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クソ兄貴が家を出て行ったあの日、あたしはやっぱり悲しくて泣いたんだろうか。
8.交換条件
過去に飛んでいた意識が現在に戻る。あたしははっと我に返った。
……もの凄く気まずい。
かなり恥ずかしいことを言ってしまった。
お願いだから何か言ってください。バカでもボケでもいいから。
急に黙りこくったクソ兄貴のほうをちらっと見てみる。
思いがけずクソ兄貴と目が合ってしまい、あたしは慌てて目を逸らした。
そもそも、クソ兄貴とあたしの間に共通の話題なんてそうそうあるものでもなく。ええと、ええと。
「あ、あのさ、それで他に何か用はないの?」
……無視かい。
「ええと、まだ帰らないの?」
結局クソ兄貴は兄ではなくて、それでもやっぱりあたしのお兄ちゃん。それでいいことにした。
いつまでも考えていても仕方がない。それこそ泥沼にはまってしまいそうだし。
つまり話し合うことなんてもうないのに、背広のまましっかりコタツで温まっているクソ兄貴。
他に用がないならさっさと帰れ。
「てめえも帰るんだよ」
やっと返したと思ったら。
「は?」
「何か文句あんのか?」
大ありですとも。
あたしが何でここにいると思っているんですか。
「今夜は知り合い泊めるんでしょ」
「やめた」
やめたって、いきなり何でさ。
「あたしは帰らないからね。今日はアキちゃんと一緒にいるんだから」
「じゃあ二度と帰ってくんな」
「な、何でそういう結論に達するの」
「やっぱりお前、出て行け」
「だから何で」
クソ兄貴が上着のポケットを探って、何かを取り出した。折りたたまれた紙。
広げてコタツの上に。
目に飛び込んできたのは漢字で三文字。
婚姻届。
「え」
しかも立花浩行って書いてあるのは見間違いではなく。
相手、誰だ。夫になる人、立花浩行。妻になる人、空欄。まだ書いてない。
用紙の下のほう、ちゃんと署名と捺印入りで。
「結婚、するの?」
「しなきゃこんなもん書かねえよ、ボケ」
おそらくクソ兄貴の本性を知らずに結婚する、可哀想な人は誰だ。誰。だれ。
結婚相手がいるくせに何人もの人と付き合ってたんだ。うわ、最低。
ああそうか。だからあたしに出て行けと。結婚生活にあたしは邪魔だもんね。だったらさっさとそう言えばいいのに。
「何だ。大丈夫、そう言うことならあたしはさっさと出て行くから」
何故か頭の中真っ白になりかけてる。
結婚、いつかはするだろうと思っていたけど、まさかこんなにいきなり来るとは。
クソ兄貴のことだから、どうせ浮気ばっかするに違いない。
それとも案外落ち着くのかな。自分の選んだたった一人の人を愛して。
選ばれた人。たった一人。クソ兄貴に。愛されて。
「名前」
クソ兄貴の唇が動いて。
「さっさと書け」
目の前にペンを差し出されて。
「どこに?」
あたしは普通に訊いて。
「ここに」
長い指が示す、空欄。届出人署名押印、夫・立花浩行。その隣、妻の欄。そこに名前を。
「書けって誰の名前を」
クソ兄貴は空欄を示した指を持ち上げて、何をするのかと思ったらあたしの鼻を押しやがった。
「ふが」
「ぶた」
こ、こいつは……。
「出て行かないならてめえの名前を書けって言ってんだよ、ボケ」
「は、い?」
「だからいい加減日本語くらい一回言ったらわかるようになれ、バカ」
だから日本語じゃなくてあなたの言っていることがわからないんです。
「……これって本物、だよね」
「見りゃわかるだろ」
出て行かないなら本物の婚姻届に名前を書けって、それは。
そこまでしてあたしを家から追い出したいのか。
とりあえずあたしの鼻を押し上げたままのクソ兄貴の指をどけようと、左手を持ち上げた。
持ち上げた左手を、あたしの鼻を押し上げていたクソ兄貴の右手が不意に掴んだ。
中身は冷たいくせに温かい手。
「……やっぱやめた」
あたしの左手を掴んだままクソ兄貴は言った。
だから何を。いつも肝心なところが抜けてるんだ。
ぼんやりしてたら左手をクソ兄貴のほうに引っ張られる。
左手を、口元に持っていかれる。クソ兄貴の。
「お前は俺のものだ。どこにも行かせない」
左手が、熱い。
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