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 そこにいたのはスーツに眼鏡の男。
 まぎれもなく、あたしの兄だった男。


  07.お兄ちゃん


 のぼせていたあたしは、ぼけっとそのまま固まった。
 何でこの人がここにいるんだろう。あたしを追い出しやがった張本人が。
「遅いんだよ、ボケ。さっさとしろ」
 何をさっさとするんだろう。
 ぼーっとした頭のあたしは、言うことだけ言ったクソ兄貴が、去り際に残した一言に我に返った。
「貧乳」
 ふふんって感じで鼻で笑いながら。
 ドアが閉まったのと同時にあたしは手に持っていたバスタオルを落とした。
 今のはきっと空耳に幻覚だ。
 クソ兄貴にこき使われてきた疲れが今になってこんな形で一気に出てきたんだ。そうに違いない。
 とりあえずこの場はそう思うことにしてあたしは何とか悲鳴を上げないで済んだのだった。


「ひっ」
 何事もなかったかのようにパジャマに身を包み、アキちゃんの部屋のドアを開けたあたしは、思わず声を上げた。
 コタツに入ったアキちゃんの横、ベッドの上に足を組んで座っていたのはまぎれもなく。
「お、にい……ちゃん……」
 一瞬意識が飛びそうになり、それれからすぐに頭に血が上った。
「あ、あたしのどこが貧乳なんだ!」
 これでも人並みにはあるはず、って怒るところを間違えた。
「じゃなくて、人の裸をよくも」
「いまさらそんなことで一々騒いでんじゃねえよ」
 へって感じで。こいつは鼻でしか笑えないのか。
「い、いまさらって」
 そりゃあ、昔はお風呂はクソ兄貴と入ってたけど、でもそれは遠い過去の話で、今は花も恥らう十七歳。行き場のないこの恥ずかしさと怒りをどうしようかと考え、それから。
「って何であんたがここにいるの!?」
「あんた?」
「……何でお兄ちゃんがアキちゃんちにいるんですか」
 今夜はあたしを追い出して女の人を連れ込む気じゃなかったんですか。
「僕が呼んだの」
 アキちゃんが相変わらず可愛い笑顔で言った。
「アキちゃんが?」
 何て余計なことをしてくれたんだ。今夜はアキちゃんと二人だけで幸せなときを過ごす予定だったのに。
 て言うかクソ兄貴はアキちゃんの言うことなら聞くのか。あたしだったら絶対無視するくせに。
「一度二人でちゃんと話し合ったほうがいいと思って」
 天使の笑顔で言う言葉は結構残酷だったりするのね。ちょっとアキちゃん何で立ち上がろうとしているの。まさか、まさか。
「だからあとは二人でね。僕は別の部屋にいるから。ごゆっくりどうぞ」
「い、やだー! アキちゃん行かないでよ。こんなのと二人にしないで」
「こんなの?」
 いちいち人の言うことにつっ込んでくるな。クソ兄貴のくせに。
「アキちゃん」
 とりあえずクソ兄貴は無視して、出て行こうとするアキちゃんを引き止める。
「行かないで」
 うるうる涙目でお願い攻撃。
「こういうことはね、やっぱり当事者だけがいいと思うんだ。僕はきっかけを作っただけで全くの部外者だから」
 そんな無責任な。こういう状況にしたのは誰だ。しかもアキちゃんにはうるうる涙目でも駄目なのね。
「じゃ、頑張ってね」
 無情にもドアは閉まる。あたしはクソ兄貴と二人きり。
 ……こうなったら腹をくくるしかない。
 クソ兄貴のほうは見ないようにしてあたしはコタツに入る。
 濡れた髪をタオルで拭いて、沈黙。
 左斜め前に見えるクソ兄貴の足が動いて、コタツに入ってくる。
 あたしの左斜め前。
 何だか、緊張する。この人がこんなに近くにいるのは久しぶりのような気がする。
 この三日間を思い返してみると、一緒にご飯を食べたわけでもなかったし。
「で、どこまで聞いた?」
「え、あ、はい?」
 いきなり言われてあたしはちょっと慌てた。
「アキから」
 アキってアキちゃん。どこまでってどこまで。
「お兄ちゃんはお兄ちゃんじゃないって」
 昔はかけていなかった眼鏡の向こう側、あたしとはやっぱり似ていない切れ長の目を見て、他人事のような感じで言葉が出た。
「養子って何。お兄ちゃんは誠さんと容子さんの子供じゃないの?」
 自分で言ってから気づいた。クソ兄貴は、お父さんお母さんなんて呼んだことがなかった。誠さん、容子さんって呼んでいて、だからあたしも当たり前のようにそう呼んでいた。誠さんにも容子さんにも、お父さんお母さんと呼びなさいとは言われなかった。
「どうして、あたしには何も言ってくれなかったの」
「そうする必要がなかったからに決まってんだろ」
 クソ兄貴は頬杖をついて、視線をあたしに向ける。
「それで、お前はどうしたい」
「何が」
「兄貴でもない男のところにいるのが嫌なら北海道に行け。容子さんだってその辺はわかってくれるだろ」
 クソ兄貴に兄であることを否定されて、あたしは思わず口走った。
「お兄ちゃんはお兄ちゃんだもん」
 ああ、あたし、やっぱりブラコンってやつだったんだ。


 遠い昔の記憶。
 あたしは寝ているクソ兄貴が好きだった。
 クソ兄貴が世間の"お兄ちゃん"とは大きく違うのだと知り、大好きから大嫌いに変わっても、怖い夢を見たときやどうしても一人で眠れないときは、いつもクソ兄貴の布団にもぐりこんだ。クソ兄貴の腕の中で体温を感じて、心臓の音を聞けばどんなときでもぐっすり眠れた。
 時々クソ兄貴の手が寝ぼけてあたしの頭を撫でるようにしたり、抱きしめたりしてくれたりするのが嬉しくてたまらなかった。たとえ翌朝はいつも床に放り出されていたとしても。
 それが唯一クソ兄貴が“お兄ちゃん”だった記憶。


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