ」
「じゃあ何でこんなものに名前書けなんて言われなきゃなんないのよ!」
 不意にあたしの手を掴んでいたクソ兄貴の手が緩んで、あたしは慌てて左手を自分のほうに引き寄せた。
「どうせカノジョはいっぱいいるんでしょ。そのうちの一人に頼んだら?」
「やきもちやいてんのか」
「ばっ、かなことを言うなー!」
 思わずクソ兄貴を叩こうと振り上げた左手を、また掴まれた。
「だ、大体仮にも妹に結婚しろってどういう神経して」
 指が、絡んできた。クソ兄貴の指があたしの指に。さっきから何をしたいんだ、こいつは。
「昔はあんなに素直だったのに、どこをどう間違ったらこんなに捻くれるんだか」
 わざとらしくため息をついて、それでも指は絡めたまま。
「誰がその原因を作ったと思って」
「元はてめえのせいだ、ボケ」
 クソ兄貴が立ち上がる。手を掴まれていたから、あたしも引っ張られるように立ち上がった。
 それから、あたしはさらに強い力で引っ張られバランスを崩した。
 倒れた先にはベッド。あたしは背中からそこに沈み込む。
「いきなり何す……!」
 体を起こそうとして、息を呑む。目の前にクソ兄貴の顔が。
 妙に懐かしい感じがしたのは、いつの間に外したのか眼鏡をかけていなかったから。
 ……これはあれか。押し倒されているとでも言うのか。
「いいか、俺はもうてめえの兄貴はやめる」
 あたしに覆いかぶさって、クソ兄貴が言う。
「なん、で?」
 どうしていつもこんなに唐突なんだ。
「血が、繋がってないとか、そういうのがあっても、あたしにとってはお兄ちゃんで」
「俺にとってはもう妹じゃない」
 何も、そんなにはっきり言うことないじゃないか。
 あたしはクソ兄貴を押しのけようと胸に両手を当てる。
「ちょっと、どいてよ」
「……ちゅう、して」
「は!?」
 真顔でいきなり何を。とうとう頭がおかしくなったか。
「って、いつも"おにいちゃん"にキスせがんでたのは誰だっけ。あの頃はもう少し可愛げがあったのに」
 う、わああああ! 昔のあたしのバカー! 何でそんな恐ろしいことを……!
 落ち着け、落ち着くんだあたし。こんな奴の言葉に惑わされるな。
「あ、あたしはもう昔とは違うの」
「俺のことが大好きなのは変わんないだろ」
 すぐに言い返せなくて、あたしは思わず目を逸らした。
 自分の気持ちがわからなくなってる。
 クソ兄貴がお兄ちゃんじゃなかったらよかったのにと思ってたのに、実際そうなったら何だか嫌な感じがした。
 大嫌いだと思う気持ちはあるのに、それでもお兄ちゃんでいてほしいと思う。
「あたしは」
 うまく言葉が出てこなくて口を閉じる。
「茜は」
 十数センチ先、クソ兄貴の唇が動く。
「俺だけを見ていればいい」
 言われて、頭に血が上った。あたしは今まで。
「ずっと、見てたよあたしは! でも、お兄ちゃんは」
 あたしのことを嫌っていたから。そう言おうとしてやめた。
 やっと、わかったような気がした。
 あたしは知ってしまったんだ。クソ兄貴があたしのことを愛してくれないことを。幼い頃は知らないでいられたその事実を、知ってしまったから。
「お兄ちゃんが、いけないんだ」
 絶対こいつの前ではもう泣かないって決めてたのに、目の前がぼやけて、こめかみの辺りが冷たくなってくる。
 クソ兄貴の胸を押していた手で目をこすろうとしたら、その前に何かにぶつかった。
 さっきまで十数センチ先にあったはずのクソ兄貴の顔が、明らかにそれよりも近くにあって、視点が定まらないのは涙のせいだけではない。
 唇に、何か当たってるんですが。
 あたしが自分の状況を理解する前にそれはあたしの唇から離れた。
「だから、今までの分まで愛してやるって言ってんだよ」
 だから、いつもいきなりすぎるって言ってんだ。


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