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とうとうやって来てしまった運命の日曜日。
この数日あたしが頭痛と吐き気と腹痛にどれだけ悩まされてきたか、のん気に車を運転している誠さんと、その横で鼻歌なんかを歌っている容子さんは露ほども知らない。
02.クソ兄貴現る
悪魔の住処は至って普通のマンションの四階にあった。
引越しセンターに任せたあたしの荷物は、すでにあたしの部屋になる予定のところに運び込まれていた。
部屋の間取りはよくわからないけど、2LDKというやつで、玄関を入ってすぐ左側にあるのがあたしの部屋らしい。
せめてもの救いは、仕事か何かで帰りは夜であの悪魔が今はいないことだった。
クソ兄貴のような極悪人を雇う会社があるって言うんだから驚きだ。まあ、昔から外面だけは殺してやりたいくらいよかったけど。
「それじゃあ、私たちもまだ色々とやらなきゃいけないことがあるから、もう帰るわね。あとは一人でできるでしょ」
着いてそうそう容子さんの冷たい言葉。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
七年間も会っていなかった赤の他人のような人の家で一人でいろと。
しかもこれから帰ってくる悪魔と一人で再会しろって言うのか。
薄情な両親は可愛い一人娘の切実なお願いを完全に無視して、本当に帰りやがった。
……ええと、とりあえず荷物の整理をさっさとしよう。
ああ素晴らしき現実逃避。
ダンボールの中の衣類やら本やら小物やらをクローゼットや本棚に全部移し終えた頃には、時計の針は六時を回っていて外はすっかり暗くなっていた。
空のダンボール箱に囲まれて途方に暮れる。
やばい。本当に吐きそう。これはある意味拷問かもしれない。せめて何時に帰ってくるのかくらいちゃんと訊いておけばよかった。
じっとしていられなくてあたしは立ち上がった。
恐る恐るドアを開けて顔だけ出す。左の突き当たりにあるのが多分リビングで、廊下を挟んで斜め向かいにあるのが悪魔の寝床。トイレとバスルームはあたしの部屋の隣にあるみたい。
右手に玄関があって、そこのドアが開く気配はない……ってドアノブが回ってる――!?
出したままの顔を引っ込める間もなく無情にもドアが開いた。恐怖と緊張で体が動かない。
入ってきた男を見てあたしは別の意味で固まった。
二十代くらいのスーツ姿の男。背が高くて、細めのシルバーフレームの眼鏡をかけていて、そんでもって見たことのない人。
何で知らない人が入ってくるんだ? もしかしてあたしが間違えた? いやいや、そんなはずはない。じゃああっちが間違えたのか。普通に靴脱いでるけど。
「あの、どちら様ですか?」
勇気を振り絞って訊いたら男があたしに視線を向けた。そう言えばあたし、顔だけ出しててすっごい間抜けかも。
知らないその人はレンズの奥の目を僅かに細め、それからおもむろに口を開いた。
「バカネ、てめえの記憶力は犬以下か」
――うわぁん、おにいちゃーん、どこぉ? ひっく、あかね一人じゃおうちに帰れないよぉ。
――おにいちゃん、やだ、あかね泳げないの。おぼれちゃうよ。やだ、手はなさないで、おにいちゃ――ブク、ゴボ……。
封印していたはずの、数え切れないほどの思い出したくもなかった恐ろしい記憶が、一気に映画のように鮮やかに甦った。
頭で考えるよりも先に体が勝手に動いて勢いよくドアを閉めた。防御本能。
本気でバカにしてる言い方で、しかもそういうときにバカネってくそむかつく呼び方であたしを呼ぶのは一人しかいなくて。
心臓がやばい。
うわあああああ、一瞬でもちょっとかっこいいかもと思ってしまった自分を呪いたい。
ノブを握り締めたままで動かなくなっていた両手を開こうとしたら、向こう側からノブを回される。動けあたしの手! ドアが開けられる寸前に何とか両手がノブから離れた。
あたしの前には、昔兄だった知らない人が立っていた。
「挨拶は?」
聞きなれない低めの声。悔しいけど形のいい唇の動きを見ていたあたしは、少し遅れてから音の意味を拾った。
「あ、う、えーと、こ、こんばんは……?」
「この上なくバカで役立たずの邪魔者を家に置いてやる、優しいお兄様に対しての挨拶は?」
……もしかしたら、万が一にも0.000……1パーセントくらいの確率で、昔とは少しくらい変わっているかもしれないと期待していたあたしがバカだった。
「今日から、お世話に、なります」
「掃除、洗濯、食事の支度」
「え?」
「あとゴミ出しもか。今日から家事は全部お前がやれ」
「は?」
絶対に七年ぶりに妹に再会した兄の言葉じゃない。
「何であたしが」
「もしくは家賃半分。嫌なら出て行け」
反論する間もなく言い切られて。
「わかり、ました」
鬼、悪魔、冷血人間。口に出したら殺されるから言わないけど。
この悪魔は、両親にも見捨てられてどこにも行く当てのない可哀想な妹を、寒空の下に放り出すことくらい平気でやる。
サヨナラ、あたしの青春。サヨナラ、平和な日々。
クソ兄貴に脅されながらこき使われる生活を送ることは確実だった。
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